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2012年4月10日 (火)

沈黙の瞬間

今年は、気のせいでなく、本当に世界的に映画そのものの豊作の年のように思える。まだまだ、見ないといけなそうな作品が多くあり、その中から選べるという幸福な状況が、現在。ということで『アーティスト』鑑賞。
まず、気になっていたのは「曲間をどう処理するのか」だった。サントラは、先に何度も聴いているが、決して、一曲に続けた組曲形式になっていないことは意識していた。だが、サイレントであるがゆえ、ほぼ全編に渡って、音楽が流れ続けるはずである。
これは、演出の見せ所でありました。こちらの予想以上に、沈黙をきめてきた。そう、曲が終わり、次の曲が始まるまでの間に、重要な「静寂に意味がある」シーンを持ってきているのだ。なので、シーンごとに曲が存在するのではなく、ほとんどの曲は、シーンをまたいでいる。これは、サイレント映画が別に演出のひとつしてではなく存在していた時代には、出てこない発想である。
映画に音をつける時に「どのシーンに音楽は入れないほうがよいか」の話が重要になる、ということについて語るのを初めて読んだのは、フィリップ・サルドの何かのインタビューだった。のちに、佐藤直紀氏も、同様の意見を話しており、結果、ほとんど音楽が流れない作品になっても、それは作曲家としても本望、みたいなことを言っておられた。
そして、意外だったのは、『アーティスト』の音楽は、さほどシーンを細やかに表現するものではなく、むしろ、耳当たりのよいオーケストラ・ポップを流し続けて、エンタテインメント映画であるという主張を保ち続ける、といった立ち居地の感があったこと。ニュートラルな立場での音楽となると、イメージとしてはアンビエントを想像するが、メロディから遠ざかることが、作品に対して客観性を持たせるわけでは、必ずしもない。『アーティスト』のように、はっきりしたコメディではないにしても、陽性をキープする作品では、尚のこと。
物語の中には、激しい喜怒哀楽が存在するはずの起伏が、お約束事的に展開するが、それを「みなさんご存知の、あの感じの展開ですよ」を香らせることで、悲劇的シーンでさえ、陽的に見ていることができる。不思議な感覚である。
思い起こせば、『アーティスト』の展開は、”物語あるある”ディテールの積み重ねである。それは、水戸黄門的予定調和の心地よささえある。音についての処理については、これはなかなかネタバレ的なものだから、書くのは難しいですよね。
ラストも、あるあるなラストだが、理想的ラストのひとつ。近年の、この感じの終り方では、『らきすた』の最終回を思い出しました。『らきすた』の構成の方がトリッキーではあるが。
『アーティスト』は、肩の凝らない娯楽映画であろうとするのか、なので、おそらく意図的に、技巧的な技巧には走らない。それよりも、もっと親しみやすくあろうとする。
あと、女優のプロポーションが映画自体の説得力にどれほど重要であるか、を感心してしまった。ベレニス・ベジョのあの顔つき、体つきだからこそ、なぜか、娯楽映画としてだまされ続けることができた、というか。

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