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2012年7月29日 (日)

異常設定下でのふた組のカップルの会話劇『崖っぷちの男』

『崖っぷちの男』於:丸の内ルーブル。クレバーな作りになっても良いはずのプロットなのに、この手の映画の感触とは違う感覚がある。この映画のユニークさは、まず女性刑事が緊急電話を取り損なうシーンで感じ取られ始める。デジャヴュ的刑事ドラマのかっこよさからは外れていくのだ、この作品。ここで、それを感じ取る。しかし、本当にそうなのか、たまたまじゃないのか。しかし、最後まで、エンディングまで走り終わって、それは確信的なものだったことがわかる。用意周到なサスペンス・ミステリーと見せかけて、作り手の興味は、なんとそこにはないのだ。仕掛ける男と、説得に入る女刑事、そして兄貴との腐れ縁的なものから、それなりの信頼感を兄にかける弟と肉感的なラテン美女の彼女の、このふた組のかわいらしい大人の会話劇がメインなのだ。そして、そこには、とてつもなく、異常な環境下での男女のドラマ、この2つそれぞれは、舞台劇としても、面白いものになるだろう、そして、その奇抜なシチュエーションを繋げるために、全体のプロットがでっちあげられているかのような映画。この「シーンありき」的発想は、北野映画や、タランティーノ映画にも通ずる。ただし、これは脚本の未熟なゆえかどうかは不明だが、この2組のカップルの会話は、断片的であり、かつ探りあい的な意味合いを持ちつつも、その脚本は、答えを求めないことが多い。それがリアルといえばリアル。タランティーノ映画の会話のようなパーフェクトさはないが、そのカジュアルさが、この映画のバランスにはなっている。

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2012年7月23日 (月)

描かないことによって際立つもの『おおかみこどもの雨と雪』

一言で言うと、非日常の中の日常を描くことで、日常の中の非日常を浮き彫りにする、そういう物語なのだろうと思います。アニメといえば冒険もの、と思いがちなところで、この物語は、いわば、何も起こらない。ことが起こると大変だから、主人公たちは、すごくひっそりしている。そして、そのひっそり暮らすことによって、そのひっそり暮らす中での冒険がクローズアップされることになる。
どなたかのツイートで、日常風景をアニメで描くのなら、実写でいいじゃないか、というのがあった。アニメで日常を描くことには、逆説的な確信がある。絵で描かれることによって、日頃気づかなかったことを気づかせる、ということだ。この作品で言うと、親子三人がはじめて大雪を感じて、おおはしゃぎする場面がある(メインフォトになっている)。これがまさによい例で、雪におおはしゃぎする感覚を楽しみたくて、この映画は存在するのだろう。物語をコンパクトにシンプルに、そして登場人物たちも控え目にすることによって、物語は、繊細な部分をクローズアップすることに時間がさけるようになってくる。何気ない日常の描写を重ねて時間を経過させることは、タルコフスキーなどの作品における、時間経過そのものが表現となることと同じ意味だろう。
この映画において、非日常な設定は一点のみ。その非日常な主人公たちが、何事もおこさないようにひっそりと日常をすごす。そこで表現される日常の数々の小さな場面をクローズアップすることで、日常の中に非日常的興味が満載されていることを思い出させる、こんな感じでしょうか。
この感覚は、ジブリの多くの作品でも成されていると思うが、ストイックにすることはより徹されていて、そこは実験的であろうと思う。
おそらく、このことに焦点を置き、物語を複雑にしないために、登場人物たちの個性はかなり排されている。
高木正勝氏によるピアノメインの音楽は、まず、ほぼピアノソロのみぐらいのシンプルさにしたかったからの起用か、と思い、かつ、ストイックにしたいがゆえに、そんな表現が可能なアーティストに依頼したのかな、と。そして、母と子が主人公のアニメながら、そんな作品を見る受け手の固定観念を払ってもらうためか、やや、難解なメロディが展開するものになっているのではないか、と思った。
何を描かないかによって、描こうとすることを際立たせる、この作品の考えるところは、ここだろうか。

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2012年7月22日 (日)

『苦役列車』から日本の推理シーンを懐かしむ

『苦役列車』於新宿バルト9。架空の懐かしきかっこよいかっこわるさ。映画の設定された世界は、過去の東京に似た、別の世界と認識して見ないことには、細かい突っ込みに終始しかねない自分がいる。ただし、映画好きのための映画のために、アイデアを出しつくして楽しむ人たちの映画らしく、昔の娯楽映画の中の愛されたエッセンスと、そこを少し次世代ならではの発展形で提示してあわせるような作りは、和田誠『麻雀放浪記』への感心を思い出したりする。音楽について、ひとこと。山下監督は『リンダリンダリンダ』のジェームズ・イハ、『天然コケッコー』のレイ・ハラカミ、『マイ・バック・ページ』のミト(きだしゅんすけと共作)、そして今作のSHINKO、といわゆる職業劇伴作家ではないミュージシャンたちを引き込む方法をとることが多いが、これらは、結果よりも、彼らに映画製作の一部を経験してもらうことの重要性なのかな、と考えている。今回も「SHINKOの考える『苦役列車』想」みたいなものの一部を聴かせてもらう、だが、そのチープでコミカルな感じは、昭和プログラム・ピクチャーのコメディのテイストも踏襲していたりきっちりしてオマージュになっている。
ちょっと映画の作りの話からは脱線し、現実の時代考証と合わさる話だが、67年生まれ(昭和42年)の人間が19歳の時の物語だから、1986年。康子が話題に上げた『獄門島』は、東宝が77年に映画化し、9年も経つ。横溝は81年になくなっており、没後5年。土屋隆夫の『泥の文学碑』のハードカバー(広済堂)は81年出版。86年から3年の間に、古本屋で見かける書物、という意味ではリアル。康子のアパートの部屋にあった本棚(自分も、多分、あの本棚に近い内容のラインナップだったろうかと思う、当時)には、松本清張の新潮文庫版と思しき赤い背表紙の文庫ものがそこそこ並んでいたりする。横溝は、推理小説というより探偵小説なので、横溝がフェイバリットなら、清張や土屋隆夫に行くかは微妙だが、自分も、清張メインだが、横溝ももちろん読んでいた。横溝好きなら、高木彬光を経て、清張にも行くかな。ちなみに『泥の文学碑』は、田中英光の評伝で、その息子の田中光二は、SF/ファンタジー作家の面が大きいが、映画化もされた『爆発の臨界』は、珍しく、現実味を帯びたパニック色強いポリティカル推理小説で数少ない、日本の推理好きにも読める作品。なんかも、この棚にはあるかな、なんて思いをめぐらしたり。当時の原作もの映画は別として、現在、このあたりの知識が再び思い出される物語なんて、珍しい。というか、「読書家」が主人公、自体が珍しいのだな。
土屋隆夫はいいですね。あれは、少年心にも、他と違う文学作品を読むたたずまいは意識できました。詳細が思い出せないが、『針の誘い』『妻に捧げる犯罪』あたりは、当時のマイ・ベストではなかったろうか。

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2012年7月17日 (火)

遊園地的な工事現場『工事中』

『工事中』於シアター・イメージフォーラム。これは、今までにない手法ではないのですが、考えさせられるものがありました。本作は、当初、街のスケッチ的ドキュメントかと思わせておいて、その中での人間観察とみせかけて、群像劇に誘い込んでいく。ある程度の箇所で、これはドラマはもう始まっているな、と気づくのですが、そこで考えさせられるのが、そういえば、そもそもフィクションを見るときとドキュメントを見るときと、観客である自分は、対し方を変えていたことに気づくのだが、それには意味があるのかなないのかな(疑問であって、それについての否定ではなく)、ということ。これが同じであれば、この映画の吸収の仕方としての意識は始終かわらないはずなのだが、そうではないからだ。ラストは、もう、きみたちこの映像をフィクションというかドラマとわかってみているでしょう、を意識してのちょっとしたいたずらを仕掛けてくる。そこにおいて、またもやフィクションもしくはドラマとして見ることへの疑問を確かめさせる。
これに似た感覚は、少し前の『永遠のハバナ』で味わったことがある。ドキュメント?でありながら、ラストに種明かし的なものを用意しつつも、すべてを説明せずに、映像と音響を組み合わせた作品だった。今回のホセ・ルイス・ゲリンも、まるで、生活音響の娯楽の一大場所とでもいうべき「工事現場」を舞台に選び、効果音をスコアのように操作して時間を経過させる。工事現場し、確かに、普通に眺めていても飽きない「日常」の代表格。かつ、日常の中の非日常。もちろん、それが騒音公害と化す深刻な状況も及ぼすが、この作品では、その作業音は、遊園地のBGMのように響いている。決して、この映画で描かれる状況に賛同的ではないだろうが、日常の中のユートピア感を再現している感じはして、童心に戻らせてくれる、とでもいったらいいのだろうか。
この作品を見て、「果たして、フィクションのように編集されたドキュメントも、おそらくあるはずだろう」という興味が湧いて、そういった作品も探してみたいと思ったりする。

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スタイリッシュすぎない『リンカーン弁護士』

『リンカーン弁護士』於丸の内ピカデリー1。久々に見る感覚の作品。いかにも、メインタイトル然としたスタイリッシュな導入、そして、感心したのは、主人公のスタイルを描写する軽妙な序盤から、本筋の物語に入ってもなお、この物語の持つ軽妙さは保つということだ。主人公は、とてつもない立場に立たされることになるのだが、精神的なタフさを表に出さない真のタフさがすごい(別に皮肉ではありません)。結果、上には上を行く感じの事件さばきを見せるのだが、すごいことをしているのを「俺にはちょろいものさ」感が出てすばらしい。本当は、彼が行っているのは、結構、悪徳弁護士的行為だが、それも憎めない感じは、演出および、マコノヒーというキャスティングの勝利なのだろう。また、マリサ・トメイも久々に見た感じ。この方、年齢重ねても、ちょっとアニメ声よりのキュートさがかわらずよいですね(少し前なら、マーシャ・メイソンの役どころでしょうか)。役者的には、決して旬のスターではないところを揃えているのですが、いわゆる芸達者揃いでの、まさしく大人のエンタテインメント。多分、中学生ぐらいで、この映画ぐらいを見れば、映画ファンとして育つんじゃないでしょうか、と思いました。音楽の使い方はベタでしたが、そこまでシャレなくてもよいでしょう。スタイリッシュすぎないところもよいですね。

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冷静な状況分析の『ぼくたちのムッシュ・ラザール』

『ぼくたちのムッシュ・ラザール』(於:シネスイッチ銀座) 当初、考えていたのは、後任の先生が、結果的にちょっとスーパーマン、的なものだったのですが、そうではなく。あくまで、アルジェリアとケベックの状況をある程度、イメージできないと難しい気がしたのですが、これは多分、字幕の配慮がかなり入念になされているのでしょう、日本人には難しい状況説明が、結構すんなり入ってくる。視点が、主要人物それぞれの立場にいずれもついているので、客観的な状況分析的進行。子供たちの人格をひとりひとりしっかり尊重して描く部分や、その親たちについても、彼らの立場を客観的に描写し、かなり冷静に「誰が悪者、ということではなく」この映画で描かれる問題の状況を淡々と描く。具体的な問題は、日本人には近しい問題ではないかもしれないが、「問題を冷静に分析する」姿勢、ここを見るべきなんだろう、とは思う。感心したのは、「初めはみんな感情的だった」というところもしっかり提示していること。メインタイトルへの移行カットと、ラストカットの潔さは、映画的にかっこいい。

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2012年7月15日 (日)

『海猿』の存在意義

『海猿』シリーズは、もちろん、日本映画メジャー大作にはつきものの過剰な感情演出が要所要所で盛り込まれており、そこは不満がもちろんないかといえばウソになる。が、大量の観客を巻き込まないといけない大作映画の高揚感を作るには、冷静ではいない方がよいのかもしれない、というのは娯楽については思う。今回のプロットで、つい考えてしまったのは、もし、同じような事故と対策が現場で行われた際、どうなるか。実際には、事故の原因究明についての討論などがなされるばかりで、現場中継はあるにしても、「祈りながら見守る」みたいなスタンスには決してならないだろうとは思う。つまりは、実際のメディア報道で予想すると、ネガティヴ・サイドな報道になってしまい、とても、「ひとりでも助かってくれ」的な感情がにじみ出るものには決してならない。もちろん、この物語は、劇画だし、それを原作とした娯楽映画である。が、そこに実際に知らせる側への皮肉にも見えてしまうのである。この物語のような方向も、それはそれで極端ではある。極端であるがゆえに、その逆が実際のように思えてくる。ひょっとしたら、救えるものも救えなくしている、救おうという考えをそもそも(現実的なさまざまな理由をつけて)起こさないように仕向けられている、そんな気さえしてくる。別にこの映画が、そういう意味で誘導しようとしているとまではいえないが、かなり多くの観客相手に見せる作品、そして、今後も、同じタイプの作品のひとつの好例とならんとする作品が、現実的でネガティヴなのは、ウソとわかっていてもよろしくないと思う。特に、舞台が現実に近い設定のものならなおさらである。
『海猿』の存在価値は、そういった部分と、あとは邦画には珍しいパニック映画っぽさを楽しませてくれる点。ちょっと感情的過ぎるが、実際の現場でも、あのぐらい感情的にならないと逆に乗り越えられないんじゃないか、なので、描かれる現場の人間のリアクションは、案外リアルかもしれないとも思うのである。

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『ヨルムンガンド』サントラ聴後感より脱線して

『ヨルムンガンド』サントラ聴後感。岩崎スコアには特にいつも感じてしまうことを書きたい。今回も、「予想を裏切る」という意味で予想を裏切らない、というか、もう、「岩崎スコア新作」なるものには、ある一定の線のハードルがあって、そこは越えて当然、という不思議なルールめいた雰囲気ができあがっている(と思う)。通常のスコアの場合、よく聴くのが、依頼される時の「あの(具体的作品名)の感じでお願いします」的雰囲気。スコア・コンポーザーは職人だから、ひょっとしたら、依頼する側としては、出来上がってくる作品は、満足度が予想以上になることは、おそらく期待していない。表向きは、そんなことは言わないが、そんなことよりも、いろんな事情は別にあると思うし。さて、諸々で、『ヨルムンガンド』のように、予想をはるかにではなく、少し超える作品を聴く。その際に思うのは、アニメから入る人は、ここからさまざまな音楽ジャンルを初体験することになるだろうが、そこからは、各ジャンルのオリジナルの音楽への旅となる。他のスコアへの旅ではない。なぜならば、旅するほど、行先地はほかにないからだ。
以前、『青の祓魔師』の澤野弘之スコアを岩崎スコアへの類似を書いたのですが、それは、スコアらしい音からの脱却とスコアらしい音そのものを合わせるというか、あらたな冒険をしようという姿勢を明確に感じたから、とでもいいましょうか。同じ論が当てはまるアニメ・スコアだと菅野よう子サウンドがもちろんあるが、こちらが他と区別して考えてしまうのは、「菅野よう子スコア」という、また別ジャンル的なものが確立されてしまっているからか。うまく喩えられないが、他の作曲家の世界から菅野スコアにたどり着くことも、菅野スコアから他のスコアに旅することもない。最近は、菅野スコアの引用ジャンルのオリジナルへの旅ですらないんじゃないか、と思えるぐらい、菅野スコア自体が充実しきってきている、ということもある。
岩崎スコアは突っ走っている。さて、そこで、スコア(劇伴)という、他のジャンルにはない味わいのある不思議なスタイルの音楽について、聴く側が世界を広げていくために、さに参考となるスコアが、できれば岩崎スコア以外から提示していきたい。ここが難しい。ここが上手くいかないと、岩崎ファンにはなるが、スコア・ファンにはならない。岩崎スコアを僕は、もちろん、アニメ・スコア・ファンのみではなく、(これは、すべてのスコアについて言える事ですが)アニメ・スコアにはあまり触れない、例えばハリウッド映画のスコアのファンなどにも、積極的に薦める。それは、アニメ・スコア・ファンを増やす意味合いもあるし、すでに映画スコアには長けているリスナー諸氏から、アニメ・スコアに対する、映画スコア・ファンならではの助言や参考作品の提示などが出てくるのではないか、という他力本願的な部分もある。いずれにせよ、自分が考えていることが、自分でできる範囲は限られている。自分の考えを理解してもらって、共感者にも手助けをしてもらうに限る。
岩崎スコアは、孤高だと思う。が、孤高ではいけない、と薦める側は痛切に思う。
ところで、岩崎さんには、いつか、日常系もしくはラヴ・ストーリー的な作品を、と期待している。明らかに、さまざまな世界が変化する、と思う。その意味では、現在、岩崎スコアにはあるイメージが定着している。ジェリー・ゴールドスミスも『いつか見た青い空』や『海流のなかの島々』のような人間ドラマで名作を残しているし、ハンス・ジマーだってデビュー作の『ワールド・アパート』や『心の旅』『グリーンカード』など、人間ドラマでの傑作は限りない。そして、彼らのそんな作品は、新たなるファンや世界を確立したのは確実だ。

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2012年7月14日 (土)

リアルな『アタック・ザ・ブロック』

銀座シネパレスにて『アタック・ザ・ブロック』鑑賞。こんなにマジな映画だと思っていなかった。エドガー・ライト絡みなので、シニカルなパロディ臭があるものだと思っていましたが、全くなし。
説明一切なし、横道エピソードに逸れることもほぼなし(若干、看護士女性側と並行する部分が、少しスピードダウンするが)、かなり余計な部分はそぎ落とした感じがある。が、主人公モーゼスの視点をずっと継続させてほしかったので、複数視点にならざるを得ない箇所は、分割画面とかにしてほしかったぐらい。余計なことはそぎ落としつつ、少年たちのちょっとしたセリフなどに、社会状況的なものを塗りこめる。という意味ではハードアクションだが、シリアスな人間ドラマもちゃんと存在させている。というか、もし、現実にこの事件が発生したとした場合に、登場人物たちは、どんな話をするか、についてリアル。それは映画的、というよりむしろドキュメンタリー的にリアルな感じがする。看護士女性の、結果ヒーローとなった悪ガキたちとの距離のとり方も、かなりリアルだ。すべてが、いかにもまるで同じシチュエーションの映画で自分たちが突っ込んだところを全て修正したら、こうなりました、的な感じ。なので、別にモキュメンタリーじゃないのに、ドキュメンタリー的な鑑賞感があるのはそこなのだろう。音楽は、これも、まるで、主人公の少年たちなら、どんな音楽をバックに流しているか的なリアル感。かなりスマートでクレバーな映画を見た感じがしました。

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2012年7月 9日 (月)

スポ根にあらず『ソウル・サーファー』

チネチッタにて『ソウル・サーファー』。おそらく、サーフィン好きには、有名な話の映画化。かなり近過去で、多くが記憶をしっかり持っている事実の映画化だろうから、その事実をどう、ひとつの「映画」にするのか。そこで、ドラマのどこに比重を置くか、というところに作品としての意味合いがもたれるかな、と思ったのが、当初のイメージとは違って、競技シーンにかなりの比重が置かれていること。家族愛メインのような紹介のされ方をしているが、家族のドラマは、現実そうなわけだから回避はできず当然で、作り手は、そこよりも、主人公少女の父母の夫婦関係であったり、サーフ仲間たちの関係の流れ方などに、この物語のユニークさがあるか。ただし、これは整理した結果なのかもしれないが、ひとつの関係の描写に時間をかけず、短いやりとりで大まかなところから微妙なところまで関係性を説明していく。つらいリハビリ・シーンなどがほぼ皆無なのは、本人たちの意向が反映されているのかもしれない、とも考えた。
ちょうど、「親が自分の職業について、苦労話ばかりを家庭でしていると、子は親と同じ職業にはあこがれなくなり、親が自分の仕事を家庭でも熱く語っていたとしたら、子は親の職業にあこがれる」話を聞いた直後ぐらいだったので、苦しさよりも、楽しさを前面に出すべきなのだ、という考えが今ではあるのだろう、と思った。そうそう、エンディング。ジ・エンド、と出た後で・・・そう続くのか、というのは、そういえば昔からもあってもよさそうなのに、こういう続け方は、初めて見た。最後に結婚式で終る恋愛話なんかにも使えそう。この終り方も、この映画が、「スポ根」ものにはしなかった理由と同じ意味からであろうと思う。
ところで、オリジナル・スコアは、マルコ・ベルトラミ。人間ドラマ、しかもこんなに明るいドラマは珍しく、明解にメロディアスで萌え燃えなテーマに、さまざまに聴きやすいサウンドを工夫して、全体的にはまるでデイヴ・グルーシンたすトーマス・ニューマンわる2みたいな心地良いものでしたが、プレスなし。ブエナビスタ配給ものだし、イントラーダとディズニーのプロジェクトあたりで出てくれないかな。

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2012年7月 8日 (日)

セリフのようなSEと自然音、SEのようなセリフ『ベルタのモチーフ』

昨日の7月7日、シアター・イメージフォーラムにてのホセ・ルイス・ゲリン映画祭で『ベルタのモチーフ』。ある程度、前知識いれたつもりだったのに、忘れてしまって、スクリーン前に落ち着いたときには、邦題の正確なタイトルすら思い出せなくなったていたらくで。確かに、昔、シネ・ヴィヴァンやユーロスペースなどの映画(をおもに大阪で)で浴びるように感じていた映画的記憶とおそらくほぼ同じの快感があった。映し出されるモチーフは、これ以上ないほどに絞り込まれて、その連続するイメージの中の、まるで間違い探しをするかのような、かすかな変化を感じ取ることで、ドラマを感じ取る。少女という題材への、映画作家の執拗さは、昔から脈々とある感じですね。これを見ると、『山の焚火』『緑の光線』あたりを連続で見たくなる。『ベルタのモチーフ』は83年の作品なので、シネセゾン配給とかで、ヴィヴァンでロードショー、は年代的には可能だったはずなのだが、当時は発掘されていなかったのだろうか。
そして、ゲリン映画はとにかく音響、のようで、この作品も、自然音および効果音はまるでセリフでありモノローグ。かたや、人物が口から発するセリフが逆に効果音もしくは自然音のように流される。この作品ほど、無音で見たら、意味がわからなくなる作品もないだろう、と思う。いやあ、久々に、映画を浴びた感じがしました。

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