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2012年5月15日 (火)

『フランス映画どこへ行く』を読み終わって

『フランス映画どこへ行く』を読み終えて、感じるのは、これは、フランス映画だけのことではなく、おそらく多くの映画界において、問われる事項であり、かつ、映画だけでなく、文学、絵画、コミック、アニメ、音楽など、「作品」というものが存在する全てが抱えている問題ではないか、ということだ。終盤のクラピッシュ監督のインタビューで、監督は30人の子どもたちが観て、10人にしか伝わらないものほど、重要ではないか、の発言をしている。最大公約数的な映画についての疑問であるが、確かに、誰もが何も疑問を唱えない物語、誰もが、新しい未知の世界を知るわけではない物語の存在には疑問が投げかけられるのは理解できる。
読みながら、ずっと意識していたのは、「作品」と「商品」の対比。商業は結果的にどのようなものにとっても「商品」を求める。「作品」ではない。ファーストフードが商品の例として挙げられるが、これはわかりやすい。決められたシステムによって作られる、間違いのない味。これが映画他、さまざまな物語などに適応された場合、確かに恐ろしい気がしないでもない。
フランス映画の重要な部分として「中間映画」という言葉が取り上げられる。自分としては、映画監督が自分の満足の行く作品に完成させるために、大作にするつもりはなくとも、ある程度予算の自由が利き、結果、低予算映画、とは言いがたい予算で作られるもの、それが「中間映画」と解釈したが、物語の面白さ、独創性、そしてそこに秘められる作家性のようなものを満足させるには、必ずしも巨額は必要としない。(もちろん、再三の取り直しや、あまりもの現実からは離脱したイメージを作らないといけないもの、などになると別だろうが)
そんな「中間映画」はちょうど日本で言うと、アスミック・エースやビターズ・エンドが作っている多くの作品や、川村元気Pの作品などが、あたるのだろうな、と考える。イギリスのティム・ビーヴァンPの作品などもそうだ(俳優のギャラによって高騰している作品もありそうですが)。
そして、論の中で、イタリア映画は、すでにもうがんばれない状況に陥っていると書いている。自分は、いろんなサントラ盤を聞いたり調べたりするな勝て、フランス、イタリア、スペイン、ドイツあたりの映画の現在に行き当たるが、それらはあくまでも「サントラが出ているもの」なのであって、逆に形になっていないものの状況は確かにつかめない。フランス映画は、商業に寄り過ぎた映画が一時期多かったのは、感じとしてわかるが、イタリアは、そもそも絶対数が少なくなってしまっている印象しかないのである。
アメリカにも「中間映画」的なものはあるだろうし、そこに作家性の濃いものは多い。思ったのが、そういえば、MILANやLAKESHOREがピックアップしてサントラを出す作品、あれらは、多くが、世界各国の「中間映画」だな、と。
映画における「作品」と「商品」の違い。そして、それは例えば、アニメでも「作品」と「商品」の違いはあり、いわばサントラでも「作品」と「商品」の違いはあるな、となんとなく思う。
システムに組み込まれて、いかに、そこから離脱せずにルーティンを生きれるか、が「商品」であれば、その人でしか生み出せなかった何かが「作品」でありましょうか。
「作品」を生みたいと思っているが、多くのそれは「商品」でしかない。それが「作品」として認められるまでに何が必要なのかは、人それぞれだし、人それぞれだからこそ「作品」になるのだから、これはもうずっと考え続けるしかない。
難しいのは鑑賞するほうで、ともすれば安易に「商品」で済ませてしまうが、生活の中にどれだけ「作品」を溶け込ませられ、それを楽しみ味わえるか。その「味わったよ」感が出れば出るほど、「作品」を出している側の利になるはずなので、鑑賞する側にも、責任はある気がする。

ということで、次は『監督と俳優のコミュニケーション術』(ジョン・バダム&クレイグ・モデーノ/フィルムアート社)を読んでおります。

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