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2012年6月 2日 (土)

控え目な『星の旅人たち』

ヒューマントラストシネマ有楽町にて『星の旅人たち』鑑賞。ロードムーヴィーというジャンルは、時として、ストーリーというより、時間を登場人物たちと共に過ごす、という味わい方で心地よいジャンル。自分にとって王道のロードムーヴィーはヴィム・ヴェンダース『さすらい』だったりするので、少々は、無駄な感じの時の経過の仕方も、それも込みで表現、と受け止めている。映画が文学と違う点は、受け手は本当に受身として作品は進んでいくということだ。ロードムーヴィーのひょっとしたら、2、3分カットしても物語自体に影響は全くないシーンは、ジャズのメインメロディ以外のアドリブが長い場合などや、テクノ音楽の時間の過ぎ方に似ている。
さて、今回の映画も、ロードムーヴィーであって、ある程度、物語の流れについての推測はつくし、別にどんでん返しなんて期待しないし、ゆるやかな時の流れになるであろうし、そのゆるやかさを楽しもうとする。登場人物たちがまとまっていく姿を見るにつけ、必ずしも、集団劇は、まとまらなくてもよいじゃないか、と偏屈さが頭をもたげてくる。複数の登場人物たちの心の推移をすごく緩やかながら緊張感をもって描いたもので忘れられないのが是枝監督の『ディスタンス』がある。『ディスタンス』ほど、贅沢かつ実験的な時間の使い方は、基本ハリウッド映画の本作はすることはなく、無言でただ歩くシーンも総時間としては多いが、カット割りを多くし、画面としては、カラフルな作りを心がけ、ピレネー山脈のロケーションの美しさや地方ならではの風景を切り取って、普通のストーリー性豊かな映画を見慣れている観客へのこころ遣いも行き届かせている思いだ。
そして、今回も思ったことがある。集団劇は、時として、主人公はあくまで語り部化して、実は脇役たちのドラマが豊かである、ということ。本作の場合も、どうも、主人公と旅を共にする3人の方が明らかにワケアリな気がする。主人公は、息子の死という徹底的なものを持っているだけに、衝撃はもっとも大きいが、他の3人の、どこまで自身を語っているのか、を考えるに、彼らの方が前日談がひとりひとり、一本の映画たりうる物語をもっていそうなのだ。その逆を感じたのは先日の『恋と愛の測り方』の登場人物たちで、彼らは、まるでパニック映画の中の巻き込まれた登場人物たちの中のふたりとして描かれていれば、ドラマに深みが出そう、というくらいが似合う人間ドラマだな、と感じたものである。
今回の場合は、おそらく俳優たちの達者ぶりもあるのだろう。必要以上?に深みが出ている。しかし、いわば結果的には、ドラマの中間部は傍観者もしくは触媒的にたたずむが、存在感はほどよい位置、そう決して主人公だからといって、常に前に出ているわけではなく、もともとこういう役であることを心得た上で、主人公なのに、かなり、奥で控えている部分が多いのだ。この、主人公でありながら、沈黙のシーンが多い、この役。マーティン・シーンという人の凄さを思い知ったりする。
『監督と俳優のコミュニケーション術』の中での、マーティン・シーンが涙を流すシーンを作り上げる際に、父の死に立ち会えなかった記憶を呼び起こすエピソードをちょうど先日読んだばかりだった。マーティン・シーンとエミリオ・エステベスは、ロードムーヴィー・タイプの映画を撮る、という長い時間の中で、じっくり、さまざまな本当の父子の対話もきっとしたろうな、と勝手に思う。観客は、みなそう思うだろうことは、どうせ本人達も了承済みだろうし。

そうそう。マーティン・シーンは若き頃に、本当は短い映画なのに、相当時間の長さを感じさせる壮大で壮絶なロードムーヴィー『地獄の逃避行』に出演した。そして、年月を経て息子が監督した、この作品に出ているが、こちらも、実際に経過する時間よりも、より、経過した時間の長さをじっくり体感させられるロードムーヴィーなのでした。

悪くない映画です。そして、悪くない、ということがどれほど心地よいことか、という気もいたしました。

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