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2012年5月27日 (日)

『鬼に訊け』はカンナの音が命

キネカ大森にて『鬼に訊け 宮大工 西岡常一の遺言』拝見。『船、山にのぼる』以来の「商業映画として文化映画を見る」心持の鑑賞。
音楽の一部と、石橋蓮司のナレーションの雰囲気は、先にゆうゆうワイドで紹介されていたので、つかんではいました。なんといっても、この映画での音の主役は、カンナの削り音です。神的存在の宮大工、西岡常一の貴重なインタビューおよび晩年の現場取材映像を、真正面にまとめたもので、ひたすらに構成としてはシンプル。職人が語る内容も、「まずは心だ」的なものではなくて、しっかり理屈に基づくものばかりなために、世代を超えて説得力をもつ。まあ、この教訓は・・・・なんて感想に行きそうなものはあえて避けて、この映画をあくまで娯楽映画として、楽しみました。鬼とあがめられるには柔和な表情の西岡氏の淡々とした語り口と、映画全体も、決して、メリハリをもつという構造ではない、教科書を映像化するかのような平静さ。しかし、この映画の注目点がある。職人作業を写すシーンは、カメラ自体がのめりこむかのように、長いのです。こういう、黙々淡々と行われる「作業」を見るのは、嫌いじゃないどころか、むしろ好きなので、カンナの歴史を語りつつ、各カンナでの削り具合が、あの心地よい音と共に写されている部分は、かなり恍惚。後半は、いよいよクライマックスの、準備された木を組み込んでいく作業が、これまた結構な時間を割いて映されていくが、これも、快感。この映画は、趣旨を職人の生き様を見つめる表向きのテーマがあるが、支持される裏テーマ的なところに、この「作業萌え」は、きっとあると思う。
黙々と作業する姿。これを見ることは、結構、何ものにも換え難い快感がある。ちょっと違うかも知れないがジャック・リヴェットの『美しき諍い女』は、あきらかに普通の映画と時間の流れ方が違うために、長尺があっという間だが、あれも、画家が描くという作業を見る「作業萌え」を観客は起こしているんじゃないか、と解釈している。「工場萌え」「ダム萌え」も市民権を得ているし、「人間ドラマは、最小限に絞り、工場を建設する現場の作業姿を淡々と描く」映画がもしあれば、いい意味で卒倒するんじゃないか、と思う。これは、かなりマジで。

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2012年5月20日 (日)

ハワイアンが癒し続ける『ファミリー・ツリー』

横浜ブルク13にて『ファミリー・ツリー』鑑賞。本当は、ここの上映待ち時間中にスクリーンで写っているスライド(館内設備&サービス案内)のBGMが好きで、(地味で無機的で美しいまさにアンビエントな感じ)、それを聴きたくて選んだのに、ジャズがBGMで流れていて、そのスライド放映はなし。時間帯? 曜日? スクリーンによって? そもそも、もう今はない? で、そのスライド映像に「ムービー・コンシェルジュ」(だったかなぁ、なんかそんな呼び名。要するにスタッフ。社員さんのみかもしれないが)が案内します旨が写っていて、一人の女性が手差ししている姿が写っているのだが、本当にスタッフが写っているのだとは思っていない。と、本日、どうも、その姿に似た女性スタッフらしき人を見かけるが、再確認できず。余談中の余談。
さて『ファミリー・ツリー』。これも、邦題の由来不明で、しこりが残る。が、原題の『THE DESCENDANTS』だと「子孫」になり、ここから連想されて、日本人でもイメージし易い英語で、ということなのだろうか。
さて、昨日見た『別離』と、非常に類似点を持つな、と感じながら鑑賞。ただし、こちらは、初めのほうで、ある程度のモノローグがあり、そこで説明が結構なされる。また、登場人物それぞれが、もともと知っている情報が偏っているため、会話自体も、かなりの説明になる。モノローグというのは、得てして、物語をコミカルな色合いを帯びさせるな、とも感じる。
『別離』と違い、『ファミリー・ツリー』はほぼ全編に渡って、ハワイアンが流れている。歌の入ったもの、もしくはギター演奏のみのもの。ほぼトーンは変わらないため、ものすごくシリアスな物語が、常にハワイアン音楽によってまろやかにされて観客の自分は見ている。音楽がないと、かなりいたたまれない状況が、音楽によって、むしろコミカルにさえ、写っているのだな、と。
これは、極論だが、昔、大学時代に『死霊のはらわた』を上映しつつ、音は消してリチャード・クレイダーマンの音楽を流し続ける、といった実験上映を提案した自分を思い出す。その条件では、フィルム借りられへんやろ、ということで、そんな上映方法自体は幻に終ったが、後に、その発想の発展系みたいなイベント上映は行ったことがある。
『別離』と『ファミリー・ツリー』は、ドラマへの作り手のアプローチの仕方が両極に位置している気がして面白い。もちろん、良し悪しの話ではない。いろんな方法があるが、作品では、ひとつの方法しか選べない。「フィルムメイキング」というゲームでもあれば、別かもしれないが(似たものは、すでにあるかな?)

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2012年5月19日 (土)

『別離』解釈を明解にしないということ

すっかりお気に入りになってしまった、チネチッタにて『別離』を拝見。
まず、音楽の話ですが、なんとエンドクレジットのピアノ曲以外は、いわゆる劇伴は一切なし。ソース・ミュージック(カー・ステレオで流れている曲と、店だったかで流れていた曲)も2曲のみ。
さて、もちろん、ストーリーというか人物(とくに女性)が取る行動については、宗教的理由からの地域独特の部分があるのだが、基本的には、世界の大人たちが共通して抱える問題も多く含まれているゆえ、引き込まれて見ることができるのだろう。
この作品に劇伴がない理由は、いくつかある。その大きなひとつが、物語の方向性についての先入観を作らないため、ということがあると思う。登場人物たちの心情は、かなり脇役に至るまで、結構、描きこまれているのを感じる。バックに描きこみがあることが感づくため、逆に、説明的なセリフは一切なくとも、どういった位置にある人物なのかがわかる。そして、それぞれの人物の、それぞれへの思いが交錯し、なおかつ、果たして、この物語は、誰にとっては主観の物語になるのか、というところも思わせないため、どういった作品であるかを説明する演出を一切省略する。劇伴もそのひとつ。
途中、主人公夫婦の夫の父がつけている酸素ボンベを開ける音、そしてブラインドを開ける音が強調されるかのように描かれる箇所がある。その頃から、物語の中で彼らが発する生活音にも耳を意識して傾けることになる。確かに、観客にとって、耳の記憶はヒントにつながる点も多くある。すべては、手がかりになりますよ、と説明せずに説明しているかのよう。
説明しないことによる説明。これは、場面およびカット省略において、発揮される。こういった手法が目立つように使われているミステリーも、おそらくあるはずだが、すぐに思いつかない。本作でいうと、映画を見ている間に、「あれ?」と思う箇所が出てくる。その「あれ?」は、ちょっと記憶の彼方に行きかけるが、それが気のせいではないことは後に明かされる。
巧妙に、鍵となるはずのシーンやカットが省略される。逆に言うと、省略された部分(描かれなかった部分)はどの部分であったかに思い当たると、この物語のどこに重要性があるのかが見えてくる。
もうひとつ言えば、最終的にそれらの省略は、補完映像が後にあるわけではないし、どの登場人物の発言が正解という主観を持たせないため、無数の解釈が可能になってくる、という構造でもある。
この映画を見て思ったのは、この物語に、劇伴はつけられると思う。たとえば、何人かの作曲家に思い思いにつけてもらうとする。そうしたら、物語の解釈自体が変わってしまう何通りもの、明解な物語がおそらく仕上がるのだ。
とすれば、と思うのは、大仰な劇伴が重要な役割を示す作品から、劇伴を抜いて鑑賞してみたいという欲望。ハーマンのスコア抜きの『サイコ』や『めまい』、ゴールドスミスのスコアぬきの『オーメン』、レイの流麗なサウンド抜きの『男と女』・・・・いや、多分、それは「クリープを入れないコーヒー」にはなると思うが、決して、まずいのではない。難解になるだけだ。「クリープを入れないコーヒー」は難解なコーヒーなのだ。

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2012年5月15日 (火)

『フランス映画どこへ行く』を読み終わって

『フランス映画どこへ行く』を読み終えて、感じるのは、これは、フランス映画だけのことではなく、おそらく多くの映画界において、問われる事項であり、かつ、映画だけでなく、文学、絵画、コミック、アニメ、音楽など、「作品」というものが存在する全てが抱えている問題ではないか、ということだ。終盤のクラピッシュ監督のインタビューで、監督は30人の子どもたちが観て、10人にしか伝わらないものほど、重要ではないか、の発言をしている。最大公約数的な映画についての疑問であるが、確かに、誰もが何も疑問を唱えない物語、誰もが、新しい未知の世界を知るわけではない物語の存在には疑問が投げかけられるのは理解できる。
読みながら、ずっと意識していたのは、「作品」と「商品」の対比。商業は結果的にどのようなものにとっても「商品」を求める。「作品」ではない。ファーストフードが商品の例として挙げられるが、これはわかりやすい。決められたシステムによって作られる、間違いのない味。これが映画他、さまざまな物語などに適応された場合、確かに恐ろしい気がしないでもない。
フランス映画の重要な部分として「中間映画」という言葉が取り上げられる。自分としては、映画監督が自分の満足の行く作品に完成させるために、大作にするつもりはなくとも、ある程度予算の自由が利き、結果、低予算映画、とは言いがたい予算で作られるもの、それが「中間映画」と解釈したが、物語の面白さ、独創性、そしてそこに秘められる作家性のようなものを満足させるには、必ずしも巨額は必要としない。(もちろん、再三の取り直しや、あまりもの現実からは離脱したイメージを作らないといけないもの、などになると別だろうが)
そんな「中間映画」はちょうど日本で言うと、アスミック・エースやビターズ・エンドが作っている多くの作品や、川村元気Pの作品などが、あたるのだろうな、と考える。イギリスのティム・ビーヴァンPの作品などもそうだ(俳優のギャラによって高騰している作品もありそうですが)。
そして、論の中で、イタリア映画は、すでにもうがんばれない状況に陥っていると書いている。自分は、いろんなサントラ盤を聞いたり調べたりするな勝て、フランス、イタリア、スペイン、ドイツあたりの映画の現在に行き当たるが、それらはあくまでも「サントラが出ているもの」なのであって、逆に形になっていないものの状況は確かにつかめない。フランス映画は、商業に寄り過ぎた映画が一時期多かったのは、感じとしてわかるが、イタリアは、そもそも絶対数が少なくなってしまっている印象しかないのである。
アメリカにも「中間映画」的なものはあるだろうし、そこに作家性の濃いものは多い。思ったのが、そういえば、MILANやLAKESHOREがピックアップしてサントラを出す作品、あれらは、多くが、世界各国の「中間映画」だな、と。
映画における「作品」と「商品」の違い。そして、それは例えば、アニメでも「作品」と「商品」の違いはあり、いわばサントラでも「作品」と「商品」の違いはあるな、となんとなく思う。
システムに組み込まれて、いかに、そこから離脱せずにルーティンを生きれるか、が「商品」であれば、その人でしか生み出せなかった何かが「作品」でありましょうか。
「作品」を生みたいと思っているが、多くのそれは「商品」でしかない。それが「作品」として認められるまでに何が必要なのかは、人それぞれだし、人それぞれだからこそ「作品」になるのだから、これはもうずっと考え続けるしかない。
難しいのは鑑賞するほうで、ともすれば安易に「商品」で済ませてしまうが、生活の中にどれだけ「作品」を溶け込ませられ、それを楽しみ味わえるか。その「味わったよ」感が出れば出るほど、「作品」を出している側の利になるはずなので、鑑賞する側にも、責任はある気がする。

ということで、次は『監督と俳優のコミュニケーション術』(ジョン・バダム&クレイグ・モデーノ/フィルムアート社)を読んでおります。

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2012年5月13日 (日)

音の響きが印象的な『裏切りのサーカス』

『裏切りのサーカス』シャンテにて鑑賞。本編の前に。まず、久々のシャンテだったのですが、「ミニシアターの感じがコレだ」と感じたのが、いい意味での、空間の少なさ。どうも、シネコンのロビーその他の雰囲気には慣れないので、やはりコンパクトにまとまった空間の方が、落ち着いて「映画を見る」雰囲気になる。ただし、確かにこれはアトラクション映画ではなく、内容をしっかり見る作品の雰囲気である。
そして、予告が始まる。ある程度は知っていたが、あまりにもの、映画ファンの間ではすでに有名なタイトルがズラズラと並ぶ。ちなみに『最強のふたり』も、めでたく『最強のふたり』の邦題で9月にシャンテで、だそう。ここからわかるのは、完全に「次も見に来よう」とファンが劇場に着く、ということである。シネコン的になったとはいえ、シャンテは3スクリーンなので、今、何を上映しているか覚えられる範囲だし、一日に何回も上映作品が入れ替わることもない。もちろん、ある程度の客数を確保できる作品か、館数を少なくした作品の旗館の役割を果たすものばかり、という恵まれた条件があるからこそでしょうが。
さて『裏切りのサーカス』。またしても、音のことからですが、ひょっとして『ぼくのエリ』もそうだったか(おそらく、そのはず)と思ったのが「音の響かせ方」。各シーンの舞台となっている部屋や、建物はほぼすべて、靴音一つ、すごくクリアに響き渡る。序盤に流れる劇伴は、リズム楽器の響きを強調するかのようなジャズ調のものだし、この「音の響き」が、独特の孤独感、舞台の寒さの感じ、そして衝撃的な内容がひとつひとつ明らかになる時の効果が、周りの静けさゆえにくっきりしてくる。周囲の静けさゆえの、清らかな恐ろしさみたいなものは『ぼくのエリ』にも共通するもので、これはひょっとしたら、北欧の映画人に共通して備わる演出のクセみたいなものであるかもしれない、と思う。
登場人物たちは、ほとんど表情を変えずに、目線での演技。目線と、構図で物語が語られる。映画的手法を駆使しました(全編駆使してますが)が明確に出る、ある男と女の初めて顔をあわせるきっんけとなるシーン。ちょっとデ・パルマやダリオ・アルジェント的なものも思い起こしてしまう見せ方ですが、あの複数の状況を一度に見せることで状況を瞬時に悟らせる方法や、どのシーンにどの人物とどの人物が同席していて、どういった表情をしているか、ということで、いろんな状況の展開と謎解きがわかるようになっている。
推理小説の多くが、最後、犯人もしくは鍵を握る人間の長い告白で終る、というパターンが多かった頃、笹沢左保の推理小説は、その幕締めは絶対におこなわず、地の文ですべて最終的に語り終えるようにする、というポリシーがある、ということで、読み手としても、一目置いていたことがある。今や、ミステリーも多様化しているから、それも昔の話で、長い告白で終るものもパターンとしてのひとつで、多くの謎を提示しておいて、かつ、ミステリーでもあるのに、ほとんどを解明させずに終えることもあるだろう。『裏切りのサーカス』も、最終的に語る人間は存在するが、最小限にとどめられている。
ミステリー映画の謎解きの見せ方で、最近の形として印象的なのは、『ジャッキー・ブラウン』の後半であったり、ラストには謎解きに入っていくが、もともと、ある程度時間軸バラバラ的構造にすることで、謎の提示と解明のバランスを楽しませるアルモドヴァル映画などがある。『裏切りのサーカス』は、主人公の回想を唐突に長い分数挿入することで、若干時間軸を変更させている風にも見えるが、主人公の思考(推理)をそのまま映像として見る側に追体験させていくのだから、理解もしやすい。
そんなアルモドヴァル映画での常連のアルベルト・イグレシアスが、今回の音楽担当。アルモドヴァル作品でのイグレシアスは、ともすれば悪いジョークな物語を美しく見せるための、言い訳?というかサポート役ともいえ、イグレシアスの音楽がユーモアをもつことはない(そういえば、この人が担当したコメディ映画、というのは聴いたことがない)。饒舌すぎない美しい室内楽で作品をサポートし、物語のトーンを引き締める。基本的には、ヨハン・セデルクヴィストの音楽作用と似た効果である。

シャンテの観客と同じ空間で感じたこと。この人たちの多くは、20年前に、やはり渋谷・銀座・六本木のミニシアターで、その頃の映画をファッショナブルに楽しんだ層のように思える。多分、映画の楽しみ方を最も知っている層の重要な部分なので、この人たちが、ひと月に一度、二度、同じここに足を向ける習慣は途切れさせてはいけないのだ、と。まわりの環境を見ても、そんな層が足を運べそうな雰囲気の映画街は、やはり、このあたりなのかな、と。しかし、銀座・日比谷も、それぞれがんばる「シャンテ」と「スイッチ」と「銀座テアトル」は決して近くないんですよね。
少なくとも、『裏切りのサーカス』は、カップルのための映画では決してない。彼らは、『テルマエロマエ』の最終回のチケットをとっているようでした。

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2012年5月12日 (土)

興味深い通過点としての「LAST NIGHT(恋と愛の測り方)」

『LAST NIGHT(邦題「恋と愛の測り方」』鑑賞。自分は、チネチッタで見ましたが、チネチッタ初体験。シネコンの顔かたちをしつつ、全体にこぢんまりとして、地元ミニシアター的香りももつ、不思議な「シネコン」でありました。これからひいきにしたい。
さて、本日が初日ということもありましょうか、もし、東京の単館公開としても、そのぐらいの規模の座席数より少ない館での公開では、と想像される大きさのシアターで、受付で座席表を見せられて、びっくりした。え、そんなに広いところですか。
さて、作品は、期待通りのトーン。ざっくり作品の骨格を反芻するなら、まず音楽が目立った。こんなに目立つと思わなかった。BGMというには、比率の大きなミックスがされている。観客は、音楽を意識せずにはいられない。そう、登場人物たちは、同じ素材をもし与えられた時の仕上がりを想像するものより遙かにおしゃべりだが、まあアレン映画のように機関銃じゃなくて、言葉を選ぶように話すパターン。だが、いずれも、本心を語ってないですよ、私も自分の本心を探しながら話してますよ感が満面にあり、それを補足する「説明」として、一種アンビエントながら甘い孤独感を感じさせる音楽が存在している。ひょっとしたら、主人公二人の意識下にも、同じサウンドが流れているんじゃないか、ぐらいの勢い。
主人公のカップルは、自身に感情の揺れがあったろうことを自分でも期待しつつも、それを相手には悟られないようにしようとする、ナルシスティックかつマゾな快感を持っている感じ。中盤の、ナイトレイに対し、グリフィン・ダン扮する出版社の社長という男のディナーでの語りの「自分は大人だから、あなたがたがわけありなのはわかっているが、そこは人生の達人ぶりを見せないといけないので、ちょっとかっこつけた会話をさせてもらうよ」感がいかにもで面白い。
全体の感想は、もちろん、こういう人間模様も、実際にあるだろうが、男女の感情のゆれぐあいをオブジェを見るように観察する思い。演技に激しさを求めていない作劇でもあるため、その点も不快にさせられることが自分にはなかった。
この作品一本が傑作かどうか、ということはわからないが、多くのアクションを求められる大型作品での活躍が多いスター俳優たちの、経験の一つとして面白いし、観客側も、そういった役者たちの抑えた演技を見るという貴重な機会かつ、マンセルが甘い大人のアンニュイな一夜を演出する音楽を作る、というのも貴重かつ興味深いし、大体、今回のような企画題材自体が形になることも貴重だろうから、いろんなことについての、貴重な通過点として楽しむことができた。ほぼ全シーン室内かつ夜というのも、楽しめた。年に一本しか映画を見ない人のための映画ではないかもしれないが、小説好きなどで、本作のようなトーンがしっくり来る人は結構いるかもしれない。
邦題は『昨夜』でよかったんじゃないでしょうか、エロチックさや大人らしさも出るし。チケット買う時がやはり恥ずかしかったです。

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2012年5月 5日 (土)

『ブライズメイズ』恥ずかしさからの歯止めとしてのお下劣

『ブライズメイズ』ですが、こういった作品も「感情の起伏は特に鑑賞後ないけれども、おそらく、よい映画」。
予想以上にお下劣、という噂も聴いていたが、それで身構えがあったからか、ショックをうけるほどではありませんでした。というか、脚本のお下劣さを、仕上げるときにかなり押さえたのかなという感じ。中盤以降の展開の件ですが、それも含めて、結婚介添え人の話、というよりは婚期を逸しかけのひとりの女性の王道ラブコメと女性の友情ドラマ、という構造。ところどころ、大筋から脱線しての登場人物たちのエスカレート行動は、「おバカコメディを楽しみにしてきた観客」へのサービスと思うし、随所のお下劣は、その直前の「よいシーン」が高潮するのを、恥ずかしげに防ぐ効果を持たせるかのように登場する。王道ラブコメは、さすがに恥ずかしくてできないので、ところどころ脱線させてもらいます、という感じ。それは女性・男性キャラクターのそれぞれの性別らしさを意識させるふるまいを、物語は転がせつつもどう回避するか、ということかとも思う。
オリジナル・スコアがはじまってかなり立たないと登場しない。ひたすら、既成曲によるシーンごとのつなぎという感じで序盤は進み、しんみりするシーンで初めてオリジナル・スコアが登場。ちなみにスコアは『ドニー・ダーコ』『君とボクの虹色の世界』のマイケル・アンドリュースだ! しんみりでオリジナル、ということで、考えられること。多くの映画の場合、しんみりシーンで流れる既成曲的バラードポップスはかなり鮮明に印象に残り、ともすれば、その映画の第一主題歌的な印象をもつぐらいの強さをもつことが多い。だが、この映画には、重要な曲がある。最後の最後で、それは披露されるが、この「重要な曲」こそがテーマにならないといけないので、申し訳ないが、他の曲は、これよりも目立ってもらってはならない。ということで、印象を強く残させないオリジナル・スコアがあてられているのだろうと解釈する。
そして、ラストで重要曲は登場する。まあ、その曲はウィルソン・フィリップスの「ホールド・オン」ですが、この曲のように「観客にとっても、すでにおなじみのはずの曲」がテーマとして使われた場合、その曲は今後、映画主題歌として記憶されるだろうか。これは、既成曲のオムニバスとして構成されたサントラ盤が存在する場合に「そのサントラは売れるか否か」という命題の時にいつも語られる問題である。例えば『トップガン』や『アルマゲドン』のような、その映画のタイミングで作られた曲ではなく、すでにポップスとして有名だった曲を使う場合。例えば『パルプ・フィクション』におけるディック・デイルの「ミザルー」。もちろん、サーフ・ギター、オールディーズのファンには有名な曲ですが、タランティーノ映画を面白がって見る観客層にとって、すでに親しい曲か、といえば違うと思う。そのさらに強烈な例だと『ゴースト』のライチャス・ブラザース。これは、もうオールディーズとしては名曲中の名曲だが、『ゴースト』で初めて知った若い観客も圧倒的にいたはずで、彼らにとっては、今後、この曲は、『ゴースト』の主題歌、だろう。・・・そして、その元がエイティーズものというのが今回。これに似た例は、多くのアダム・サンドラー作品あたりがそう。今回も、アメリカ本国は「ホールド・オン」を知っている世代の観客に向けていると思うが、日本で楽しむ観客は、もう少し若い層で、「ホールド・オン」はギリギリ知ってるかどうか、ぐらいだと思う。その「元曲の記憶がない」ことが逆に作用して、ホールド・オンは『ブライズメイズ』の主題歌、という記憶がされる可能性が、日本ではあるのではないか、と推測している。

ところで、女子ばかりの映画なのに、これを見に行くにあたって抵抗はなく、実際、客層も男女比半々ぐらいだった。恥ずかしさを消した感じ、それが功を奏しているのかもしれない(メインビジュアルも、あの表情ですからね)。

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