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2012年6月10日 (日)

『ブラック・サンデー』と『ジャッカルの日』

『ブラック・サンデー』みゆき座にて鑑賞。他のパニック映画とは違って、どこか文学的な香りがしてしまうのは、多分、どういった映画であるかを一言ではいいづらいからなのだと思う。サメがタコがクマがハチがイヌが襲うのでもなく、橋が落ちたり地震が起きたりビル火災が起きたり船がひっくり返ったりするのでもない。結果的には「スタジアムに爆弾積んだ(厳密には、爆弾というよりは、巨大な散弾銃的なもの)気球船を飛ばす」ものだが、この説明で既にまだるっこしい。かつ、クライマックスはそのスペクタクルだが、映画の主体は、そうなるまでの攻防戦である、という点。ここが『パニック・イン・スタジアム』とは違う点だ。スケールは遙かにこちらが大きいのだが。
パニック映画的演出にするならば、いきなり事件当日から始まって、時系列崩して、そうなるまでの過程を入れていく方法になるだろうが、この映画は、そうではなくて、『ジャッカルの日』の脚色家を呼んで構成させているぐらいだから、ジャッカル同様、犯人側の、計画が実行されるまでの様々なトラブルでスリルを誘い、そこにコロンボ的な、追跡者側の追い詰めていく様を並行させる。ポスターみれば、どのあたりまでは計画が成功していたかはわかるのだが、そこは、共の立場のハラハラドキドキを味わせることになる。
こんな大事件スペクタクルでありながら、主要人物が3人に絞られているというのも『ジャッカルの日』的整理か。人物をとことん絞る代わりに、その人物をかなり徹底的に描く。三者は三者とも芸達者であろうから、三人の演技表現についての持論の違いみたいなものも感じ取れるかもしれない。いすれにせよ、三者とも、ものすごく複雑な内面をもった登場人物であるわけだから。
ハリウッド的な、劇伴入れまくりの演出では全くなく、前半の攻防戦部分にはほとんど音楽はかからない。後半のスタジアムの場面に入ってから劇伴のウエイトはかなりを占めるが、それでも、他のパニック映画に比べると少ないだろう。これは、作品全体を覆う、少しドキュメント・タッチな撮り方にあわせているのであろう。
後日談なしの潔さも、この作品のポイントだろう。事件を描く間で人間は描くが、あくまでこれは事件の映画である、という潔さ。
この整理されまくった構成というのは、『ジャッカルの日』にしても『ブラック・サンデー』にしても、このタイプの作品を目指す場合、100点満点の回答なのだろうな、とは思う。それをさらに超えるすごいアイデアの構成に出会いたい贅沢はあるが、理論的に無理なのかもしれないし。

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