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2012年4月 4日 (水)

映画的であること?

『ドライヴ』鑑賞。悲しい性で、アート映画鑑賞的心持で見てしまう。ただ、これは先日の『僕達急行』もそうだったので、見る映画のチョイスがまず、そういう映画を見ている、ということなんですが。
この作品も、言われる北野武・タランティーノ映画との類似、すなわち「撮りたいシーンありき」で、ストーリーは、そのシーンを繋ぐ蝶番にすぎない感じはしました。もちろん、映画の醍醐味にかっこいいシーンというのは、第一にすべきではあるので、正解の一つではあるのでしょう。
そして、北野映画(北野作品の、監督自身の音楽へのさほど拘りがない様子は、梶浦由記さん談でも承知できる)と違い、タランティーノ的なものとさらに近しくするのが、音楽への拘りで、選曲的な趣味は、タランティーノというよりはダニー・ボイル的なもの(要所のみ、おそらく外せなかった既成曲からの選曲があり、シーンのBGMとしては基本オリジナル・スコアが存在する)を聴き取る。が、オリジナル・スコアといっても、限りなくサウンドデザインに近いクリフ・マルチネスの音である。ここが、スコアといっても、他の映画とは性格を異にしている気がする。
きたきたー、という感じだったのが、『残酷大陸』オー・マイ・ラヴが流れるシーン。あの感じのシーンで、この美しいバラード、出典はイタリアン・サントラ、というのは、近年でいう、あの『イングロリアス・バスターズ』の「非情の標的」登場シーンである。イタリアのウエスタンから残酷ドキュメント、ギャングものにいたるまで、「残虐な題材を伴う作品における美しいメロディ」というのは、映画小僧たちにとって、外せないアイテムなのだろう。今回は、使っているのはオルトラーニだが、この感じは、要するに、非常にモリコーネ・メロディ使いたい的娯楽映画の美学が強迫観念的に存在するのだろう。
そして、『ザ・ドライバー』よりも、もっと感触の近い参考作品はあるはずだ、と考えたのだが、おそらく、フィルムノワール的素材におけるアンビエントという点で『ザ・クラッカー』のタンジェリン・ドリームの音であろうと思う。ただ、面白いのはタンジェリンの音が使われた作品の多くが、物語を乾かせるとでもいうか、なるべくウエットさをとりのぞく機能を果たすのに、マルチネスの音は、音階の選び方もあると思うが、さほど乾かしはしていない。どちらかというと、作品の中の強弱をシャイさゆえに隠すために機能しているかのように思える。
ストーリーと、音楽によるハードボイルドさを一瞬思い起こさせたのは、『グロリア』のビル・コンティ。ハードなヒロインの劇伴に、男くさいサウンド。これは、そういうアプローチでもよいかも、という妄想であって、『グロリア』的劇伴でも作品は破綻しないと思う。これは、趣味の問題でしかないような気もする。
「間」について。これも、さあ、見せますよ「間」、というシーンは何度か登場する。もちろん、意識してもしくは無意識に、『リンダ・リンダ・リンダ』の覗き見アングルのようなそれであったり、官能的な感覚を表すために使われたりするが、そこで、ちょうどDVDが出たばかりぐらいの「6秒以上のカットは絶対使わない」(だったかな)旨の発言をしていたジェームズ・グリッケンハウスの『エクスタミネーター』を思い出したりする。
ちょうど「2011-2012カルチャー時評」を時間合わせ兼ねて買って読む中で言われた「昔からの映画通が、「これは映画じゃない」というものが出たときこそ、映画が変わるとき」という論は『勝手にしやがれ』から『モテキ』に至るまで、なるほどと思わせるものがあったが、その論に当てはめて、タランティーノ作品や、『ドライヴ』は、ものすごく映画的であって、新しいものを作り出してはいない。
そこで気になったのは、『ヒューゴ』にしても『アーティスト』にしても『ドライヴ』にしても、やはり映画的である。映画ファンには嬉しいが、それは、閉じた世界なのではないか、という疑問は残る。映画的ではないものを賛辞するわけではないが、『ドライヴ』に関しては、全く新しい才能、というのとはやはり少し違う。彼は、昔からの映画ファンだし、リスペクトしすぎている。
タランティーノがすごかったのは、あっけらかんとした過去作品へのあからさまな敬意が、みんなに認められたということだ。リスペクト、オマージュというキーワードは、その頃より、マイナス・イメージがなくなる速度は速まったと思う。
男の子の好きな物語というのは、結局エンドレスなのか、『ドライヴ』のウエスタン的なもののひとつに、最も重要な位置にいる女性キャラクターが、極度なまでに受身である、ということだ。最近のストーリーでは珍しいほど、ただ待っている。これはまるでシェーン・カムバックだ、とも。
ひょっとしたら、そういった、かなり昔の男のためのアクション映画的要素をカムフラージュするために、エレクトロニカ的サウンドで中和を狙ったかな。
ラストのフェイドアウト的なものは、好感。しかし、これまた『映画 けいおん』のフェイドアウト的なものを経験していると、映画的なものを予想していない側からすると、一本とられた気がしていて、そちらに軍配が上がってしまう。『映画 けいおん』は、「あまりに映画的である」ということが、逆に驚きとなっている嬉しい皮肉でありました。
ところで、一度、北野映画で「既成曲をメインテーマ的に使う」というのを見てみたいと思いました。

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