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2005年11月30日 (水)

転がれたまこ

『転がれ!たま子』。ビジュアル的に『アメリ』と『ぼくは怖くない』であります。なんというか、いろいろと、突き抜けないものを感じずにいられないのですが、それは、まだ若い監督だから、ということで済ませましょうか。それとも、若い監督にベテラン技術スタッフという、なかなか、おそらく現場は苦労したろうな、という感じから出てくるものでしょうか。途中からなくなってしまうオシャレなナレーション(前半の、ナレーションでシーンや登場人物の過去を解説していくくだりは、新しい!)と、ぎこちないリズムのカット編集は、すわり心地のムズムズする新人系監督ならではのものを感じてよかったのですが、どんどんストーリーがドラマ性を失っていき、ラストには、「すべてがハッピーエンド」という、ドラマ性ゼロの状態に帰結する、すなわち「ハッピーエンドほど、実は観客にとって退屈なものはない」ことを証明するかのようなラストにたどりつく。まるで、人生、夢は現実にならないぐらいの夢を設定すべきだ、といわんばかりだ。もしくは、この<自己実現>のみを表に出してしまったことがその原因なのかもしれない。同じく新人系女性監督の空気的傑作『犬猫』やアブノーマルなストーリーを普通に見せてしまう力技の『バーバー吉野』のように、肩に力を入れない、特にドラマを意識しない、そんな立ち居地の設定の方が自分にはしっくり来るのだった。まあ、自分が夢実現から逃げているだけだからかもしれないけれど。

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2005年11月24日 (木)

ダーク・ウォーターとALWAYS

六本木で2本鑑賞。六本木TOHOシネマの、上映時のマナー等々の案内フィルム、粋ですねぇ。さすが、外国の方がたくさんこられる劇場ならではのウイットとエンタテインメント性が「案内」にさえあることにちょっと感動。さて、『ダーク・ウォーター』。ストーリーの丁寧な語り口と、ハリウッド映画らしからぬ(監督のサレス以下、スタッフにかなりラテン系がいらっしゃる。ハリウッド系の仕事はまだ少ないスタッフ陣)画面作りも丁寧でアートっぽくて、しかも、ちょっとした?ストーリーなのに、ものすごい芸達者ぞろいの特に男優陣にびっくり。だからか、ちょっとした仕草にさえ、多くのドラマが込められているように思える。すごくドラマ・ストーリー自体はシンブルにして、その分、名優たちの存在感で埋めている感じだが、悪くないです。そして『ALWAYS 三丁目の夕日』。これまた、「マグノリア」型群衆ドラマ。どの役者も、自分の「あまり、こういう役は演じたことがない」役を楽しんでいるというか。日本の観客に見せる分にはもちろんいいのですが、かなり「XX新喜劇」における設定と同じものを思わせ、つまりは「この俳優たちをほとんど、もし、自分が知らなかったら、このドラマは面白いだろうか」という疑問が残る。その点、異国の珍しい映画でショックを受けたときのショックは純粋なショックだからすごいのだろうな、と思う。アラン・ドロン映画が、アラン・ドロンを知らずに見て、果たしてどのぐらい面白い出ろうか、と思うのと、同じ意味で「ALWAYS」のドラマとしての面白さはどのぐらいあるのだろうか、と考えてしまいましたが、メジャー映画ですから、これでいいのです。しかし「XX新喜劇」がやはりみんなを感動させるのだなぁ、というのは、観客の方々の反応を見て実感。オシャレな凝ったドラマよりも、本当は、みんなこっち寄りのものを見たいんだなぁ、と。

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2005年11月20日 (日)

感動

「感動」ということについて。というのは、ちょっといろいろ調べていて、『この森で、天使はバスを降りた』の感想コメントをとあるサイトでズラズラと拝見して、感じたこと。それは、以前から、持論ではあるのだけれど、「感動、なんてひとことでいえるものではないぞ」ということ。基本的には”感動”といわれると<喜怒哀楽>の”哀”のみが語られている感じ。ものすごく喜びに満ちても、すごく怒りを感じても、すごく楽しくても、それは<感情を激しく動かした>ものとして、”感動”といっていいと思うのですが、それらは、その単語は使われません。なので、恋人が死んだり、長年逢っていなかった子供と会ったり、そういった場面でしか感動という言葉は使われない。例えば、映画・テレビ・アニメ・音楽などなどで表現される様々は、他のメディアでは表現できにくいものを実体化してこそ、意味があると思っている。(これはすごい一般論)。なので<喜怒哀楽>いずれでもない感じなのだけれども、なんか、いい。そういう作品こそ、そのメディア冥利に尽きると思う。例えば、自分にとってはタルコフスキー『ノスタルジア』は、漢字四文字どれでもないが、何か、激しく凄さを感じた。そういったものを多く出せたときに”カルト作品”になるのだろうな、とも思いました。ARIAとノスタルジアが同レベルという話ではありませんよ。

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2005年11月17日 (木)

ARIA

もう11月も半ばになってから、「この10月からのアニメは、結構、今までにない独創的なものが揃っている」ことに気づく。オリコン・チャートがアニメ主題歌だらけになるのも納得する。それは、ちゃんとアニメのエンタテインメントとしての質が高いからである。で、今日は『フライトプラン』とか『RIZE』とかを試写で観たというのに(この2本については後日)、先週から遅まきながら観始めた『ARIA』について。それほど多くのアニメをむさぼり見ているわけではないし、自分のペースに合わないものは一回きりで断念したりしているので、ほかにも、同様のものはあったかもしれないが、という前置きで。『ARIA』について。まず、このアニメ、冒頭でタイトルが出ない。かなりドラマが進行してから、メインタイトルが始まり、かつ、ドラマのセリフが音楽とともに進行する。完全に「長編劇映画」のノリである。20分ぐらいのストーリーなのに。そして、ラストも、エンディング・テーマへの移行がスムーズでドラマが終わるや否や、その延長線上で始まる(イントロはストーリーのラストから始まっている)。シリアスな絵とギャグ絵の使い分けや、あまりにも美少女すぎるキャラクターなどは、この手のアニメのセオリーだろうから仕方がないとして、あとは景色への執着(このドラマは、かなり「街」の観光に重きを置く、架空の紀行番組的な部分があり、ここがすごく新しい)、いわゆる遠景描写が多い(人物を描くのではなく、情景の中の人物として描いている)。架空の街の構成は、アニメにとっては大切だが、ここまで「街」が主役でストーリー!?を作るというのは、今後、ストーリーという概念自体を崩す何かを発展させるきっかけになるかもしれない。架空の食べ物、架空の数式、架空の理論、いろいろあると思う。”ヒーリング”というオブラートにくるんでいるが、革新的な実験がそこここに楽しまれているのである。ネオ・ベネチア、とあるが、音楽はイタリアではなく、ブラジル古楽系のショーロ・クラブが担当。この発想は、今までに数々のアニメで栗コーダーを起用してきた発想の発展系と思う。しかし、シブいところに来ましたね。こうなると、次は、小野リサさんに主題歌頼みますか(しかも、ありえる話だ)。こんな状態だから、アニメが面白くて当たり前なのである。

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2005年11月15日 (火)

石川監督新作

石川寛監督新作『好きだ、』を見る。『tokyo.sora』の監督です。この、.とか、、とかはなんですか、一体。次はぜひ(^0^)とかやってほしい(うそです。しないで下さい)。さて、「tokyo.sora2」ともいえるこの映画、というか石川監督のライフワークは「そらと女の子」ではないだろうか。今回も、菅野よう子音楽ではありますが、ぶっちゃけ1曲でしょう。そして、その1曲のためのストーリーでもあります。そらと一曲と青年と女の子とおねえちゃんの話、というか空気。石川監督の作品だけでなく、日本映画の多くは(特にメジャー以外で公開されるものの多く)、とにかく登場人物の口数が少ないものが多い。石川監督の2作における女性たちは、なんだかものすごいロマンチストの青年がイメージする理想?の女の子の気がするが、石川監督に限らず、多くの”シャイな映画監督たち”によってイメージがつけられてきた宮崎あおいのキャラクターが気になる。気になる、というのは「おそらく、本人はこんなキャラクターではないだろう」と思われる役ばかりを演じている(そして、その役どころは似ている。唯一違ったのが「NANA」だ)のではないか、ということだ。まあ、役者にとって、本当のキャラクターがどうかは関係ありませんから、作品作品が完全に仕上がればいいのですが。こういった映画を観ていると、結局、観客は、その一部しか見せられていないわけで、共にさまざまなコラボレートができて幸せな時間を共有できたスタッフ・キャストたちの方がある意味幸福なのだろうな、と感じる。フィルムがすべて、では決してないな、と思う。

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2005年11月 9日 (水)

カミュなんて知らない

柳町光男監督の作品って、過去に見たことがあるかどうか、記憶がない。記憶がないぐらいなので、自分の中で、この監督の作品は、こう、という位置づけがない。一時期、というか学生時代、日本映画に関しては、作家性の強いものが苦手だったため、例えばATGや東映セントラル・フィルムの作品などは、興味の範疇外だったりしたのだが、ちょうど、その頃にもっとも話題になっていた監督のひとり、という気もする。『カミュなんて知らない』という、すでにタイトルがすわりが悪い、映画学生の青いロマンの香りがするその作品は、ちょうど、この映画に出てくる田口トモロヲが「この人、だんだん学生っぽくなってくる」といわれる30代後半の男だが、これがちょうど監督とダブるのかな、と思った。もう、シネアストが作る映画といえば、こう、と自己パロディのような長回し(長回しをやめる時の理由がこの場合、大切になるが、ここはさすが。ここでの初めてのカット割りが、物語全体の重要性をもつ意味を表現する!)、異常に多用される映画関係の固有名詞、「ただ、映画のことについて、話したい。映画について知っていると思われたい」ためだけの会話をはじめとする、大学生時代の記憶をもう一度アルバムからひっぺがす、なかなかシャイな人間には度胸のいる行為を潔く行う。ベテラン監督が作った「架空の、優秀な若手新人監督のデビュー作」の感。一見、すべてリアルではなく、学芸会のようだが、そういえば、周りの学生たちの会話を聴いていても、その多くが「自分たちの会話を聴いている周りの人間たち」をも意識した、芝居性を帯びたものであることが多く、それがまた、学芸会レベルっぽいところを思うと、「学芸会の芝居っぽい会話」が逆にリアルである、という結論を持つことになる。映画内映画の主役を演じる青年はアンガールズ田中的で、スクリプター兼自分が好きだからついでに音楽担当をする女の子は、ちょうど学生時代の菅野よう子ってこんなのだったのかも、と思わせずにいられない不思議ちゃん。主役ふたりがもっとも没個性というのも、セオリー通りだ。

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つくばエクスプレスとユーロスペース

ようやっと(この「ようやっと」という表現、好きです)、かの「つくばエクスプレス」体験!!といっても、昨夜、朝5時ぐらいまで起きていたこともあり、11:54の天気予報さえ見れない12時すぎに起き、そこから、ちょっといろいろやっていたため、秋葉原に降り立ったのが16時ジャスト(おそ)。そこで、なんと今日、現金下ろし忘れていたことに気づき、アキバで銀行さがし!!電気街、銀行ないっ!!結局末広町まで地下鉄ひと駅分歩き(その間に、以前勤めていた会社のビルに遭遇、ちょっと感慨深くしつつも)、なんとかキャッシュ手にしたのが、30分後。そこで、まず「つくばエクスプレス」のすごさを、まず駅で体感することになる。「壁側のエスカレーターは高速で運転しております」表示。確かに、想像を絶する速さ!エスカレーターまでエクスプレス! ところで、せっかく、デジカメ、また手にしていたのですが、もうこんな時間ですから、当然、つくば着は真っ暗。つくばの人工都市、面白そうだったのですが、ちょっとしたショッピング・モール状態になっているところをウロウロしてみるだけで終わらせる。何せ、本当に、真っ暗なので。そして、行きは立って乗り、帰りは座ったのですが、ここで感動。ものすごいスムーズな走行!!ずーっとまっすぐな線路を走っているのか、と思えるぐらい、ほとんど揺れのない完璧な走行!!さすが21世紀に作られた私鉄ですね、リニモよりも未来を感じました。

 さて、未来を感じた後、今度は、ユーロスペースが桜丘からひっこしして、クラブエイジアの近くの方に移る、とのことで、「さようなら桜丘のユーロスペース」的企画のレイトショー(毎日交替のプログラム)で今夜は『ボーイ・ミーツ・ガール』。久々に、満員のレイトショー体験。昔の、アート系ミニシアターのレイトショーの熱気を想いださせる雰囲気で、ジンと来ていた人も多かったと思う。さて、2回は見たはずながら、完全に記憶の底だった、この映画、ストーリー、セリフとかよりも、本当にシーン、シーン、ショット、ショットの中のアイデアに集約された、まさしく才気を凝縮したようなフィルム。絵と演技と音と音楽と編集がそれぞれ、同時のタイミングでそれぞれのメッセージを解き放つものすごさ。1秒単位でさまざまな事項に感動しつつ、その感動のネタがめまぐるしく変わっていく。天才の記憶の中にある、さまざまな知識のデジャヴュが、本当に一瞬一瞬のレベルで散りばめられている。見ている方の感性が覚醒されるフィルム、こんな映画に、本当に最近は出会わなくなってしまった、とあらためて、この映画のすごさに感心する。このカラックスは、自分が映画狂ゆえ、過去の傑作が行っていたレベルの完成度は持ちつつ、その上にさらに、自分が何を付け加えられるかに挑戦している。いやあ、すごかった。

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2005年11月 3日 (木)

この胸いっぱいの愛を

まずは、おそらく多くの人が入れている、このツッコミを。「こんなタイトル、どんな映画にでもつけられるやん」。まあ、タイトルによって”見たい度”は左右するから、この題材にふさわしいタイトルかどうか、ということは別問題。セカチューも、しかりと思います。「大純愛物語その3」だか4だか5だか、でもかまわないわけでしょうけれど、本当は。・・・・それにしても、そろそろ、本当にひねりを利かさないラブストーリーを見たいなぁ、と思わずにいられない。この作品に比べたら、ラブが中軸じゃないけれど『エリザベスタウン』などは、すごくストレートなストーリーである。ただの純愛だったら、みないのかなぁ、なのでひねるのかなぁ。思うに「美男・美女」の純愛だと、すでにリアルじゃないので、思いっきりアンチリアルにしてしまうのだろうか。一時期のフランス映画にあった「どちらかが、美形」という純愛なら、退屈せずに見るのかな。・・・というか、ドンデン返しを強迫観念的に、作り手はもってやしまいか?ストーリーに必ずしもオチは必要ないぞ。と思う。この映画単体には、罪はないと思いますが。

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謎と謎の間にあるもの

『マイ・アーキテクト』サントラ聴きながら書いているので、本当は、今からヴェンダースのことを書くのですが、頭の中はルイス・カーンだ・・・・さて、『ランド・オブ・プレンティ』。印象に残ったのが、かのWTC跡に来た伯父(主人公だ)が「工事現場である以上に迫って来るものがない」旨のセリフを言う事だ。ヴェンダースの映画って、常に虚無感といいますか、そういうのはダメだとわかっていながら、自分の中に巣食っているダメダメな感情、それが浮き彫りになっている気がする。自身も、ものすごい場所にいたはずなのだが、楽しそうに、異国の友とi-pod聴きながらかわいいMACでチャットする娘も、果たしてしっかりものとはこういう娘のことなのかどうかはわからない。ヴェンダース映画の登場人物たちに、理想系はいないだろうが、不完全な人間が、ある旅をして、何を得たかもわからない、それこそが・・・という感じ。自分としては、こういった考え方は好きなはずのだが、いかんせん、その「旅」に費やす時間が少なかったのだろうか。自分には、調べられることになるパキスタンの青年兄弟の、アメリカでの長い年月の旅が気になった。・・・・・うーん、今の旅よりも、過去の旅に惹かれるのは、おっさんになってきた証拠かなぁ。

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