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2005年8月 8日 (月)

渋谷の夜のスプラウト

『スプラウト』を見る。ただ、雰囲気がほしいな、と思って、その前に中華屋さんで生チューとチャーハン。ところで、チャーハンに、酢をガーッとかけて食べるの、私は好きなのですが、こういうの、普通の食べ方なのでしょうかね。一度、自分でチャーハン作るときに、酢を入れる、ということを意識したチャーハンを、と考えているのですが(味ぽんとかで味付けしたらうまそうだな)、まあ、そんなことはともかく。まだレイトショーの時間に、ある、ので今度は輸入酒屋さんで、スウェディッシュ・ウォッカなぞを購入。このとき、ベネズエラのラム、マルチニーク島のラム、とかなり迷う。何本も一気に買うと、また、今日の夜の目的が変わってきてしまうので、一本にしておく。さて、『スプラウト』鑑賞。ドキュメンタリーとフィクションの違いをあらためて思い知らされる。ドキュメンタリーって、被写体となる人間が、100%完璧に、その映画の中で説明されないといけないことが全くなく、特に『スプラウト』なんかも「君たちもしってると思うけど、彼。彼ね。」みたいな感じの紹介のされ方と感じる。彼らは、もちろん、実在の人物だから、いろんなところで、僕たちの目や耳に触れることもあったろうし、そういう中の延長として、この長編フィルムがある。だが、例えば「CUT」でスネーク・プリスキンのロング・インタビューなんて、ないですからね。(あったら、チョーおもろいんですが)。その辺がドキュメントとフィクションの大きな違いのひとつだろう。だから、『スプラウト』も、被写体となった著名サーファーたちが、その一部を映像で切り取られた、でも、全体像に触れるチャンスはもちろん、これからある、という開放感。でも、これって、もともとの映画の持っていた緊張感からは逸脱してきている。べつにそれが悪いといっているのではなく、時代が要求するものって変わってきたのだなぁ、ということです。と同時に、フィクションが魅力を失いつつある、というところも、ないではないと思う。自分にとっては『スプラウト』の心地よさと、ローカル線を旅する心地よさは、根っこは同じという気がするのだ。しかし、渋谷の夜、って感じでしたなぁ。学生時代、こんな感じで渋谷のレイトショー見たら、ちょっといい感じだったんだよなぁ。(ちなみにそれは『ストップ・メイキング・センス』の頃)

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