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2006年10月19日 (木)

ビザール・モリコーネ

今週は、晴れに次ぐ晴れなんだけれども、休みじゃない日の疲労度が激しかったり、財力の限界も感じたり、で、なかなかインドア的なアウトドアもできないで悶々としているわけですが、なにかきっかけを、と思い2002年のコンピ『ビザール・モリコーネ』を聴きながら、書いております。そうですか、これが出たのが4年前ですから、この頃は、まだ「日本未公開サントラ音源」が珍しくなくなるギリギリの辺りだったのでしょうか。とすると、モリコーネを初めとするイタリアン・サントラ音源が「映画を観ているかどうかはともかく、サウンドがいいから聴く(薦める)」という動きが始まってから、10年ぐらいなんですよね。確かに、今では、その映画を観ているかどうかは、サントラを聴く尺度の中では、あまり(というかほとんど、ひょっとしたら全然)重きをおかなくなった感がある。より、多くの人が、サントラとそれをとりまく状況について「勉強/学習」した成果(弊害?)なのだろうけれど(サントラを映像と切り離して聴く行為を否定する作曲家の方もいるようですし)。今や、サントラは「映画音楽という名の下に、いわばやりたい放題な音楽の一形態」のイメージは確立されている。何か、最近作の傾向(特に邦画。アニメはそれに含まず)では、それが浸透して進化している観客を想像せず、相変わらず"一から説明しないといけないお客様"と錯覚して、観客を逆に遠ざけてしまうような企画ばかり出しているような気がするのですが、これはオッサン特有のグチに過ぎないのでしょうか。

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2006年10月11日 (水)

お役所仕事

『愛・地球博 公式記録映像』DVDが届いた。すばらしい。何がすばらしいっかって、徹底して客観的な作り。かの映画『日本万国博』と一見おなじですが、あのさりげなくないサイケな演出の映像とは違い、まさしく、正統派公式ガイドブックのDVD版を作った感じ。なので、ショールームや教育映像を見るよう。でも、この手の映像は、媚びた演出はない方がいい。しかも、今回は、協会が経費だけをいただいて「頒布」するものだから、余計です。残念なのは、仕方ありませんが、パビリオン紹介に取られる時間がそれほど多くないことですが、全体の雰囲気は、演出することなく捉えられていると思います。そして、重要なのが、ナレーションですが、NHKアナウンサーの森田美由紀。最近でも傑作テレビ「同時3点ドキュメント」のナレーションを担当して、番組をさらに洗練させていますが、この、上品で澄んでいて落ち着けて、それでいてドライな森田ヴォイスが、映像見ずにBGMとしてだけ聴いていてもいい感じです。しかし、最近、自分自身「演出を感じさせない自然さ」を何かにつけて求めている気がします。

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2006年10月 6日 (金)

今クール最期待だった『あさっての方向。』。力作ですね。力作というか、大人の作り。面白いのは、登場人物たちの中で、唯一、ドラマから浮いて妹キャラの主人公(副主人公?)という設定。ドラマは、とにかく「間」を使いまくって、静寂の間隔で、人物関係を説明していく。この「大人ならわかるでしょ」感が、これほど大胆にアニメに取り入れられていたのは初めてだ。スコアは光宗信吉氏だけども、あえて音楽を入れないほうがいいところは入れない、という、まさに日本のインディーズ・シネマ的セオリー(といいながらも、昔から、フィリップ・サルドなんかもよく言っていたようですが)、つまり、ちょっとヨーロッパ映画的手法とでもいうか。見る限り、とてもコメディ的展開ではなさそうだ。そして、例えば『かしまし』のような典型的なものでもないようだ。作り手の意外な脱コメディ風味は、新『ネギま』でも感じられた。フレームを意識して画面を作る(人物は、まずフレームの真ん中には来ず、必ず、四隅に描かれている)、演劇的な舞台装置、流れるようじゃなくて、あえて、ぶつ切りに切っていくようなシーン構成、と「ストーリー以外の部分の何かを感じて欲しい」作り手の意図が感じられる。それが、作品の持ち味と合致して快作となった『ぱにぽに』のスタッフならではの遊び。いい意味で、作品の単純性と違和感をもって、より森田芳光的な味わいを見せる。同じような、ワザの連打を繰り出しても、ハルヒの場合は、ストーリー自体がトリッキーなものだったので、ワザを繰り出すことが、かえってナチュラルになったのでしょう。

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2006年10月 4日 (水)

自分の場合

どうして、こんなことについて考えたのかを考えると、ただ道を歩いているときに思いついたことなんですが。自分は、過去、結構な本数、映画を見ているけれども、そのそれぞれを見た前後のことをほぼ全て覚えていないのは、なぜなのだろう、と。自分は、ひとつの説を唱えていたことがあって(今でも、ある程度は、そうだと思っている)観客にとって、映画(にかぎらず、なんらかの感動を伴う対象物/芸術)、というのは、観客本人がその作品の情報をつかんだところから、うっすらと始まっており、映画そのものを見る行為がクライマックスで、その後の余韻も含めて、ひとつの作品となる、ということだ。特に、今のような情報氾濫期の中の映画は、「映画以前の仕掛け」に重きを置いているものも多い。それらの場合、その「仕掛け」も観客側は楽しんでいたわけだから、それも作品に含む、ということなのですが。今、考えたのは、その持論ではなくて、自分自身のことだ。数多い作品の中で、自分の中で特別になっている作品は、ほぼ全てが「前後、何をしていたか記憶がある」作品だ。それは別に、彼女と観にいったとかではない(実際、女の子と観にいったはずの映画で思い出せない作品は多数)、なにげない自分のふとしたこととつながるのである。『ザ・チャイルド』『テンタクルズ』の2本立てを見た後に、(当時)国鉄の奈良駅の日本食堂で親子丼を食べた、というようなことだ。この場合、あの食堂からそのメニューがなくなり、内装が変わり、果てには、旧奈良駅舎自体が解体されている。こういう経緯があるために、脳が「忘れるな」「忘れるな」と思わせているのかもしれない。ここ最近見た映画で、その前後を思い出せるのは、何本あるだろう、何がそうだろう・・・そういう意味で、時々自分もやっている「知らない町の映画館でわざわざ見る」行為は意味がある。しかし、最近は、見知らぬ町に行くと、映画館に入るよりも、もっとその町自身を歩きたくなるんだよな。

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2006年10月 3日 (火)

日傘

卓上アンテナをつけるだけで、U局も観れるのだ、という単純なことに感動した今日この頃。さて、先日、思いも寄らない、感動的な番組を観た。NHKにんげんドキュメントの「日傘 こころ模様」というもの。ここのところ、実写の「ドラマ」には、TVも映画も、イマイチ、その虚構性の薄っぺらさについていけず(現実のほうがさらに深い、という事柄は、ドキュメンタリー映画が当然のように劇場公開されるようになった現状を見ればわかると思う)、さまざまな物事の中に、心動かされるものを探している、という感じだが、前述の番組。なんともない番組タイトルと、その内容の深さのギャップもよかった。依頼人からの「思い出の着物」を受け取り、その生地で日傘を作る老婦人のドキュメント。これは、もう、完璧に「物語」である。番組では、依頼者の中から数組をピックアップし、それぞれの人生ドラマを数分ずつで紹介していく。ドキュメント番組を観ていて気づいたのは、その中に出てくる人たちが、「見られるプロ」ではない、ことだ。俳優たち「見られるプロ」が出すオーラは、そこにはない。ドキュメント番組、といっても、隠し撮りでない限り、撮られている側も、日常とは違う、ある種の演技は入ってしまうはずだが、それは「プロの演技」ではない。ただ、演出者の方はプロだから「あの人、いつもはあんな感じじゃないよ」という風に撮ってしまう事も可能は可能なんだが、いずれにしても、オーラの度合いは違う。そして、感動の話ですが、「もう着なくなった/一度も袖を通していない」着物が、現役の日傘に生まれ変わる、という事実が、何か、「もう、それは過去のものだと思っていたものが蘇る」プチ奇跡のような感覚がある。そして、それは最近多い、よみがえりドラマとは違って、可能な限り永遠(自分の方が年をとっていくけれども)なので、ちょっと違う。そして、何より、現実だ。これがもともとは「ゆうどきネットワーク」のトピックとして紹介された後の後日談として膨れ上がって、ひとつの番組になるほどの反響になった、というところも泣かせる。そのときのゆうどきを観たい(ゆうどき、のような番組がDVD化されることはまずないだろうし)。

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