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2012年4月25日 (水)

ドライヴ・スコアとシンセ・サントラについての個人的まとめその1

シンセサイザーもしくは電子音楽/打ち込みによるサウンドを中心に構成されたサウンドトラックについて、まとめて考えて見ます。
そして、このサウンドは、おそらく「サントラにおける非メロディ的構成の作品」の存在と切り離せないものだとも考えております。
さて、電子楽器が映画音楽に取り入れられるのは、『禁断の惑星』であったり、ハーマンのサスペンスものであったり、実験であるかのようにあらゆるジャンルの映画音楽に取り入れたラヴァニーノであったり、というものが登場しますが、後の、シンセによる映画音楽の発想のもとになっていると思われる作品は、それそのものは生オケものですがゴールドスミスの『猿の惑星』と思います。『猿の惑星』はゴールドスミス自身が具体的なメロディを排することに挑んだもの。「映画音楽」といえば、それまでのイメージは「メロディアスなもの」のイメージであったために、ゴールドスミスのメジャー大作映画におけるこの発想は、その後の映画音楽を考えるためのSFとも取れるもので
あったでしょう。
さて、本当に電子音楽の作品で、センセーショナルなタイトルとなったのが、電子音楽にも興味を持っていたジャズマンのギル・メレにロバート・ワイズが依頼した『アンドロメダ・・・』でしょう。非音階、特殊なリズムを取る電子音。前衛的なフリージャズをエレクトロ化したような、無音階ながらのポップさ。そして、ジャン・ミシェル・ジャールの『燃えつきた納屋』、これは無音階ではなく、叙情的なメロディアスなメロディを、激しいシンセビートの中に埋もれさせる、という違和感でシンセ音の新たな使用法をさすがシンセ奏者ならではのアプローチで聴かせる。
そのかたわら、非メロディ的なサントラは、ジャズの感覚を基調にシフリン『ダーティハリー』や、ドン・エリス『フレンチ・コネクション』、シャイア『サブウェイパニック』などの、現在では「かっこいいサントラの代表」ともいうべきメジャー作品で試されるが、公開当時、いずれも、サントラLPは発売されておらず、音楽単体で聴く興奮については、考えられていなかった。
ちょうど、日本でも喜多郎の登場などでの、シンセ音楽の叙情性がちょうど大きくクローズアップされ始めた頃に、ヴァンゲリス『炎のランナー』、ジョルジョ・モロダー『ミッドナイト・エクスプレス』などのメロディアスなシンセ・ナンバーがアカデミー賞を受賞したりと、時代の変化を感じさせる状況になってくる。(オスカーはとっていないが、ハロルド・フォルターメイヤーの『ビバリーヒルズ・コップ』内の「アクセルF」のような、その頃の代表曲もある)。
前後するが、そんな時代の少し前に登場しているのが、タンジェリン・ドリームである。多くのロック/ポップ・バンドは、映画音楽を担当しても、それが彼らの職業化していくことは少ないのだが、タンジェリンの場合は違って、『恐怖の報酬』で担当して以来、クールなアクション『ザ・クラッカー』やアナーキーでエロティックな青春映画『卒業白書』でのアプローチなどで、さまざまなジャンルにおける「幻想的な世界」という、今までの映画にはなかった世界を味わわせることになる。そして、タンジェリンのサウンドは、どちらかというと、キャッチーなメロディを持たないものであり、シンセ・サウンドが幻想性の代表的な使われ方を始めるのは、タンジェリンのイメージが定着したのではないか、と思う。
面白いのは、『猿の惑星』の世界を展開したゴールドスミスは、シンセを使用した『勝利への旅立ち』『未来警察』に代表されるように、幻想性というよりも、かなり明確なメロディを奏でさせ、あくまでオーケストラの電子化的な聴かせ方での、シンセ特有の音色の面白さを際立たせた。同様に、巨匠モーリス・ジャールも『刑事ジョン・ブック 目撃者』あたりから、生オケが奏でそうな美しいメロディをシンセで表現し、音色のユニークさが別世界的感覚を呼び起こさせる。
シンセの音色を有用的に聴かせた、当時の売り出し中の作家たちによる低予算娯楽映画、例えばシルベストリ『デルタ・フォース』、チャールズ・バーンスタイン『エルム街の悪夢』、セイファン『バイオ・インフェルノ』といった作品も登場。

時間を大きく経過させて現在の状況。クリフ・マルチネス『ドライヴ』『ソラリス』は、シンセ・サントラのひとつの頂点的なものであり、それは無音階サントラでの表現についても言える。
近年のスコアにおけるシンセ濃度と無音階度は、密着しており、トマンダンディや、チャーリー・クローザー、エリア・クミラルなどの担当するサスペンスや、アッシュ&スペンサーが受けるドラマなどが、現在のその典型例。ただし、タンジェリン当時よりも、無音階さは進んでいて、幻想感を演出するためにじっくりシンセの音色を聴かせる、という手法は、マルチネスぐらいである。オケモノも含め、多くが、無音階的アプローチに舵を取っているハリウッド映画の現在では、シンセ音を、それそのものが個性的な性格、という刺激として認識しなくなったということなのかもしれない。タンジェリン的幻想性は、その後に登場するバダラメンティ、バーウェル、マンセルといった作曲家の音は、過去のシンセ・サントラに要求されていたような幻想感を、生オケ主体で構築している、ともいえる。
いずれにせよ、シンセの音色は、完全に「自然界には、存在しない音」である。そんな音によって、メロディであったりリズムが奏でられたりすることで発せられる非日常性。『ドライヴ』のサントラのクローズアップは、マルチネスの非凡な才能はもちろんだが、その「独特の音色がかもし出す幻想性」に、潜在的に、近年出会っていなかった枯渇感もあるのじゃないかな、と思うのでありました。

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2012年4月17日 (火)

『バトルシップ』とネタバレ厳禁について

「ネタバレ厳禁」文化は、いつ根付いたのだろう、なんてことを感じながら、観ていた『バトルシップ』。この映画は、何分か毎に「ネタバレしたくなる大ネタ」が登場する。そして、それらは、放置されたまま終る。この文章でも、それについての詳細は、書いてはいけないだろうから、その代わりといっては何ですが、思い出したものを。まずは『ザ・チャイルド』。これに限ったことではないが、、多くのホラーは「なぜ、そんなことが起きているのかわからない」ということがあり、それが恐怖感を増している。が『ザ・チャイルド』はメインタイトル部分で、その原因と思しき事柄について、ある説明がなされる。映画自身は、これがそうですよ、とは言わないが、それによって社会性も持ち合わせた作品の様相を示す。
もうひとつが『パニック・イン・スタジアム』。これについては、以前にも書いている気がするが、この作品についての、映画と小説のありよう。映画は、起こったスペクタクルな大事件と、その収束までを、ハードボイルドに淡々と描いている。その反面、小説は、事件はあくまで最後に終結する破滅的な一点であり、そこへたどり着くまでの「犯人」となってしまうひとりの人間についてのドラマが克明に描かれる。なので、この2つともを味わうことで、かなり社会性をもって事件の全貌を見渡せる。そして、そう、これは多くの現実に起きる「事件」の、伝わり方に似ている。
『バトルシップ』は、おそらく、あえて描いていない、そして、登場人物たちにも語らせていない点がある。それらの中の一つに、冒頭があり、この映画は(これは、言ってもいいでしょう)エンドクレジット全て終ってからのシーンで描かれることによって、ある問題を確実にさせる。
『バトルシップ』の中のフックには、お約束のセオリーと、お約束を知っているからこそのひとひねりと、が、コンスタントに現れる。物語の全体像でさえ、考えれば、やや、前半までに観客が想像するであろうこととは違う展開になっている箇所がある。
さて、「ネタバレ厳禁映画」なんてコミュニケーションに不自由さを強いるツールが、なぜ存在するのだろう、と考えて、出た答えの一つ。「映画を同時に二人以上の人間で見ることを有意義にするため」だ。映画は一人でも見られる。会話は一人ではできない。思考のやりとりもひとりではできない。そして、ネタバレ厳禁映画についてのトークは、無作為の人間相手であれば、その相手が「これからまだ見る」可能性も高いので厳禁だが、一緒に見た相手であれば「見ていることは確実」なわけだから、タブーが一切ないのだ。なので「ネタバレ厳禁映画」は、小説でもないし、ソーシャルメディア登場以前の物語なのである。
国家機密が何年後には公表するか、の話がありますが、ネタバレ厳禁物語の時効は、どのぐらいなのだろう。『オリエント急行殺人事件』の全貌は多分、物語好きであれば知っているだろうし(この推理小説は、そういったバックボーンがありつつ映画化するわけだから、かなり特殊である)『サイコ』もおそらく時効はすぎているが、例えば『シックスセンス』や『クライング・ゲーム』などはまだ微妙なところだと思っている。
そもそも、大体「ネタバレ厳禁」な映画だったと知らなかった、という場合もある。『パッセンジャーズ』は、まさにそうだった。『パッセンジャーズ』は「何がし」みたいな映画で、というだけでもう「何がし」側を見ていればバレる。そうならないためには、全ての物語を「ネタバレ厳禁」にしないとすべての意外性は失われないことにならないが、それは、何も語れなくなる。
最近は、自分は、蓮実先生だったかの「名作は、どこから見ても面白いはず」的な考えに若干賛同派なので、基本的には、どんな物語でも、最後まで語ってもらってもかまわないと思っている。語り手が語りきれていない部分は、もちろん、語れている部分より多いから、物語や犯人など以外の部分で、多くの「意外性」におそらく出会えるので、心配はしていない。
が、こっちが語る側である場合は、そういかない。物語の楽しみ方も、人それぞれなので。
そして、『バトルシップ』に話は戻るが、これも具体的に語れない、とあるひとつの大きなポイントについてだが、そう思って、ピーター・バーグの今までの作品を反芻するに、いずれも「マッチョな人間が肉体を動かすことによってダイナミズムを感じさせるアクション」が撮りたいのだな(なので『ワイルド・スピード』なんかじゃないのだな)ということ。宇宙生命体襲来SFも、ホラーにするのではなく、「アクション映画」にするために、あえて、ああしたのだろう、と。案外、譲れない点だったのではないか。そして、それは、おそらく、多くの映画ファンの「突っ込みどころ」の一点になっているが、そういうことではないのだ。そして、そのヒントが冒頭かも知れず、さらにその以前のドラマを想像させるものを感じる。
『パニック・イン・スタジアム』を想起したのは「襲来者側から描いた方が、おそらく深いドラマになる」ことを感じたからで、それを想起させる演出が成されている。これも「突っ込みどころ」の一点だが、これにも多分、意味がある。
一見「壮大なおバカSF」にまとめたピーター・バーグ作品だが、「鑑賞後のみんなのトーク」の中で、バーグが期待するテーマにまで、話が進むかもしれないぐらいの明解さは出しているのではないか。おそるべし「突っ込みどころの多い映画」である。

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2012年4月10日 (火)

沈黙の瞬間

今年は、気のせいでなく、本当に世界的に映画そのものの豊作の年のように思える。まだまだ、見ないといけなそうな作品が多くあり、その中から選べるという幸福な状況が、現在。ということで『アーティスト』鑑賞。
まず、気になっていたのは「曲間をどう処理するのか」だった。サントラは、先に何度も聴いているが、決して、一曲に続けた組曲形式になっていないことは意識していた。だが、サイレントであるがゆえ、ほぼ全編に渡って、音楽が流れ続けるはずである。
これは、演出の見せ所でありました。こちらの予想以上に、沈黙をきめてきた。そう、曲が終わり、次の曲が始まるまでの間に、重要な「静寂に意味がある」シーンを持ってきているのだ。なので、シーンごとに曲が存在するのではなく、ほとんどの曲は、シーンをまたいでいる。これは、サイレント映画が別に演出のひとつしてではなく存在していた時代には、出てこない発想である。
映画に音をつける時に「どのシーンに音楽は入れないほうがよいか」の話が重要になる、ということについて語るのを初めて読んだのは、フィリップ・サルドの何かのインタビューだった。のちに、佐藤直紀氏も、同様の意見を話しており、結果、ほとんど音楽が流れない作品になっても、それは作曲家としても本望、みたいなことを言っておられた。
そして、意外だったのは、『アーティスト』の音楽は、さほどシーンを細やかに表現するものではなく、むしろ、耳当たりのよいオーケストラ・ポップを流し続けて、エンタテインメント映画であるという主張を保ち続ける、といった立ち居地の感があったこと。ニュートラルな立場での音楽となると、イメージとしてはアンビエントを想像するが、メロディから遠ざかることが、作品に対して客観性を持たせるわけでは、必ずしもない。『アーティスト』のように、はっきりしたコメディではないにしても、陽性をキープする作品では、尚のこと。
物語の中には、激しい喜怒哀楽が存在するはずの起伏が、お約束事的に展開するが、それを「みなさんご存知の、あの感じの展開ですよ」を香らせることで、悲劇的シーンでさえ、陽的に見ていることができる。不思議な感覚である。
思い起こせば、『アーティスト』の展開は、”物語あるある”ディテールの積み重ねである。それは、水戸黄門的予定調和の心地よささえある。音についての処理については、これはなかなかネタバレ的なものだから、書くのは難しいですよね。
ラストも、あるあるなラストだが、理想的ラストのひとつ。近年の、この感じの終り方では、『らきすた』の最終回を思い出しました。『らきすた』の構成の方がトリッキーではあるが。
『アーティスト』は、肩の凝らない娯楽映画であろうとするのか、なので、おそらく意図的に、技巧的な技巧には走らない。それよりも、もっと親しみやすくあろうとする。
あと、女優のプロポーションが映画自体の説得力にどれほど重要であるか、を感心してしまった。ベレニス・ベジョのあの顔つき、体つきだからこそ、なぜか、娯楽映画としてだまされ続けることができた、というか。

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2012年4月 4日 (水)

映画的であること?

『ドライヴ』鑑賞。悲しい性で、アート映画鑑賞的心持で見てしまう。ただ、これは先日の『僕達急行』もそうだったので、見る映画のチョイスがまず、そういう映画を見ている、ということなんですが。
この作品も、言われる北野武・タランティーノ映画との類似、すなわち「撮りたいシーンありき」で、ストーリーは、そのシーンを繋ぐ蝶番にすぎない感じはしました。もちろん、映画の醍醐味にかっこいいシーンというのは、第一にすべきではあるので、正解の一つではあるのでしょう。
そして、北野映画(北野作品の、監督自身の音楽へのさほど拘りがない様子は、梶浦由記さん談でも承知できる)と違い、タランティーノ的なものとさらに近しくするのが、音楽への拘りで、選曲的な趣味は、タランティーノというよりはダニー・ボイル的なもの(要所のみ、おそらく外せなかった既成曲からの選曲があり、シーンのBGMとしては基本オリジナル・スコアが存在する)を聴き取る。が、オリジナル・スコアといっても、限りなくサウンドデザインに近いクリフ・マルチネスの音である。ここが、スコアといっても、他の映画とは性格を異にしている気がする。
きたきたー、という感じだったのが、『残酷大陸』オー・マイ・ラヴが流れるシーン。あの感じのシーンで、この美しいバラード、出典はイタリアン・サントラ、というのは、近年でいう、あの『イングロリアス・バスターズ』の「非情の標的」登場シーンである。イタリアのウエスタンから残酷ドキュメント、ギャングものにいたるまで、「残虐な題材を伴う作品における美しいメロディ」というのは、映画小僧たちにとって、外せないアイテムなのだろう。今回は、使っているのはオルトラーニだが、この感じは、要するに、非常にモリコーネ・メロディ使いたい的娯楽映画の美学が強迫観念的に存在するのだろう。
そして、『ザ・ドライバー』よりも、もっと感触の近い参考作品はあるはずだ、と考えたのだが、おそらく、フィルムノワール的素材におけるアンビエントという点で『ザ・クラッカー』のタンジェリン・ドリームの音であろうと思う。ただ、面白いのはタンジェリンの音が使われた作品の多くが、物語を乾かせるとでもいうか、なるべくウエットさをとりのぞく機能を果たすのに、マルチネスの音は、音階の選び方もあると思うが、さほど乾かしはしていない。どちらかというと、作品の中の強弱をシャイさゆえに隠すために機能しているかのように思える。
ストーリーと、音楽によるハードボイルドさを一瞬思い起こさせたのは、『グロリア』のビル・コンティ。ハードなヒロインの劇伴に、男くさいサウンド。これは、そういうアプローチでもよいかも、という妄想であって、『グロリア』的劇伴でも作品は破綻しないと思う。これは、趣味の問題でしかないような気もする。
「間」について。これも、さあ、見せますよ「間」、というシーンは何度か登場する。もちろん、意識してもしくは無意識に、『リンダ・リンダ・リンダ』の覗き見アングルのようなそれであったり、官能的な感覚を表すために使われたりするが、そこで、ちょうどDVDが出たばかりぐらいの「6秒以上のカットは絶対使わない」(だったかな)旨の発言をしていたジェームズ・グリッケンハウスの『エクスタミネーター』を思い出したりする。
ちょうど「2011-2012カルチャー時評」を時間合わせ兼ねて買って読む中で言われた「昔からの映画通が、「これは映画じゃない」というものが出たときこそ、映画が変わるとき」という論は『勝手にしやがれ』から『モテキ』に至るまで、なるほどと思わせるものがあったが、その論に当てはめて、タランティーノ作品や、『ドライヴ』は、ものすごく映画的であって、新しいものを作り出してはいない。
そこで気になったのは、『ヒューゴ』にしても『アーティスト』にしても『ドライヴ』にしても、やはり映画的である。映画ファンには嬉しいが、それは、閉じた世界なのではないか、という疑問は残る。映画的ではないものを賛辞するわけではないが、『ドライヴ』に関しては、全く新しい才能、というのとはやはり少し違う。彼は、昔からの映画ファンだし、リスペクトしすぎている。
タランティーノがすごかったのは、あっけらかんとした過去作品へのあからさまな敬意が、みんなに認められたということだ。リスペクト、オマージュというキーワードは、その頃より、マイナス・イメージがなくなる速度は速まったと思う。
男の子の好きな物語というのは、結局エンドレスなのか、『ドライヴ』のウエスタン的なもののひとつに、最も重要な位置にいる女性キャラクターが、極度なまでに受身である、ということだ。最近のストーリーでは珍しいほど、ただ待っている。これはまるでシェーン・カムバックだ、とも。
ひょっとしたら、そういった、かなり昔の男のためのアクション映画的要素をカムフラージュするために、エレクトロニカ的サウンドで中和を狙ったかな。
ラストのフェイドアウト的なものは、好感。しかし、これまた『映画 けいおん』のフェイドアウト的なものを経験していると、映画的なものを予想していない側からすると、一本とられた気がしていて、そちらに軍配が上がってしまう。『映画 けいおん』は、「あまりに映画的である」ということが、逆に驚きとなっている嬉しい皮肉でありました。
ところで、一度、北野映画で「既成曲をメインテーマ的に使う」というのを見てみたいと思いました。

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ふたりのHarlow

ニール・ヘフティ『SYNANON』を聴く。『ENTER LAUGHING』クインシー・ジョーンズとのカップリング。麻薬中毒患者の更正施設の人間ドラマ。と訊けば、ヘフティといえども・・・と思ったら、これが、音だけだと、全く、映画の内容は想像付かない、おしゃれなイージーリスニング・タイプ寄りのジャズという、おなじみのヘフティ・ワールド。『SYNANON』の監督リチャード・クワインはそれまで組んでいたジョージ・ダーニング以外に音楽を依頼する『パリで一緒に』をネルソン・リドルに、『求婚専科』『女房の殺し方教えます』をニール・ヘフティに、『ホテル』をジョニー・キーティングに、とイージーリスニング・ファンにもたまらないバンドリーダーでもあるアレンジャーたちに頼んでいった。
ニール・ヘフティで、個人的に愛聴したのが、2001年にコレクタブルがCD化したイージー・アルバム『Pardon My Doo-Wah』と『Hefti Hot 'N Hearty』のカップリング盤。2001年というと、そうまだCD超好景気の頃だから、コレクタブルやコレクターズ・チョイス、そしてタラゴンといったコレクターズ・レーベルからイージーものがじゃんじゃんCD化され、その中の一枚。今では、がんばっているのはヴォカリオンだが、当時は、まだヴォカリオンのがんばりは目だっていなかったと思う。このアルバムの中に収録の「リル・ダーリン」、
このアルバムではないが「ガール・トーク」、この2曲をレパートリーにしているイージー・アルバムは楽団問わず、すぐほしくなった。
ヘフティのサウンドは、マンシーニよりもさらに、可愛らしさをもっていた印象がある。マンシーニのサウンドはレディであって、ヘフティはガールな感じ。ジャッキー・グリースンなんかは、もっと大人っぽくなる。
『HARLOW』は、ヘフティ音楽のキャロル・バーネット主演作の方がDRGからCD化され、聴かれた方も多いと思う。同じ年に、もうひとつ、同じくジーン・ハーロウを描いた『HARLOW』があり、キャロル・リンレイ主演のこちらの音楽はネルソン・リドル。こちらは現状未CD化。しばらく、当初どちかがリジェクトで映画は一本なのだと思っていた。
話は、少し前の行に関連して、ジョニー・キーティングだが、キーティングものは、ヴォカリオンがCD化に力を入れたが、中でもうなったのが『TEMPTATION』と『PERCUSSIVE MOODS』のカップリング。キーティングのアレンジは、誰もこんなアレンジしないだろう発想の転換的なアレンジで、なおかつシンプルにまとめて、ロックな感じさえ漂った。このロックな感じが、パンチのあるカテリーナ・ヴァレンテの歌いっぷりともよくあったのだろう。
ということで、クリッツァーランドは、『女房の殺し方教えます』に続いて『SYNANON』をCD化した。『求婚専科』をCD化したFSMは引退してしまうが、クリッツァーランドへの協力は万全と思うので、ぜひ、このまま『裸足で散歩』『砦の29人』『おかしな二人』を実現してほしい。が、どれも、限定1000枚だったら、瞬殺しそうなタイトルばかりが残っている。

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