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2012年5月19日 (土)

『別離』解釈を明解にしないということ

すっかりお気に入りになってしまった、チネチッタにて『別離』を拝見。
まず、音楽の話ですが、なんとエンドクレジットのピアノ曲以外は、いわゆる劇伴は一切なし。ソース・ミュージック(カー・ステレオで流れている曲と、店だったかで流れていた曲)も2曲のみ。
さて、もちろん、ストーリーというか人物(とくに女性)が取る行動については、宗教的理由からの地域独特の部分があるのだが、基本的には、世界の大人たちが共通して抱える問題も多く含まれているゆえ、引き込まれて見ることができるのだろう。
この作品に劇伴がない理由は、いくつかある。その大きなひとつが、物語の方向性についての先入観を作らないため、ということがあると思う。登場人物たちの心情は、かなり脇役に至るまで、結構、描きこまれているのを感じる。バックに描きこみがあることが感づくため、逆に、説明的なセリフは一切なくとも、どういった位置にある人物なのかがわかる。そして、それぞれの人物の、それぞれへの思いが交錯し、なおかつ、果たして、この物語は、誰にとっては主観の物語になるのか、というところも思わせないため、どういった作品であるかを説明する演出を一切省略する。劇伴もそのひとつ。
途中、主人公夫婦の夫の父がつけている酸素ボンベを開ける音、そしてブラインドを開ける音が強調されるかのように描かれる箇所がある。その頃から、物語の中で彼らが発する生活音にも耳を意識して傾けることになる。確かに、観客にとって、耳の記憶はヒントにつながる点も多くある。すべては、手がかりになりますよ、と説明せずに説明しているかのよう。
説明しないことによる説明。これは、場面およびカット省略において、発揮される。こういった手法が目立つように使われているミステリーも、おそらくあるはずだが、すぐに思いつかない。本作でいうと、映画を見ている間に、「あれ?」と思う箇所が出てくる。その「あれ?」は、ちょっと記憶の彼方に行きかけるが、それが気のせいではないことは後に明かされる。
巧妙に、鍵となるはずのシーンやカットが省略される。逆に言うと、省略された部分(描かれなかった部分)はどの部分であったかに思い当たると、この物語のどこに重要性があるのかが見えてくる。
もうひとつ言えば、最終的にそれらの省略は、補完映像が後にあるわけではないし、どの登場人物の発言が正解という主観を持たせないため、無数の解釈が可能になってくる、という構造でもある。
この映画を見て思ったのは、この物語に、劇伴はつけられると思う。たとえば、何人かの作曲家に思い思いにつけてもらうとする。そうしたら、物語の解釈自体が変わってしまう何通りもの、明解な物語がおそらく仕上がるのだ。
とすれば、と思うのは、大仰な劇伴が重要な役割を示す作品から、劇伴を抜いて鑑賞してみたいという欲望。ハーマンのスコア抜きの『サイコ』や『めまい』、ゴールドスミスのスコアぬきの『オーメン』、レイの流麗なサウンド抜きの『男と女』・・・・いや、多分、それは「クリープを入れないコーヒー」にはなると思うが、決して、まずいのではない。難解になるだけだ。「クリープを入れないコーヒー」は難解なコーヒーなのだ。

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