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2006年10月 4日 (水)

自分の場合

どうして、こんなことについて考えたのかを考えると、ただ道を歩いているときに思いついたことなんですが。自分は、過去、結構な本数、映画を見ているけれども、そのそれぞれを見た前後のことをほぼ全て覚えていないのは、なぜなのだろう、と。自分は、ひとつの説を唱えていたことがあって(今でも、ある程度は、そうだと思っている)観客にとって、映画(にかぎらず、なんらかの感動を伴う対象物/芸術)、というのは、観客本人がその作品の情報をつかんだところから、うっすらと始まっており、映画そのものを見る行為がクライマックスで、その後の余韻も含めて、ひとつの作品となる、ということだ。特に、今のような情報氾濫期の中の映画は、「映画以前の仕掛け」に重きを置いているものも多い。それらの場合、その「仕掛け」も観客側は楽しんでいたわけだから、それも作品に含む、ということなのですが。今、考えたのは、その持論ではなくて、自分自身のことだ。数多い作品の中で、自分の中で特別になっている作品は、ほぼ全てが「前後、何をしていたか記憶がある」作品だ。それは別に、彼女と観にいったとかではない(実際、女の子と観にいったはずの映画で思い出せない作品は多数)、なにげない自分のふとしたこととつながるのである。『ザ・チャイルド』『テンタクルズ』の2本立てを見た後に、(当時)国鉄の奈良駅の日本食堂で親子丼を食べた、というようなことだ。この場合、あの食堂からそのメニューがなくなり、内装が変わり、果てには、旧奈良駅舎自体が解体されている。こういう経緯があるために、脳が「忘れるな」「忘れるな」と思わせているのかもしれない。ここ最近見た映画で、その前後を思い出せるのは、何本あるだろう、何がそうだろう・・・そういう意味で、時々自分もやっている「知らない町の映画館でわざわざ見る」行為は意味がある。しかし、最近は、見知らぬ町に行くと、映画館に入るよりも、もっとその町自身を歩きたくなるんだよな。

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