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2009年9月29日 (火)

映画的記憶的なつかしさを感じつつ

『イングロリアス・バスターズ』と『わたし出すわ』の2本拝見。まず、『イングロリアス・バスターズ』ですが、どうも、タランティーノ作品というと、作品に集中する、というより、過去作品のかけらを探すべく神経を行き渡らせてしまっていけません。しかし、ファースト・シーンの長い会話で、納得。やはり、今回も、こういう作品なのだ。2時間30分あるが、つまり、もし、このストーリーを省略せずに見せ場すべてをしっかり描いた場合、24時間かかるんじゃないか、と思えるペース。タランティーノ映画のうまみの大部分は、「一見、ストーリーに関係のない雑談シーンのあまりもの多さ、長さ」にある。タランティーノ映画のポイントはとにかく、会話の中での間と視線のやりとりであり、タランティーノ映画は、映画ファンのための映画であるはずなのに、舞台演劇化すれば面白いのじゃないか、と思う。ジャームッシュとかアルジェントとかもそうであろうが、タランティーノも「こういうシーンを撮りたい」ありき、の監督である。今回のストーリーは、なので、いくつか、不明点が残るものはあったりしますが、そんなことより「かっこいいシーンが撮りたい」ことが第一なので、それはそれでよいのでしょう。あの「非情の標的」がかかるシーンなどは、まさにそんな感じがする。特に印象がダブる映画は『キャリー』と『ミラーズ・クロッシング』。自作の『ジャッキー・ブラウン』もダブる。余談だと、手法が似ていることが改めて思われたのが『ハヤテのごとく』。ハヤテは、アニメ盤タランティーノだったのか。確かに、通ずるところはあるだろう。そして、ハヤテは自身をも多くパロったが、そろそろ、タランティーノも、自作をリミックスするテイストを盛り込み始めるのだろうか。イーライ・ロスがナチ・プロパガンダ映画を監督するのは、シャフト・アニメのエンド・カードを誰に書いてもらうか、という発想とそもそも同様に思えます。
そして『わたし出すわ』。実は、最近の森田芳光作品をほとんど見ていないことに気づく。見たのは『黒い家』と『椿三十郎』のため、最近の森田映画がどうなのか、確認できていなかった、という感じがあります。古いですが『家族ゲーム』『メインテーマ』『そろばんずく』の頃は、その”まず遊び心ありきで、そこから作家性をふるいにかける”的なテイストが好きだったんですよね。ですので、そのふるいにかけられた後の作家性が、普通の映画を撮る監督になっていたら困るわけで、『わたし出すわ』は、ごくごく時折、昔の映画青年的テクは出つつも、一見、かなりリアルであろうとしている。が、そこは、永遠映画青年的な非現実性を持ち、ファンタジーであることを意識させている。主人公の母の病院のシーンが、特に、この映画がファンタジーであることを幾度となく思い出させる。音楽を極端に排除した構成は、この作品では自然だろうし、大島ミチルの音楽は茂野雅道の音楽に聴こえたのは、つまりはミニマル・ミュージックに近いものだ、ということだ(茂野さんがミニマル音楽家というわけではないのですが)。

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