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2012年6月30日 (土)

あくまで入り口としての白雪姫『スノーホワイト』

自分の中ではアトラクション映画に分類される作品を久々に鑑賞。『スノーホワイト』。今週は、他の作品でも同様の感想に至ったのだが、この作品に関しても、早々に「ストーリーを追うのはよそう」と思った。もちろん、難解だからではなく、物語に関していえば、特記する(ほどの)ものではないからだ。物語は、終結に向って、粛々と進んでいく。意外な寄り道など、一切ない。なので、分かれ目は、味付け。すべては抽象的だと思う。抽象的なヒーロー物語は、男まさりの美しさ(美女というより、美形の男役スターの感じに思った)と美男のサブの組み合わせ、それに対する、こちらははっきりとした女性であるところの「悪女」。この構図は、観客としては、圧倒的に男は不利だな、と思う(女性客を楽しませるためのアクション・ファンタジー)。今の時代はメルモちゃんやアッコちゃんではなくプリキュアなのだ、というのは単純化しすぎなのだろうが。とはいえ、これはファミリー・ピクチャーでもあろうとする意味からか、あの流れだとあっても不思議ではない展開がない(具体的には書かない)。これも、現代的需要なのか。つまりは、生身の人間らしさ、的な部分を排除してストイックな人物描写に徹している、ということだ。
ジェームズ・ニュートン・ハワードの音楽は、この人の作品史上最もキャッチーではないか、と言える明解な勇壮でメロディアスなサウンド。サウンドは、作品全体から受ける印象よりは、ウエットであろうとしているか、サントラのみを聴く限りでは。
強いヒロインの物語を描く、おそらくその1点があるのみで、白雪姫であることは、細部を説明不要にさせてしまうための口実に過ぎない。その証拠に、もともとの童話で知られている魅力的な細部は、カット可能な範囲で付加されているに過ぎない。自分だったら、むしろ、こびとの一人を語り手にしてしまって、時間軸をいじった展開にするぐらいでないと、と思ってしまい、そうなっていないことに関して、この物語が、原作が何なのかを忘れていい、と語り手は考えているだろうと結論してしまう。
『スノーホワイト』といいつつ、黒が基調。そして、黒が負のイメージの代表として扱われる意味への疑問(色に貴賎なし)定義を感じた。暗黒の森の、一見邪悪だが愛らしくも見える動きは、後の妖精たちの世界の明るいがグロテスクな外観と対比して、美醜の意味に関しての疑問も呈されているかのように。途中の目ぢからで、敵と交渉、みたいなシーンは、いろいろと考えさせられる。
今までに、聴いたことのない物語のパターンに「殺しあう戦い」ではなく「説得(洗脳と呼んでしまうかもしれない)しあう戦い」を描く「戦争ドラマ」がある。戦わない戦い。それは生身オセロのようで、間違えば、というかリアル政治の現場に酷似したものがあるが、そうではなく、もっと戦争ドラマ的にビジュアル化されたものだ。それに近いものを、かのシーンでは感じてしまった。モンスター同士の説得合戦は、あったらおもしろいだろうな。自分の中では、戦うシーンは、ちょっと飽きてきている、ということがある。

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2012年6月24日 (日)

笑顔美女だらけの『ミッドナイト・イン・パリ』

『ミッドナイト・イン・パリ』鑑賞。警戒する「固有名詞オンパレード」な題材で、最も恐れるひとつ「引用される物事を知らずに果たして楽しめる物語か」というところが、やはり気になった。多くは、もちろん主人公のあこがれの投影だからだろう、固有名詞を明かすのみで終る有名人たちだが、その中でも女性2人(マリオン・コティヤールとキャシー・ベイツ)に関しての思い入れが強くなるのはご愛嬌。登場人物たちの予備知識ゼロだったとして際立つのはコティヤールのキュートさで、もうウディ・アレンは、コティヤールをチャーミングに映す映画として、後付け的に作り上げた物語じゃないかぐらいに思えてくる。コティヤールは、特に笑顔が武器の人だと思うので、いかに、この人の笑顔を捉えられる映画を撮るか、がいろんな映画作家の興味のひとつなんじゃないか、と思える。(この映画には出てこないがペネロペ・クルスもしかり)。女優には、同じ美人でも、シリアスに美しい人と、笑顔が武器の人がいると思う。そういえば、他の印象的な場面を残すのは学芸員のカーラ・ブルーニにしろ、街頭の骨董屋のレア・セイドゥーにしろ、女性ばかり。まあ、それがウディ・アレン映画なのでしょう。そして、ウディ・アレン映画で見せる役者の表情は、みな他の映画の時とは違いますね。(何度も、撮り直ししているらしいので、アットホームに楽しい表情が出てしまう、というのではなく、あくまで演出の上になり立っているものと思いますが)。余談。ガートルード・スタインといえばシネセゾン配給でシネ・ヴィヴァン六本木で公開された『月の出をまって』を思い出しました。今回、ガートルード・スタイン、と聴いて、キャストはチェックしてませんでしたが、そこでキャシー・ベイツが出てきて、やはりそのイメージか、と合点してしまいました。

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2012年6月23日 (土)

白いパンを食べる意味『ブラック・ブレッド』

『月の子ども』のビラロンガ監督作と聴いて、身構えた。当初は、本来なら『ミツバチのささやき』的なアート・フィルムとして成立させられそうな舞台と人物が、あまりにも早いカット割りで物語が進められていき、これは世界観を楽しむというより、しっかりした物語が語られるな、という気配を漂わせる。衝撃的なオープニングなどは、完全に商業映画としての王道であろうし、その中にちょっと気を引く構図のカットがチラチラとあることが、主張みたいなものを感じさせたりする。進むうちに、どんどん提示されていくエロティックなキーワードの数々。そのありとあらゆる、考えられる全てとでもいいたいアクセントは、少年の好奇心を表現するわかりやすい例だが、それ以上のテーマに深く関わっていくのか、と思わせる(これに関して、これ以上、書きづらい。鑑賞者同士の議論のタネのひとつになるであろう箇所ではある)。この物語で気づかされたのは、実際の現実でもほぼ同様に暴かれていく「他人のいい難い過去ほど、実は話したい」雰囲気で、登場人物たちにうわさ話のごとく語らせていくこと。そして、それによって、現在の彼らの置かれている立場は推測することができるが、あくまで、すべては村の人々のうわさ話であるため、本当の真相がどこにあるのかが不明のままで進んでいく。これはぼんやりとは言ってもいいと思うので、書きますが、衝撃がラスト。何が衝撃なのかは、まさか、ここで終ると思っていないところで終るという衝撃。そして、つまりは、あのセリフで映画が締めくくられたのだ、ということがそこでわかるので、その衝撃が結構なことなのでした。
さて、サントラは古風なアプローチから、親指ピアノ的な音色(シンセで出してると思うが)による幻想的でポップなものまで、オーソドックスよりはやや冒険といった感じ。不覚ながら、盤がまだ聴けていませんのでした。

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2012年6月17日 (日)

意味を持ったオリジナル・タイトル『WE BOUGHT A ZOO』

『WE BOUGHT A ZOO』(邦題は『幸せへのキセキ』とされているらしい)鑑賞。まず、この邦題がすべてを無にしてしまっている理由がはっきりあって、それは、この映画が登場人物の思い入れが入ったセリフが凄く大事であることを示す『WE BOUGHT A ZOO』なのだ、ということ。セリフについてのこだわりは、字幕がさすがで、このセリフは気にしておいて下さいよ、というところには、はっきり印がなされている。これは、吹き替えだとわからないところで、字幕のおせっかい、といえなくもないが、さりげないので、そのさりげなさが、なかなかである。
さて、キャメロン・クロウという人は、本当にファンタジー好きな人だ。それも、日常としてありうる話をファンタジーとして料理する。ただ、前作『エリザベスタウン』の父の死、本作の、妻の死、というノスタルジアの象徴として人間の死が介在しているのが気にはなっている。『ALMOST FAMOUS』は、人の死は直接影響しないが、十分にノスタルジックなドラマだ。
撮影がロドリゴ・プリエトだ。イニャリトゥ諸作でもわかるように、これでもかと人間の表情、エモーションを手持ちカメラの接写で追いかける情熱は、この人のカメラがあれば、どんな物語も集団劇になる。カメラが人物のドラマ性を細やかにきっちり捉えるのだ。
今回のスコアがナンシー・ウィルソンではなく、ヨンシーになった経緯は、リュック・ベッソンの『アンジェラ』でのアニャ・ガルバレクの起用に似て、この作品の特殊な事情。
言わば、この物語は『うる星やつら2』や『まなびストレート』同様、「学園祭準備系」ドラマだ。イベントは、開催してからより、準備中の方が面白い。長期間のイベントならば、見るよりも、運営するほうが数倍楽しい。料理も食べるより、作る方が楽しい。プラモデルも、レゴも、作っている瞬間こそが快感である。準備を描く物語は、楽しくならないわけがない。
『WE BOUGHT A ZOO』は、意味を持ったオリジナル・タイトルである。

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2012年6月16日 (土)

激動さを抑える『ジェーン・エア』

『ジェーン・エア』鑑賞。実は、まだ『闇の列車 光の旅』が未鑑賞のため、フクナガ・タッチがうんぬんかんぬんの話はできず。
冒頭の、あの無説明の感情むき出しロングシーンで、まず、この映画がオーソドックスな作りを期待してはいけないことを匂わせてくる。こっちは、それを期待しているので、「来た来た」感がある。
いきなり、トータルな感想を言いますが、本当は、ものすごく波乱の生涯を生きている主人公の物語なのに、いろんな出来事がインパクトを与えないかのように進行していく。これは、後半も最後にかかるまで、かなり感情表現を押し殺したメロディをうっすらと聞かせるだけもしくは音楽なしで、衝撃的なシーンを通過させることにあるのだろうし、どの登場人物も、感情を表に出すことをほとんどしない(アップで表情を見せるが、音として派手な効果にはしない)。とにかく、シーンをドライに進行させていくことで、これが女性たちに好まれてきた古典であり、メロドラマの原点的にも表現できうるものであることを忘れてしまう。あまりに、起伏を表現せずに進むものだから、実は今衝撃的なシーンであったのに見過ごしてしまうぐらいの勢いである。
その反面、前半の主人公へのつらい仕打ちの数々は、この手の様式美ファンにはたまらんかのように、しっかり描写するし、序盤の血が流れるシーン、あの箇所も、この映画は普通ではないですよ宣言のひとつであろうかと思ってしまう。
ラヴストーリーというか、恋愛も中心とした物語の場合、とかく過剰にロマンティックな雰囲気を醸し出してしまい、全体像を見えなくしてしまうのではないか、という推論があるならば、とかく、登場人物たちの言動や進行状況は、実際に現実にこの物語が進行していれば、このぐらいの反応のはず、という形のリアルかと思う。過剰にロマンティックにしないリアルさによって、主人公を襲った運命の悲しさを実感としてひしひしこさせる。この感覚は、コスプレを見終わった感覚ではなく、完全に現代劇を見終わったときのものである。いや、コスプレではあるが、おそらく、登場人物たちの所作が、現代に即してリアルなのだ。そういう意味では、現代語訳化された古典でありましょうか。
衝撃を取り除いた感覚は、脚本と編集にもあると思う。脚本は、過去に現代の女性映画『TAMARA DREWE』(監督フリアーズ、音楽デスプラ。日本未公開)を書いているモイラ・ブッフィーニ。編集はメラニー・オリヴァー。ああ『THE SPECIAL RELATIONSHIP』この人なのかぁ。これも、見たいが日本未公開というか未紹介。しかも、この人、次が何とジョー・ライト&トム・ストッパード&キーラ・ナイトレイという王道王道また王道の『アンナ・カレーニナ』だ。新風巻き起こせるのか。
いずれにせよ、当初はジョー・ライト的なものを予想したが、そうでなくて、逆に刺激的でありました。そうか、マリアネッリだけが、ジョー・ライト組的スタッフだったのか。
・・・・もっとドグマ的に、手持ち多用とかで、古典の映画化とか、してみてほしいですね、こういったものを見ると・・・

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2012年6月10日 (日)

『ブラック・サンデー』と『ジャッカルの日』

『ブラック・サンデー』みゆき座にて鑑賞。他のパニック映画とは違って、どこか文学的な香りがしてしまうのは、多分、どういった映画であるかを一言ではいいづらいからなのだと思う。サメがタコがクマがハチがイヌが襲うのでもなく、橋が落ちたり地震が起きたりビル火災が起きたり船がひっくり返ったりするのでもない。結果的には「スタジアムに爆弾積んだ(厳密には、爆弾というよりは、巨大な散弾銃的なもの)気球船を飛ばす」ものだが、この説明で既にまだるっこしい。かつ、クライマックスはそのスペクタクルだが、映画の主体は、そうなるまでの攻防戦である、という点。ここが『パニック・イン・スタジアム』とは違う点だ。スケールは遙かにこちらが大きいのだが。
パニック映画的演出にするならば、いきなり事件当日から始まって、時系列崩して、そうなるまでの過程を入れていく方法になるだろうが、この映画は、そうではなくて、『ジャッカルの日』の脚色家を呼んで構成させているぐらいだから、ジャッカル同様、犯人側の、計画が実行されるまでの様々なトラブルでスリルを誘い、そこにコロンボ的な、追跡者側の追い詰めていく様を並行させる。ポスターみれば、どのあたりまでは計画が成功していたかはわかるのだが、そこは、共の立場のハラハラドキドキを味わせることになる。
こんな大事件スペクタクルでありながら、主要人物が3人に絞られているというのも『ジャッカルの日』的整理か。人物をとことん絞る代わりに、その人物をかなり徹底的に描く。三者は三者とも芸達者であろうから、三人の演技表現についての持論の違いみたいなものも感じ取れるかもしれない。いすれにせよ、三者とも、ものすごく複雑な内面をもった登場人物であるわけだから。
ハリウッド的な、劇伴入れまくりの演出では全くなく、前半の攻防戦部分にはほとんど音楽はかからない。後半のスタジアムの場面に入ってから劇伴のウエイトはかなりを占めるが、それでも、他のパニック映画に比べると少ないだろう。これは、作品全体を覆う、少しドキュメント・タッチな撮り方にあわせているのであろう。
後日談なしの潔さも、この作品のポイントだろう。事件を描く間で人間は描くが、あくまでこれは事件の映画である、という潔さ。
この整理されまくった構成というのは、『ジャッカルの日』にしても『ブラック・サンデー』にしても、このタイプの作品を目指す場合、100点満点の回答なのだろうな、とは思う。それをさらに超えるすごいアイデアの構成に出会いたい贅沢はあるが、理論的に無理なのかもしれないし。

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2012年6月 2日 (土)

控え目な『星の旅人たち』

ヒューマントラストシネマ有楽町にて『星の旅人たち』鑑賞。ロードムーヴィーというジャンルは、時として、ストーリーというより、時間を登場人物たちと共に過ごす、という味わい方で心地よいジャンル。自分にとって王道のロードムーヴィーはヴィム・ヴェンダース『さすらい』だったりするので、少々は、無駄な感じの時の経過の仕方も、それも込みで表現、と受け止めている。映画が文学と違う点は、受け手は本当に受身として作品は進んでいくということだ。ロードムーヴィーのひょっとしたら、2、3分カットしても物語自体に影響は全くないシーンは、ジャズのメインメロディ以外のアドリブが長い場合などや、テクノ音楽の時間の過ぎ方に似ている。
さて、今回の映画も、ロードムーヴィーであって、ある程度、物語の流れについての推測はつくし、別にどんでん返しなんて期待しないし、ゆるやかな時の流れになるであろうし、そのゆるやかさを楽しもうとする。登場人物たちがまとまっていく姿を見るにつけ、必ずしも、集団劇は、まとまらなくてもよいじゃないか、と偏屈さが頭をもたげてくる。複数の登場人物たちの心の推移をすごく緩やかながら緊張感をもって描いたもので忘れられないのが是枝監督の『ディスタンス』がある。『ディスタンス』ほど、贅沢かつ実験的な時間の使い方は、基本ハリウッド映画の本作はすることはなく、無言でただ歩くシーンも総時間としては多いが、カット割りを多くし、画面としては、カラフルな作りを心がけ、ピレネー山脈のロケーションの美しさや地方ならではの風景を切り取って、普通のストーリー性豊かな映画を見慣れている観客へのこころ遣いも行き届かせている思いだ。
そして、今回も思ったことがある。集団劇は、時として、主人公はあくまで語り部化して、実は脇役たちのドラマが豊かである、ということ。本作の場合も、どうも、主人公と旅を共にする3人の方が明らかにワケアリな気がする。主人公は、息子の死という徹底的なものを持っているだけに、衝撃はもっとも大きいが、他の3人の、どこまで自身を語っているのか、を考えるに、彼らの方が前日談がひとりひとり、一本の映画たりうる物語をもっていそうなのだ。その逆を感じたのは先日の『恋と愛の測り方』の登場人物たちで、彼らは、まるでパニック映画の中の巻き込まれた登場人物たちの中のふたりとして描かれていれば、ドラマに深みが出そう、というくらいが似合う人間ドラマだな、と感じたものである。
今回の場合は、おそらく俳優たちの達者ぶりもあるのだろう。必要以上?に深みが出ている。しかし、いわば結果的には、ドラマの中間部は傍観者もしくは触媒的にたたずむが、存在感はほどよい位置、そう決して主人公だからといって、常に前に出ているわけではなく、もともとこういう役であることを心得た上で、主人公なのに、かなり、奥で控えている部分が多いのだ。この、主人公でありながら、沈黙のシーンが多い、この役。マーティン・シーンという人の凄さを思い知ったりする。
『監督と俳優のコミュニケーション術』の中での、マーティン・シーンが涙を流すシーンを作り上げる際に、父の死に立ち会えなかった記憶を呼び起こすエピソードをちょうど先日読んだばかりだった。マーティン・シーンとエミリオ・エステベスは、ロードムーヴィー・タイプの映画を撮る、という長い時間の中で、じっくり、さまざまな本当の父子の対話もきっとしたろうな、と勝手に思う。観客は、みなそう思うだろうことは、どうせ本人達も了承済みだろうし。

そうそう。マーティン・シーンは若き頃に、本当は短い映画なのに、相当時間の長さを感じさせる壮大で壮絶なロードムーヴィー『地獄の逃避行』に出演した。そして、年月を経て息子が監督した、この作品に出ているが、こちらも、実際に経過する時間よりも、より、経過した時間の長さをじっくり体感させられるロードムーヴィーなのでした。

悪くない映画です。そして、悪くない、ということがどれほど心地よいことか、という気もいたしました。

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