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2006年3月31日 (金)

さらっと

実は、今日はネタというネタを思いつかないため、今、見たばかりの『REC』について。このベクトルを違わせる2つのアニメが同居する実験的番組「アニアニランド」も、やはり実験だったようで、2か月で終了ですが、前半の『びんちょうタン』(以前にも書いているので、詳細省略)が、あまりにも人間重視にしていくため、ちょっと本来の空気感をなくしていっているかな(音楽だけ、ズバ抜けているんですけど)、というまま終了したのに対し、『REC』は「大丈夫か」観も少し感じさせていたが、確かに、原作でも登場する「ここで終わらせるのがベスト」というところで終わらせて、これは拍手モノ(あの後、原作は奇妙な展開に進んでいく)。ちょっと楽しみにしていたのは、タイトルにしている『いつも2人で』の中のどのセリフを引用するのか、と思っていたら、なんと引用しなかったこと。『いつも2人で』は、音楽は名曲なのだが、確かに、名ゼリフというものがなかなか見出せない、迷作的な意味合いも持つ作品。また、ヘップバーン版『いつも2人で』とダブらせるには、松丸クンが、アルバート・フィニーほど疲れていたりワガママだったりはしない。大体が倦怠期の夫婦の物語だから、そんなに山や谷を経験していないRECカップル側には、そんなドロドロ経験は要求しまい、ということで、タイトルだけいただいて、サラッと終わる感じだったと。『REC』は、原作がこの後、破綻していくのでアニメ化の続編は希望しないが、『びんちょうタン』は、原作にもう少しストックができれば、これだけでシリーズ化は考えられるのかも。しかし、それより、それだったら『ヨコハマ買い出し紀行』のテレビ・アニメ化希望。コミックを読み始めましたが、コミックは、結構、いろいろ説明調な部分が多いので、あのそぎ落とした演出はアニメ独特のものだったのだ、と理解。

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2006年3月29日 (水)

家に帰ってきてからのウルトラマン

以前から「こんな話があったら面白いだろうな」と思っているのが「家に帰ってきてからのウルトラマン」。ウルトラマン氏は、毎朝、日本のいろんなところでワルサをしている怪獣を退治に、「出勤」する。そして、夜になると、家に帰ってきて、家族に今日、退治した怪獣の話をする。・・・つまり、ものすごい立ち回りとか、大変なことがいっぱいあったのに、それらを見せることはせず、その後の話の断片で、想像するのみ、という感じの物語だ。これにちょっと似たのは『レザボア・ドッグス』や、北野武の諸作品などでも、メインではないが、手法の一つとして出てくる。・・・・さて、早速、買い出してきました『ヨコハマ買い出し紀行』。まずすごいのは、このタイトルがすでに、前述した感じなのである。「買い出しはヨコハマになるのだろうし、そんな時も、周囲の風景などを楽しみながら(主人公の)アルファさんは行くのだろうな」ということなのである。そう、実際に、ヨコハマに買い出しに行くシーンなどない(会話にさえ、出てこない!)。舞台は、水没しているヨコハマ周辺だが、それも、設定の一つとして隠し味としてあるのみで、つまりは「未来だけれども、自然がいっぱいののどかな風景」を、主人公の(”ロボットの人”という言い方も優しい)アルファが眺めている、そんな話である。ストーリー自体が大体、意味を成さず、設定イッパツで、あとは、ご自身でお楽しみください、という感じ。新しい!!!!!!!新しすぎる!!!!しかも、4年前の作品だ。この音楽をショーロ・クラブと岩崎琢の両アーティストで共作していたのだ。確かに、この「風景を提示して、あとは身を任せる”間”の楽しみ」は、『ARIA』にも『びんちょうタン』にも通ずる。『ヨコハマ買い出し紀行』は、時代を先取りしすぎたのか、電波には乗らないアニメだったようですが、その後、電波に乗るアニメで、その精神を受け継いだものが支持(おそらく)されているのですね。・・・もう少し書くと、『ヨコハマ』は、ほとんど一人でいるシーンがほとんど。事件も起こるのだが、その部分はカットして描かれる。「たたずんで、ひとりでなんとなく考える」というシーンが大部分を占める、いや、これはカルト・ファン多いのもわかりました。OVAは2巻で終わっているが、3以降は、もう、出ないんでしょうね。

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2006年3月28日 (火)

ヨコハマ買い出し紀行

びっくりだったので、臨時書き込み。『ARIA』とよく並んで話題になることの多い『ヨコハマ買い出し紀行』(アニメとしてはOVAとしてDVDが出ている)とは、どんなものなのか、と調べていたら(水没した未来の横浜、という設定がネオ・ヴェネツィアに似ている、という意見多)、なんと1998年のOVAの音楽はゴンチチですが、2002年リリースのOVAの音楽が、なんとショーロ・クラブと岩崎琢氏!!! これは、探し出して、見なくては!!

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プライベート・ライアン以降

自分の周りだけかもしれませんが、よく「プライベート・ライアン以降の映画」という表現を使うことがあります。これは、(本当にリアルかどうかは確かめようはないですが)今までのドラマ作法から外れて、リアルさを意識して作られているかのような映画について、よく使います。で『ブロークバック・マウンテン』。この映画の前半(30分ぐらいかな)は、若い頃の、事がおこるまでの何でもない日常のスケッチのようなものが、かなり長く写されている。ほとんど、他愛ないセリフ(セリフ?)と、ただ、共に過ごしている、ということがわかる、本当に日常的動作の数々。この映画は、その後、ドラマ性を帯びても、(ここがリアル)登場人物たちは、自分たちの身に今、何が起こっているのかを全てニュアンスで語っていく。セリフも、直接的なものは全くないし(ラスト近くで、主人公の娘が会いに来るシーンでのセリフのみ、説明調という気がしたが)、この「あるがままをとにかく見せるだけのドラマ」は、先日の『シリアナ』同様、洗練された演出スタイルとして、確立しているのじゃないだろうか、と思う。テーマの話で言うと、この映画の描くものは、肉体関係を作ってしまったけれども、愛、というよりは友情の物語で、分かり合える人間というものが互いしかいなくなってしまった結果、ドラマ性を帯びてきてしまう、ということになるのじゃないだろうか。しかし、この映画のすごいところは、だからといって、派手な展開は全く起こらない。自然に流れるように、物事は進んでいく。これがリアルな人生だろう。登場人物たちが、ドラマの直接的に関わる部分以外では、そこそこおしゃべりなところもリアル。これが人生である。というか、本当に話さないといけないことほど、話さずに「関係ないことばかり、しゃべってしまう」方が(弱い人間には)事実でしょう。そのあたりの空気が、感じ取れる。「本当の人生を描くためには、どうしたらいいか」の『プライベート・ライアン』以降の映画たちは、表現/演出のハードルをあるベクトルにおいて競争している。なんか、ハードルというより、棒高跳びでもしているような名人芸の見せ合いだ。

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ルーツ系

昨日に引き続き、自分のルーツ系の音を聴きたいな、と思って、ちょっと押入れの中をゴソゴソ。というのも、今日(昨日)は、もう、本当にくたくたで、今や、何も考える気が起きない。そんな時には、自分のルーツが優しく包んでくれる。選んだのは、マーク・アイシャム88年の「カスタリア」。強烈にいいアルバムです。この頃は、アイシャムはまだ映画音楽をバリバリベリべりやっている頃ではなく、むしろ、ニューエイジ・アーティスト。この頃なんだろうか、ニューエイジというジャンルが話題になっていたのは。ちょうど、大学生活の終盤から、自分としては、社会人生活としての初期のゴタゴタの頃で、気分としては、「とにかく、聴いたことのない音楽を聴きたい」と思い、この頃に知った音がかなり多く、それがのちの趣味を形成している部分も多い。冷ややかな、ジャズともなんともつかないバックのサウンドを従え、エコーばりばりのトランペットを聴かせるアイシャム。ソフトなマイルスかもしれないし、トランペット版パット・メセニーという感じも、今、思えばするサウンドです。この頃は、自分も音の冒険をしていたが、今は、音階がない空間の方が落ち着いたりする。というか「落ち着くかどうか」が娯楽の意味の要になっている。80年代後半のCDたち。アイシャムは大成しているが、「彼ら自身は、その後どうなったのだろう」というアーティストたちのCDが、同じファイルからドサッと出てきていました。

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2006年3月27日 (月)

LOVING YOU WAS LIKE A PARTY

ここでは、珍しいジャンル?の音楽の話を。というのも、別の用事で、部屋中のCDをひっくり返していたら、これを発見。久しぶりに聴く。いわずもがな、のマリーナ・ショウ大名盤「WHO IS THIS BITCH,ANYWAY?」です。この盤に出会ったのは、12年前のCD化された時のことで、オリジナル当時もFMなどで聴いていた可能性はあるが、それとして聴いたのは、そのときが初めてだった。そして、死ぬほど聴きました。そればっかり聴くぐらい聴きました、その頃。なんか、これ、失恋した時に聴くアルバム、みたいなハッピーさと切なさのバランスが絶妙な曲ばかりなのですが(偶数曲が特に)、そして、これを聴いていた頃は、べつに失恋なんてしてませんでしたが、なんかそういうほろ苦さがある。この音が自分にバシッと来たのは、ソウルは苦手な自分ながら、学生時代をフュージョンで過ごしたからであると思う。バックのメンツは、完璧にフュージョン畑のオールスターズであります。凄腕ミュージシャンたちのほとんどスタジオライブ一発ドリのような(実際の状況は調べていませんけれど)ラフさがかっこよく、この辺がちょうど波長が合ったのだろう。パティ・オースティンはその頃、よく聴いていたし、ロバータ・フラックあたりも、聴いたら、好きなアルバムだらけなのかもしれない。が、そういえば、聴いていない。この辺の70年代の女性スウィート・ソウル・ヴォーカル、いいかもしれないな、自分にとっては、新鮮なジャンルかも、と、最近、自分が今まで聴いてきたジャンルの、リスナーとしての限界を感じる耳に・・・と思うのでした。「ARIA THE NATURAL」の予告編、しっかり、待って見てたんですけどね。

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2006年3月26日 (日)

あれから一年

あれから、一年。そう、愛知万博です。うーん、愛知県民だったら、飛んで行ったのですが、長久手会場は、もう限りなく更地に近い状態、と聞いていたが、そういえば、瀬戸会場はどうなっているのかの話題はほとんどなかった感じです。その元・瀬戸会場でイベントがあった模様。モリコロ様は、閉会後も、ぜんぜん森にゆっくり帰る暇もなく、いろんなイベントで出没していたようですが、今回は、元アテンダントさんもゲストで登場したらしい。・・・・そういえば、EXPO70の時は、あのときは、売りのひとつがスタンプだった気が当時の子供心にあって、何かにつけて、「想い出のEXPO70展」みたいな催しが百貨店などであっては、スタンプ復刻を探していたのを記憶している。(そして、絶対、そういうコーナーがあった)。今は、万国博記念館(ホール?)に、ちゃんと記念スタンプ・コーナーがズラーーーっとあるので、思う存分押し捲ることができるが、愛知万博・想い出展みたいなもの(一度も、そういう会場には結局、足を運ぶ機会がなかったので)ではスタンプ復刻はあったのだろうか?でも今回は、スタンプよりも、やはりモリコロですよね。・・・・かの万博BOXの「エキスポランド編」を先日、鑑賞したのですが、もちろん、遊園地ということもあり、子供の姿がいっぱい映っている。この子達は、今、40歳は越えているオッサン、オバちゃんになっているんだよな・・・・と思うと、なんか不思議な心持でした。今も、エキスポランドは開園していますが、まだ、現在のエキスポランドは、入園していないんですよね(当時も、入園しつつも「ガラスの城」と「ペプシ館」しか見なかったと思う)。ちょうど、さらばエキスポタワーの時の頃から、エキスポタワーへの道(エキスポランドが左手にある坂道)をよく歩くが、70年代の映画音楽などがBGMで流れていて、意図してなのか、何なのか「遊園地にしては、黄昏すぎてやいないか?」と思ったものです。今度は、入園して、ぶらぶらしてみたいと思います。

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2006年3月25日 (土)

岩崎琢

「まさか、このサントラで、こんなサウンドが出てくるとは思わないだろう!」という感じのサントラ、大好きなのですが、いやあ、びっくりしました。岩崎琢。この方、『ゲットバッカーズ』『R.O.D.』といった活劇系のイメージがあったので(『R.O.D.』はちょっと気になったが、『ゲットバッカーズ』は印象に残らなかった)、その後、正月映画の『銀色の髪のアギト』での起用も、活劇系の延長と解釈していましたが、その次がなんとアンチ活劇な『びんちょうタン』ですからね。で、あの題材だから、きっとサントラ単体で聴いてもいいものになるには違いない、とは予想していたものの、その予想を遥かにしのぐ、物凄いサントラ。オーラ出まくり。あのコミック/アニメのキャラ・デザインに抵抗はあるものの、それ以外は、基本的にノスタルジーの世界ですから、それこそ「ぼくの夏休み」とか「三丁目の夕日」などと性格は近いわけで。ところが『びんちょうタン』スコアは、メロディをあえてくっきりと残さないため(風景重視とかそういう意味でしょう。わかる気がします)、いわばちょっと難解なので、そこがよりオーラを強くさせます。なんたって、オンド・マルトノまで取り入れての録音ですから、気合の入れようもハンパじゃないです。岩崎さん、動のサウンドよりも、静のサウンドの方が発揮するのかも。それとも、この題材は、すごいものだったのか。しかし、ここまで高みに上げるとは、本当に驚きました。

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2006年3月24日 (金)

かしまし

『ARIA』の後番組だったということで、なんとなく見ていた『かしまし』。これは原作を読んでいなかったのですが、ひとりの少年を巡って2人の少女、のはずが(SF的展開で)性転換されてしまい、3人の少女が主人公、ということなのだが、なのに、結局2対1の構図は全く消えず、これでは(おそらく第一主人公の)少年が少女に転換した意味が全くないのが気にかかったのですが、それはさておき、最終回のひとつ手前のエピソードにおいて、突然あらわれた「架空の病」。これに興味を覚えました。架空の病といえば、『汚れた血』や『クラッシュ』(バラード原作でクローネンバーグが映画化した方)などが今、代表的に思い浮かびますが、この「かしまし」に出てくる「個体を識別できなくなる症状」、つまり、犬(はまあ、識別できるかもしれないが)、昆虫、その他の動物のそれぞれを識別できなくなるように、人間を見て、人間であることは分かるが、どれも同じに見えるようになってしまう、というもの。感覚の劣化、を原因としてあげていたと思うが、嗅覚などが劣化していったといわれる人間だけに、その他の感覚が劣化する、という仮説は十分ありえる。この『かしまし』の不思議なところは、かしましなくせに、みんなでメソメソしっぱなしなので、全然「かしまし」くならないのだが、それよりも、普通の、本当に普通の学園恋愛モノ風なものに、ハードSF的な要素がところどころ、強引に入り込むところだ。とはいっても、戦いものにはならないので(敵、という発想がこのアニメにはない)、感情の起伏は、恋愛に根ざすものだけになる、ということだ。しかし、やはり、少女になった意味が全くといってもいいぐらい、ないプロットで、そこが惜しいとは思います。ただ、この「病」に強烈に惹かれたのでした。

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2006年3月22日 (水)

公開されるドイツ映画、公開されないドイツ映画

ちょっと、ドイツ映画のサントラというものが今、現在、どういうものが実際にはリリースされているのかと調べていたら、まあ、結果的には「いろんな新作がいっぱい作られているが、その9割は、日本には輸入されていないっぽい」ということだ。海外在住の日本人の方々の映画鑑賞記を拝見していると、その状況が如実に分かる。アメリカのインディーズものはもちろん、フランス、イタリア、ドイツ、イギリス、スペイン、北欧・・・・えっ、これって、アメリカとヨーロッパの映画ほぼ全てってことじゃないのか?と愕然としてしまう。現在ほど、ヨーロッパ映画が悲劇的に輸入されなくなっている時期はないんじゃないか、と思う。ドイツに話を絞ると、これはドイツに限らないのは、日本で公開されるのは「あまりにも世界で賞をたくさんとったりアカデミー外国語映画賞ノミネートまでいくか」か「子供もの」の2パターンしかなく、『グッバイ・レーニン』『白バラの祈り』は前者に、そして『飛ぶ教室』や『名もなきアフリカの地で』(これは邦題も、それはないだろう、「名もなき」は誤訳だろうと思う)は後者に分類されるかと思う。さて、いろいろ調べるうちにムクムク見たい気がしたのが、『REQUIEM』と『サマー・イン・ベルリン』。片や、少女の悲劇といえばいえる(ちょっと『白バラの祈り』の少女の悲劇と似てなくもないのじゃないか)オカルト的ドラマの実際の謎解き的心理ドラマと、ベルリンの女性たちの日常。この女性たちの日常、という題材は、イタリアやフランスでも多い。アメリカも多い。しかし、日本はなぜか、少ない。作り手に女性が少ないのか?最近は、そうでもなくなってきていると思いますが、まだ、「酸いも甘いも」わかる年齢の(もしくは、映画以外のいろんなキャリア経験済みの)女性監督がほぼいない、ということだったりするのかなぁ。日本は、海外に比べて「生活経験から、製作意欲が先にあって、テーマがあって、そこから映画になった」秀作はまだ少ない印象がある。シネアストのためのシネアスト映画が多いというか。原作となる小説も、そのあたりが少ない、というのもあるかもしれない。その分、テレビドラマが発達しているのかな(昔はそうだった気もするが、今は・・・・)。「映画館から若い人がいなくなった」という話の反論に「それは、若い人が見たいと思っている映画が輸入されなくなっているから」と答えているが、これは大人も、それも日本の今や映画観客の中枢を担っているはずの「大人の女性の満足に心から耐える」作品さえも、実は輸入されなくなっている、ということなんじゃないか、と思ってしまった。ヨーロッパへ移住するしかないのか!?

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2006年3月21日 (火)

石油版

久々に映画の話題で、『シリアナ』です。見る前は、やっぱりコスタ・ガブラスのメッセージ性過激性バリバリだった頃の『戒厳令』であるとか『Z』といったものが頭の中のイメージとしてあったんですが、見ると、石油版『トラフィック』といった方が、より容易で乱暴な印象かな、と。おそらく、この題材でのトラフィックとの違いは、トラフィックが、どういった形にせよ、様々に取り上げられてきた題材としての「麻薬」が、見るものになんなく拒否反応を与えず、今回の場合の「石油」が、「陰謀や、さまざまな黒い影がないことはないのだろうけれど、日ごろから意識したことはない、ので、どういうことになっているのか、さっぱりわからない」感じなのだろうと思う。印象としては、世界規模の松本清張で、「黒い砂漠」とでも、題しましょうか。さて、これがリアルなのかどうかさえ、判別がつかない、このタッチ。あまりにもドラマの起伏感をあえて喪失させ、どこが山場なのかに気づかなかったりする。軸としては、クルーニーとデイモンがそれぞれ演じる男2人が、ドラマの始めには予想もつかない物事に巻き込まれてしまっている、ということがある。報道という面が(これもおそらく意識して)描かれないが、つまりは、このドラマの中で語られるものは、すべてが「絶対に語られることはない」部分のものである。ちょうどNHKが大討論会(過去に討論されつくした議題を、録画放映しているかのごとく、また一から行っている)をしていて、そこでもほとんど触れられていないが、「どう報道するか」ではなく「何を報道するか」で報道をとりまく世界情勢はコントロールされるわけで、つまり「何が報道されなかったのか」これが、本当は語られるべき部分なのであろう。そして、語らない、語れない理由はそれぞれ真剣なものから、いい加減なものまであるでしょう、が『シリアナ』は、語「れ」ないものの話を「なぜ、語れなかったのか、語れなくしたのか」の理由を説いていく。現場のシリアスさは、周囲の比ではなく、ほかのものが見えなくなってさえしまうぐらいの緊張感であることが伝わってくる。・・・しかし、前から思いますが、ジェフリー・ライトって名優ですねぇ。ジアマッティと同じぐらいわたしは好きです。

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おんなひとりの鉄道旅

本当は、明日・あさってで、一泊でどこか乗りに行こうかな、とも思っていたのですが、疲労と、疲労と、そして疲労のため、やはり一日、ぼーっとするかな(でも、ちょっと乗りに行きたいな)と思い、その代わりといってはナンですが、最近、触れていなかった「紀行文」的な本があれば、探そうかな、と思い、その気のコーナーを物色していたら、見つけました。「おんなひとりの鉄道旅」(てつどうりょこうではなく、てつどうたび、なところで、すでに少し柔らかい)。著者は、(年齢不詳ですが)一見、鉄道旅行には縁遠そうにも見える女性カメラマン矢野直美さん(自分で撮りながらの旅行記)が、路線ごとにレポートするもの。この「路線ごとのレポート」は、鉄道本のセオリーにのっとっている。ただし、期待通りの興味の持ち方をこの矢野さんはされていて、この方、完全に「車窓派」なのである。たとえば、NHK-BSでの関口知宏氏は意外に、車窓については、さらり、という感じだったが、矢野さんの場合は、基本、その路線から外れた景色は観にいかない(それどころか、短い路線なら、一日に何往復もする!)。いや、この「ローカル線の愛し方」は私のそれと呼応するところが多大で、自分とほぼ同じスタンスでローカル線乗車を理解されている方に出会えた感じでうれしかったです。しかも、岩泉に高千穂に明知、島原、わたらせでしょう。趣味、全く同じ。文章もさらっとしていて、(実は経営が苦しいに決まっているこれらの路線の)背景などはとりあえず忘れて楽しむポジティブさがある。男が、女が、という分け方は好きではないし、そんな簡単に済むものではないが、この鉄道旅行記には、男のライターが書いてしまう「哀愁」がほとんどないのが新しい。しかも、この旅行記のすごいところは、矢野さんと同様に、女性ひとりで鉄道旅行をしている女性が珍しくなく、存在することを当然のように書いている。そうか、ひょっとしたら、あの線でひとりで乗っていたあの女性は、地元の人ではなく、ちゃんと「鉄道ファン/路線ファン」だったのかもしれない、というドンデン返しに似た思いがよぎる。とはいえ、本のタイトルが、こんなタイトルというのは、世間一般的には、やはり、そういう存在は珍しいものに見えるはず、という意味合いが込められている気もするし、逆に「やっと、私たちのための旅行記が出たわ」と思う女性がいっぱいいるのかもしれない。ちなみに、こういうことを書いているわたしは、男なので、こういうことは全て憶測なのですが。

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2006年3月20日 (月)

パーティズ・オーバー

本日も、イージー関連。先日、かの「しょこたんブログ」を見ていたら、しょこたんが十年来親子で見ている、という「『ドラゴン怒りの鉄拳』をテレビで録画したビデオ」なるものが写されていて、なんと、そこには荻昌弘氏のお姿が! そこで、この「月曜ロードショー」に思いが馳せる。当時、キーとなる映画関連番組はいくつかあって、そのOP/EDを探す行為は当時の映画ファンにとって、もう、刷り込まれた作業化していると思いますが、結局きっちり探し出せたのは、この「月曜ロードショー」のエンディング、そう、レイ・アンソニーの「パーティズ・オーバー」だけです(しかも、これが入っている盤も、もう廃盤)。これ、一回聴いたときには、そう感じなかったのですが、もう一度、よく聴くと、まさしく、この演奏! と喜んだものでした。「DANCING ALONE TOGETHER」というアルバムに収録。再プレスしないかしらん。ほかには、あの「日曜洋画劇場」のくらーいくらーいトーンで「ソー・イン・ラブ」を演奏するバージョンはモートン・グールドのもの、というところまでは、いろんな方から聴いていますが、実際にそれとして聴いた事がまだないので、このバージョンがどこかでCD化されないか、なかなか実現しそうにない希望(以前、アメリカ国内のみ決済可能、というサイトで販売されているオムニバス盤に収録されていたのは確認したことはあります)。うーん、今日は、マニアックなことを書いてしまいました。寒くて、想像力も働かないし、ワインはあけちゃったし、かといって、外は激寒だから、買いに行く気しないし・・・

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2006年3月19日 (日)

いかにして、急にイージーリスニングは止まったのか

久しぶりに、ポール・モーリアをちゃんと聴いてみようと思い、以前、日本で限定リリースされた10CDセット中の1974年もの「イエスタディ・ワンスモア」を聴いてます。懐かしさ、楽しさ、癒し・・・まあ、いろいろありますが、以前から疑問に思っていることが、また頭に上がってきました。「どうして、イージーリスニングは80年代上期で急激に新しい録音(レパートリー)を増やさなくなったのか」ということです。街の商店街のうっすらうっすらとしたBGMから流れてくるのも、ビリー・ジョエル、アバのカバーぐらいまでで、その後・・・うーん、可能性あるとしたら、ブライアン・アダムスとかフィル・コリンズとかマイケル・ジャクソンとか、・・・のレパートリーになるものはないのです。ご本人たちが指揮する楽団も少なくなってきているのも、一因かもしれませんが(新しい、このジャンルのアーティストは出てきませんしね)、この時期というと、絶対可能性あるのが「CDの世界的普及」なのですが、直接的な理由が見当たらない。どうして、LPからCDになると、イージーリスニングは失われるのか。ちょうど、この時期は、ニューエイジというジャンル(今は、さらにヒーリング・ミュージックに発展している)が勢いをつけた、ということもある。このジャンルは基本的に「ほぼ全てオリジナル曲のイージーリスニング」的な印象も一面としてある。この頃、曲の権利関係の整備もされていた頃でしょうから「有名曲のカバーよりも、オリジナルの方が制作費的に安く上がる」ということもあったかもしれません。しかし、その後、継承者が普通、どんなジャンルでもあるものなのですが、このイージーというジャンルは「ヒット曲わ自分流にアレンジしてオーケストラ演奏をする」という形で継承しているアーティストがいない。これはずっと気になっていることなのであります。

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2006年3月18日 (土)

オードリー・ヘップバーン

昨日のびんちょうに続いて、『REC』の話。時間帯もさることながら、このアニメ2本立てなる「アニアニランド」の企画の凄さは、片や、昨日書いたような題材で、後半は「原作がアダルト・コミック」の作品、というパッと見、水と油のような2本立てであることだ。ただし、アニメ側のクリエイターは、もともとはそのようなコミックから、よりエッセンスを取り出そうとしていると思われる。昨日の続きだが『びんちょうタン』で気になるのは、このタイトルの元である「備長炭」の効能についてのエピソードが重要な位置を占めているが、アニメではその部分が、ほとんど省略されてしまっている(残念だ)。それはともかく、『REC』のアニメのニヤリとするのは、原作だと、それぞれのエピソードのタイトルは何らかの映画のタイトルをもじったもの、になっているが、アニメ版のエピソード・タイトルはすべて「オードリー・ヘップバーン主演作品」というルールを作っている。DVDBOXでだけ収録されるというエピソードの「許されざる者」でさえもそうだ。また、これが、わざわざなぜそのタイトルになっているのか、がストーリー展開もだが、ヒロインもしくは登場人物がその映画の名セリフを引用する、という件りを必ず入れる、という懲りようです。「噂の二人」というヘップバーンものの中ではマイナーな作品のフォローも面白かった。この調子だと、「シャレード」「おしゃれ泥棒」あたりがつづくのでしょうが、最終回はきれいに『いつも二人で』でしめてほしいです。『いつも二人で』といえば、マンシーニとヘップバーンのコンビのラスト作品。ところで、原作だと、大人のちょっとアホなエロエロワルノリエピソードにそろそろ突入してしまうのだが、そんなストーリーはさらりとかわして、根性ラブストーリーのままで、いってもらえそうな感じですね。

 コミックとアニメの違いといえば、『ARIA』で、コミックだとアリシアはかなりの酒好きの設定で、灯里(未成年)にビールを薦めるシーンさえもある。(ほかにも、すぐにワインとかを出してくるイメージがある)これは、コミックとテレビアニメで可能なラインの違いでしょうか。

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2006年3月17日 (金)

ハッピーエンドについて

『転がれたま子』について、以前に書いた感想について、コメントをいただいたので、その感想から発展させたことについて、少し。というのも、「ハッピーエンドは善か悪か」的な話です。ストーリーにも「供給と需要」がある、という話はよく話題になる。例えば、時代が危機感にあふれている時こそ、お笑いブームになる、というのはその大きな例ですが、「ヘトヘトになって仕事から帰って、真面目な番組なんか見たいと思いますか?」という、深夜バラエティ擁護論である。しかし、ここ最近、深夜バラエティもグッと減り、趣味性の高い番組や、「趣味性の強い」アニメが大半を占めるようになった。最近の例で興味深いのが『びんちょうタン』で、ほぼ5歳前後の女の子たちが主人公でありながら、その周りにあるものは、花火でありラムネであり職安であり懐かしい昔の学校である。アニメも、今や、様々な年代の男女に向けての「癒し」に向かっている。これは決して、子供が主人公でありながら、子供にはあまりにも難解なアニメであろうと思う。さて、始めの話に戻ると、こういった、現在の番組やドラマの中では、「必ずしも、はっきりとハッピーエンドではない」ニュアンス的なものが好まれてきているのかもしれないな、と感じる。まだまだメインストリームではないにしても、メインストリームの次に位置する部分にそれはあるのじゃないだろうか。それか、自分が、そういうものばかり見ているからかも。「あからさまなハッピーエンドは逆にしらける」のは、その強引さが、ちょっと「ナメラレテイル」感じを受けるからかも。リアルなハッピーエンドに会えば、これが最も感動するのだろうな。そういいながら、自分自身も、実生活でもハッピーエンドになりそうな雰囲気になると、それを敢えて避けている風潮もあるかも。

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2006年3月16日 (木)

世界の子供たちと踊るゴーゴー

さあ、いよいよ、ついに『日本万国博』4枚組DVD鑑賞記が(ときどきです。毎日はさすがに。個人的には毎日でもいいですが)始まります。まあ、毎日書いてもいいですが、毎日見ていると、本当に、違う世界に自分が行ってしまいそうです。まず見ましたのは、「国内団体・企業館」編63分。やっぱり、これから見ますよね。その印象は、パビリオンの形や配色は前から知っているのでそれはそれとして、コンパニオンさんの衣装はもちろん、展示物の配置、展示の意味、そしてなんと観客のおばさから小学生まで、すべてがサイケだ!!! そして、そこへ持ってきて、尋常じゃない照明やカメラアングル、カメラワークなどを多用するので、サイケさが一層増す。知らずに見ると、かなりアシッドな悪夢な映像かも。そこへ持ってきて、あの現代音楽現代音楽した現代音楽。自然とそうなってしまったのか、かなり意識したのか、もし「普通に撮ったら、観客が退屈に思うと困る」配慮なのか、それか、どんな状態にせよ、この映像は「記録・保存される」ことが決定していた映像なので、それ故に挑戦的なことを行ったのか。映像の作り方もだが、コンパニオンのトーク(これは本当に、そういったアナウンスがされていたのであろう)、例えば「せんい館」の映像に関して「お分かりいただかなくても結構でございます」に代表されるような、すべてにおいて「洗練される前」の状態を見るのは興味深い。複数のパビリオンで語られる未来の世界の図は、それほど現在と違わないが、違う点は「超高層建築だらけにはなっているけれども、デザインそのものは画期的ではない」ということか。インターネットもテレビゲームもまだ一般として始まっていない時代の想像する未来。何が進歩したか、というと、通信手段を先頭とする「形としては見えない部分」じゃないだろうか。そして、むしろ、進歩すればするほど、シンプルになっていくので、エヅラとしては、面白くないものではないか。クボタ館やタカラ・ビューティリオンなどで、未来建築の中の夢として、個室における植物栽培などの積極性のある「自然との共存」があるのだが、実際に個室で「植物」や「動物(ペット)」が飼われたり、ビルの屋上に緑が植えられている意味は、現在は、むしろ「そうしないと自分たちが壊れてしまう」危機感から発したネガティブな意味合いが多くを占めている。そんな発想は、35年前、考えただろうか。35年前の少年たちが自分たちを見たら「この大人たち、暗いなぁ、ナニ考えてるんだろ」と思うかもしれないが・・・35年前の少年って、自分じゃねぇか!というオチもあったりするのです(映画に、じゃありませんよ)。

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2006年3月14日 (火)

ローマの人々

アルマンド・トロバヨーリに限らず、60年代初頭辺りをキャリアの初めとする、その後いろんなサントラで有名になる作曲家たちは、ほぼみんなジャズの洗礼を受けている。というか、ジャズ系アレンジャー出身であることが多い(おそらく、ほとんどの方が、映画音楽作曲家として覚えられるより、ジャズ・ミュージシャンとして覚えられるほうがうれしいのじゃないだろうか?)。という前置きが長いが、以前のイタリア映画祭で上映機会があるも、自身のスケジュール調整及ばず、鑑賞できなかった、エットーレ・スコラ監督の『ローマの人々』。音楽トロバヨーリ。このふたりの作品だけれども、ドラマではなく、まさしくローマの人々を映し出したドキュメンタリーということで、それは、サントラを聴く限り、なるほどと思える。いつものこの2人のドラマの時の「悲しげに明るい」タッチのメロディはなく、ひたすら軽快で聴きやすい、まさしくBGM用途で上品なジャズ。ピアノは、ダニロ・レアという方ですが、この方のソロの感じ(トロバヨーリの曲もかもしれない)、なんとなく、優しい曲調の時のボブ・ジェームスを思わせる。私はジャズに詳しくない(何にも詳しいことなんてないけれど)ので、ボブ・ジェームスのタッチも、すでにオリジナルとされるアーティストはいるのかもしれないが。この、音楽の俯瞰した感じ。ドラマだと、登場人物たちのドラマ自体も自分たちで作っているわけだから、深い表現が出来るが、実在の人々を見る視点は、やはり第三者としてであって、内面に本当に入り込んでいけるわけではない、そんな潔さがあるように思う。「内面には敢えて入り込まない」音楽、これはひょっとしたら「イージーリスニング」というジャンルすべてに言える、実は基本的なマナーかもしれないな、と書きながら、ふと思ってしまいました。

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2006年3月12日 (日)

ウーゴ・モンテネグロ

特にモンテネグロに関して、何かが今日あったわけではなく、敢えて、別にタイムリーでもなんでもないアルバムについて書こうと思っただけです。HUGO MONTENEGRO、この方、純粋なオーケストラ・イージーリスニングからジャズっぽいものから、70年代になってからはムーグもの、と基本的に「アレンジャー」の人だったので、なかなか「モンテネグロ・サウンド・ファン」が生まれにくいディスコグラフィーを持つ人だ。若い人なら、ムーグ系のモンドサウンド(スティービー・ワンダーのムーグ・カバー・アルバムなんてものもあった)が人気ですが、私はやはり、マジメにドリーミーなやつが好きでして、『キャンディのテーマ』と題された、もう、ホント、ウットリ系のストリングスものばかり入ったアルバムがわたし的には最名盤です。今は、『HANG’EM HIGH』聴いてるのですが、ちょっと日本のレコード会社の楽団が、もうまさに一日何曲のペースでほとんどぶっつけ本番の録音やっていた時の様な(でも、アメリカもほぼ同様の状況で、このアルバムもほとんどそういう状況で出来上がったものじゃないだろうか、と想像する)ラフで崇高さはないけれども、さすがプロ、ぴしっと録音は片付ける、そんな潔い録音の気がする。なんか、そういう職人的なところ(めっちゃ想像で書いてます。すみません)はかっこいいです。時間かけたから、いいものが必ずしもできるわけでもなく、それこそ30分前に譜面渡されて、完璧な演奏できれば、なんか、その方がかっこいい気がしたりします。

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世田谷線

本日は、一日自由の身だったのですが、起きたのが、いつもどおり?12時前で、ぼんやりと「生活笑百科」を見つつ、チョー晴天のため、ちょっとやり残していることも、ある程度こなしたのちに、今日こそ、いずこへ乗りに行かん!と、近くの本屋で最新時刻表(小さいやつ)を購入、にらめっこの末、そういえば乗っていなかった、「世田谷線」に決定。結果、ちょっと夕暮れかけの世田谷線、という情緒あふれる経験に。東急の三軒茶屋から世田谷線の乗り場への通路の、まずおしゃれなこと。ちょっと大阪で言うと、千里中央辺りを思い出す感じではあったのですが(あれほどダイナミックではないけれど)、駅ビル(市民センターみたいな施設も入っている)の1Fにあった立ち食いそば屋が風情がよさそうなので、入ってみると、ダブルソースカツ丼という品書き。おお、どこかで見たことのあるメニュー名。チェーン店じゃないですか、普通に。でも、店のたたずまいが、”長年学生に親しまれている”風でよろしく、つい、コロッケそばなど頼んでしまう。そして、17分間の乗車。濃い17分。積極的な女性乗務員募集の広告は拝見してましたが、確かに、行き違う電車含め、いずれも、車掌さんは女性でした。売りかポリシーか、ETC。そして、終着は、下高井戸ですが、下高井戸散策も少し。いいですねぇ、商店街の雰囲気とか。こういった雰囲気は、まだまだ、あっちこっちにいっぱいあるんでしょうが、自分の身近にはないため、別に何を買うわけでもないんだけれども、ジンと来てしまった。濃い1時間弱を過ごせました。

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2006年3月11日 (土)

ブロークン・フラワーズ

アクセス超困難だったため、早くも、毎日更新を逸してしまいましたが、そして『日本万国博』10時間弱バージョンもゲットし、その話もあるのですが、その前に、先日鑑賞しました『ブロークン・フラワーズ』について。ジム・ジャームッシュ監督作としては、珍しい「ラブ・ストーリー」臭のある新境地で、かつビル・マーレイがやはり「お約束演技」的な感じで、これはこれで計算されているのだ、ということを確認しつつ、興味を惹かれたのは「車窓」だ。この映画、隣の探偵趣味なエチオピアのオッサンに無理やり?渡されたCD-Rに入っているエチオピアン・ジャズをカーステレオで聴くという設定で、「エチオピアン・ジャズをBGMに車窓」という不思議な画面が、作品のかなりの比重をもって展開する。「車窓の長さ」に関して印象深いのは、青山真治監督の『シェイディー・グローブ』での車窓で、これが、仮にはしょっても、ストーリー上は何の問題もないはずなのですが、かなりの長尺、主人公が運転するクルマの車窓が延々続く。最近でいうと、この感覚を期待したのが『エリザベスタウン』なのですが、予想に反して、ほとんど短い(製作者サイドの意見で切られたか?個人的には、車窓シーンたっぷりにして、映画が3時間でも全然OKです)ので、うーん・・・だったのですが、その『エリザベスタウン』と似たシチュエーション(選ばれる音楽も、両者の違いが面白い。片やガールフレンドが選曲し、片やは、隣のオッサンの選曲という違いもあるし)ながら、印象は全く異なる。究極の車窓映画はかのギャロ様の『ブラウンバニー』だろうが、これは、車窓そのものが持つ意味がかなり重い。ちょっと先述の3本とは、意味を異ならせると思う。『ブラウンバニー』のような重さのない、ほぼ全編車窓映画、というのは、出会ってみたい一本なのです。

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2006年3月 8日 (水)

いよいよ今週である

今日は、まだ今からやっつけないといけない原稿があるのですが、それよりも、今週は、ついに『日本万国博』ほぼ10時間バージョンのDVDが出ますね。ということで、BGMは愛知万博の「グランオデッセイ」(千住明)で書いております。聴くと、(まだDVD化の話はないようですが)過去に、『沖縄海洋博』(1975)も記録映画は作られている(しかも、監督が巨匠脚本家の松山善三。松山善三といえば『人間の証明』・・・もっと代表作はいっぱいあるのですが)。しかも、これも2時間30分ぐらいはある巨編の模様。しかし、その後、つくば博や花博は映画は作られていない(と思う。ビデオは出たのかな?)。この大阪万博10時間バージョンのフライヤーの裏面に使用されている写真、エキスポタワー側から太陽の塔(お祭り広場)側を望む景色を見ると、あのアングルは、今でも、自分が万博公園に行くと、必ず一回は、立ってみるポジションなので、在りし日の光景はまさにこうだったのだ、と思い浮かべると、いいようのない感慨にふけってしまう。・・・さあ、こんなDVDは出てしまうし、4月にはARIA第2シーズン始まってしまうし、やる気が凄く出るか、ふぬけになってしまうか、どちらかだろうが、さあ、どっちだろうか(前者でいたい!)。

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がんばって毎日更新します

ココログアカウントが急に不明になり、しかもバージョンアップしているらしく、悪戦苦闘し、2時間ほどかかるが、サポートセンターに電話まではしなくてすみました。さて、アクセスが全くないという結果が出まして、これはやはり、ほとんど更新しないままに過ぎていたことが結果だろうと反省。ここ半年で、生活の趣味も心持もかなり変化したため、過去とは違うモチベーションで書くことになろうかと思います。

本日(昨日)映画は『プロデューサーズ』を拝見。この映画を観ていて、今さらに感じたのが、ミュージカルが自然に見えた瞬間があって、それはつまり「ミュージカルは、(実験的な一部の作品を除いて)夢を描いている」ということだ。それも、ほぼ高い確率が「楽しい夢」。多くは、本当に楽しい夢か、不幸な境遇の中での「ささやかな夢」。戦災地や、天災の被災地で、多くのミュージシャンがコンサートを開く理由が「歌を聴く、口ずさむ瞬間、何分かでも、自分の今を忘れることが出来るから」旨のことを言っている。インド映画の多くが歌を除くと、上映時間はほぼ半分になってしまうだろうが、インド映画が時間数が長いのも「夢見る時間は少しでも長いほうがいいから」なのではないだろうか。

ということは、さておき、久々に、近場だけれども、さまざまに歩いた。歩いたって、ただ移動しただけなんだけれども、よく自分がやる「わざわざそんなルート取ると、ただ遠回りしているに過ぎない」ルートを使っただけである。で。地下駅。東京駅の京葉線とか総武線の乗り場への移動が大好きだ。総武線(横須賀線)は、新橋でもいい。今日は、新橋から。なんだろう、多分、あの長ーーーーいエスカレーターがまず魅力だろう。ホームからホームまでの歩行距離も、急いでいないときにはすばらしい。ホームに下りてからも、独特のたたずまいに、周囲を見渡して(地下だから、景色なんてないのだけれど)、自分の慣れた日常のひとつを楽しんだ。うーん、やはり、こういう心持は、やはり、あのアニメの影響だ。

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