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2012年8月26日 (日)

あえてハードにはしない『THE GREY 凍える太陽』

『THE GREY 凍える太陽』於・チネチッタ。一見、ハードアクションと思われたが、違いました。ひとことでいえば、絶望していく男の人間ドラマで、少し宗教的な感覚もします。それは、終盤によってなんとなく明確化してきまして、それまでの「描き方」の意味をそこで再び気に止めることになるのです。
主人公の男は、絶望している。が、その次に自分を襲った運命は、「事故の生存者を、自分が先導して生還させる」ものなのである。が、その経緯は見ての通り。
男が、凄腕の持ち主であることを歌う物語ではない。もちろん、職業ゆえの生きる知識は与えるが、自分が万能ではないのは、「そういうシーンがない」ことが如実に物語っている。狼たちは生存者を襲っていくが、生き残るのは、クジ運的な運命なのであって、決して、強いからではない。主人公は自分が弱いということを明言するし、告白ではない幻想シーンでも、妻の面影を幾度となく追うため、それはジェスチャーではないこともはっきりわかる。
カーナハンといえば、非情なハードアクションのイメージがあった。そして、この素材だと、劇伴も最小限にするか、無機的なサウンドにして、感情を排除し、かつドキュメント・タッチの編集にすることも考えられる。いや、それの方がこの物語だと、むしろ普通かもしれない。が、その逆で、かなりセンチメンタルなメロディも盛り込んだスコアをしっかり流させるし、残酷なシーンも、必要最小限にとどめ、かつ余韻はのこさせないようにしている。非情とか残酷がテーマではないからだ。テーマ以外に誤解される演出をすると、視点がぶれる。
男は、生存者を先導するが、そこそこ傍観者でもある。他の生存者たちは自身について語る。が、主人公は、自分の人生は語らない。語れる余裕がないと思っている。他の生存者たちには、待っている家族がいるのである。
最後に、男に、本当の絶望が訪れる。最後の最後の、絶望から逃れるのはここしかない、そうでなければ死ということだ。物語は、男の人生を抽象的にしか、描かない。が、しかし、自分のプライベートを明かさないのが、ハードボイルドだ。ハードボイルドに生きつつも、自分の弱さには自覚的なひとりの男の心理劇が、スペクタクルをメタファーとして描かれる。「人間を描くとはこういうことだ」的なカーナハンとニーソンの姿勢がうかがえて、かっこいい。

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2012年8月19日 (日)

極端な家族論の実験『籠の中の乙女』

『籠の中の乙女』於・イメージフォーラム。物語というよりも、設定の映画。ギリシャならではの光なのか、フランスともイタリアとも違う雰囲気の暑さを感じる色彩。
近代の一家族を舞台にしているが、中世あたりの時代で、デカダンな感覚に組み込めば、違和感ない気がする。ヴィンチェンゾ・ナタリの進化系的ゲームのようにも見えるし、M・ナイト・シャマラン『ヴィレッジ』に似た寓話とも取れる。が、こちらは、確信犯的に悪意に満ちている。優しさはなく、感情移入を許さない。感情移入を許さない端的な表現は、顔から下だけを映すという、非常に、普通の映画だったら?ありえなさそうな画面が多く使われることだったりする。
家族は、感情を押し殺して生きる。もはや、「生きる」状態かどうかもわからない。父は、家族を実験道具にしているようにも見えるが、その目的もわからない。
置き換えられる単語。これも、意味の汚さから子供たちを守るべく、遠い意味にすげかえるのは理解できるも、どうも、それだけではない単語もあるようだ。ギリシャ人にはわかるブラックユーモアが隠されているのかもしれない。
強烈な事実を突きつけられるが故の、無表情にならざるをえない状況、ではない無表情な状況。まだ、この監督は、ここから一周して、この無表情に戻るか否か。

追記:パンフ読後。
ブレッソンの名前は、ちょっとかすっていたのだが、乾いていたらそう観てしまうだけか、と思ったら、監督の好きな監督に名前が出てきた。
総じて面白いのは、みんな、手放しで絶賛というよりも、カンヌの結果があるため、問題作なのだろうが・・・という戸惑いを隠せない状態の文章が並ぶところだ。絶賛だらけよりも、逆に説得力あり。その戸惑いは「フランス版プレスより」の文面が色濃いが、これはギリシャ映画全体を見すえてのもので、決して印象論ではない。
記名原稿は、ギリシャプラザ代表の柳田富美子氏と、駐日ギリシャ大使のニコラス・ファマドス氏、細越麟太郎氏。
コメントとして、町山智浩氏、D〔di:〕氏、くれい響氏、清藤秀人氏、細越氏もコメント記載あり。
そして監督のインタビュー。つまりは、監督が極端に家族論を推し進めてみた実験評論的な作品なのかな、という結論にいたり、これは普遍的なものだろうから、それこそ、教育評論家諸氏が見れば、独自の見解があるのかもしれない。描き方に、過去の作家性強い監督の影響とかでもっと突っ込むかといえば、そこまでにはならないところも、みなさん、戸惑っている証拠なのかな、とも思いました。

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2012年8月18日 (土)

自分も存在する架空の教室『桐島、部活やめるってよ』

『桐島、部活やめるってよ』於・川崎チネチッタ。
桐島が部活をやめるという情報が生れる瞬間は、やはり『エレファント』や『明日、君がいない』の事件がおきる瞬間に似ていて、そこを中心にするという基準が、受け手を安心させる。「何を描いているか」が、ストーリーとして、なんとなく判る。
また、その情報が流れた日の周辺の出来事が、周辺の人物たちの記憶におそらく永遠に残るかもしれない、という点では、学園祭の準備の最終日の出来事にも似ている。
自分は、高校は共学じゃなかったし、他の生徒たちの動向には全く興味なく、映画と推理小説に没頭していたクチなので、描かれる「日常」がどれほどの度合いでリアリティを持たないのかはわからない。が、一見「すべての登場人物が主人公」のような様相を持ちつつも、地味な映画少年に向って、万能クンがかっこわるい表情を見せてしまうことにより、映画少年クンたち側が「悩んでいない」確信のようなものを感じさせることになる。
映画少年クンたちに映画は、シャイさゆえに、オタク知識濃度高い会話をさせる。その対照に、彼ら以外の生徒は、雰囲気のみの会話をしているかのようだ。しかし、互いへの感情の反応仕合は、敏感すぎるほどに敏感。
やはり、この物語は、映画少年クンが登場しないシーンも含めて、彼目線の物語であろうとは思う。彼の会話以外には、人間同士のあまりにも敏感な感情の響きあい、という以上のものが感じられなかったりするからだ。なので、一見、この物語が、ノスタルジーは伴わない「架空の高校生活の日常」と思いつつ、理想なのかどうなのかがわからないハードボイルドなところが、「今、自分も、同じ年齢の人間の、自分は立ち会っていない場面の空想」と考えれば、合点が行く。映画少年クンは、別に非情ではないので、彼らを悪者あつかいはしない。ただ、わからないだけだ。
地味に、教室のみなを眺めていた人間には、あることなのかもしれない。それが「昔はよかった」かどうかもわからない。その証拠に、現在も、自分の周辺の人々がどうあるのかは、想像なんてしたこともない。
善悪でもなく、ノスタルジーでもない。ただし、やはり、現実の教室の会話はもっと生々しく具体的だろうから、現在の高校生が違和感をもつのは、それは映画として正しいのでもあろうと思う。

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2012年8月12日 (日)

建築ファンにはたまらない『劇場版 東京スカイツリー』

『劇場版 東京スカイツリー 世界一のひみつ』於・角川シネマ新宿。
全体の印象が高感度なのは、ものすごく客観的で淡々とした作品であることだ。つがいになることになるハト2羽というすごくプチ・ドラマを入れつつも、このハトという「スカイツリーについて、私もこれから勉強」という立場のものを介することによって、難解さを和らげようとする。
が、面白いのは、この映画がバリバリ「建築ドキュメント」であるため、易しく説明する、といっても、やはり専門的過ぎてやや難解な箇所はある。が、そこで、ツリーの全体論に逃げるのではなく、あくまで「ツリーのメイキング」のみに限っているのだ。おそらく、もともとこのメイキングを一般公開するにあたって、どうすれば一般の興味を示すオブラートを包めるか、ということでこうなったのだろう。
想田監督やホセ・ルイス・ゲリンと比較するつもりはないが、この映像も、かなり、観察映像である。日程を伝えるためのテロップはあるが、基本的には、カメラの前で、決して熱くならない現場の作業者の日常が映される。まるで万博の「スカイツリー館」の展示物のような、この映像作品は、それらしい表情としての、低い体温を保つこと、
のために、主題歌は土岐麻子がヴォーカルを入れていて、このタンタンさが素晴らしい。そして、このハト2羽の掛け合いによってナレーションとするという構成。これは松山善三監督・脚本の万博映画の異色作『沖縄海洋博』を思い出さずにいられない。こちらは、愛川欽也と中村メイコのかけあい。が、しかし、異色だったのは、映像は、オーソドックスな万博紹介映像ながら、2人のトークは、それらの映像の説明をかなり放棄していた、ということ。そのアバンギャルドさはさすがに冒険していない。

そして、さすがにこれは現物見ないわけには行かない、とその足で、スカイツリーに行ってみた。意外にしっかり
下から見えるので、映像での説明がより説得力を持った。驚いたのは、いくつもアクセスとして存在する駅々がすべて直結しているということだ。そして、ミニ万博的な立体性をもった娯楽展示・商業施設というかブースがその中に無数にある。浅草にあるはずの建物なのだが、完全に閉じられていて、今、ここはどこなのかの実感は全く得られないまま、時は過ぎていく。数々の過去の万博も、同じような状況だろうか、と思いなおす。愛知万博は違った気がするが。「地元ボランティアを積極的に取り入れる」というシステムが目立ったからだろう。そらに近い物は、こちらにはない。

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2012年8月11日 (土)

「寄り添う映画」だけで終らせてはいけない 『聴こえてる、ふりをしただけ』

『聴こえてる、ふりをしただけ』於・渋谷アップリンク。パンフレット500円も買いましたが、読まずに、先に感想書いてしまいます。
ほぼ、どんな映画なのか前知識入れないのは、いつものことで、タイトルに惹かれたのみ。以前に映画祭っぽいところで上映されたのは知っていたが、映画祭的な機会は万が一満員で入れなかったら終わりだし、そういった祝祭っぽいのは、あまり好きではないので、通常興行があればそれに越したことはない、と半ばあきらめていたら、ちゃんと通常興行機会ができた。
さて、この映画は、一見、「まず語りたいことありき」の「寄り添う映画」的な香りをさせるも、ある「観客に見せるための映画」としての構造があることに気づいたときに、一気に身を乗り出しました。そこから感じられたのは、この物語は、ある母をなくした少女と彼女をとりまく人々、それも主に彼女と同年齢の少女たちの関係から生み出される心理的なスペクタクルであるなぁ、ということ。この起承転結の面持ちは、大人を主人公に、さまざまな見せ場満載のサスペンスフルな人間ドラマの構造と骨格を同じくしていて、別にハルヒやラムちゃんの内面じゃないけれど、どこにでも存在する「母をなくした少女」の心情と言う世界というスケールの中でドラマティックな空間が展開している。
宇宙の話をする時に何万年だの何千万年などの単位が行きかう。その中での人間の一生なんて、ひとつの星を主語にした場合、おそらく、その変化は目に見えない。人間が識別可能な範囲で「大きさ」や「時間」が測られるのは面白いもので、その逆で、おそらく、人間の感覚では識別不可能な時間の間に(寿命が人間の時間に換算すれば、1万分の1秒だ、という感じの)生れてなくなっている「生命」というものも、おそらくあるにちがいない。「大きさ」というものは面白いものである。
ということが、「宇宙のスペクタクル」であろうが「少女の内面」であろうが、あるよなぁ、と感じたのでした。すごくしっかり作られている「娯楽映画」だと思います、この映画は。決して、「寄り添う映画」に寄り添いたい、と思う人たちのためだけには終らない映画です。
ということで、とり急ぎ書き終えて、パンフの北小路隆志氏と名越康文氏の論、山田ズーニー氏と田口ランディ氏の対談を読むことにします・・・

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2012年8月 9日 (木)

『ヴァージニア』とコッポラ作品感

試写にて『ヴァージニア』。悲劇なんだけれども、すごく達観しているところがあり、それぞれの登場人物に起こる悲運であるとか滑稽な事柄であるとか、胸が締め付けられるような悲劇であるとか、見ている側が感じるであろう感情がまるで「色」であって、さまざまな感情が少しずつ湧いては、別の心持も起こることが「カラフル」に感じられる。
毛色は違うはずなのに、この作品を見ながら『ワン・フロム・ザ・ハート』を思い浮かべていた。最近、再見していないので、遠い日の記憶ですが、本当は、明るくノスタルジックでカラフルなはずなのに、どこか、心からは楽しまない冷静さを感じた記憶がある。その逆で、そのことが決してその作品を傑作たらしめるどころか、ひょっとしたら欠点に逆になってしまうかもしれないのだが『アウトサイダー』や『ランブルフィッシュ』は衝動的な部分が多い気がする。『地獄の黙示録』ももちろん。容易に感じられるのは、男たちのドラマか、女性が重要に関わってくるかの違いがそこにあると思うが、いずれにせよ、どこか極端で、スムーズではない。まあ、このスムーズじゃないところに作家性が出るのだろうとも思う。
『ヴァージニア』には、衝動は、自分には感じられない。が、この作品は、そもそもそれは念頭になく、完璧に、さまざまな心情というえのぐを使ってのカラフルで様式美にあふれた絵を描くことをめざしたようなものなので、「耽美」という形容さえも、それを想定した冷静さをもって、見てしまう。

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2012年8月 4日 (土)

カート・ラッセルというよりシガーニー・ウィーバーを思い出す『遊星からの物体X ファーストコンタクト』

『遊星からの物体X ファーストコンタクト』於・お台場シネマ・メディアージュ。名作というか、過去の同モチーフ作品がファンにおそらく鮮烈に印象づけられているであろう作品を手がけるのは、作り手として、どういった心持だろうか、と今回のような作品を見るときは、いつも思う。が、これは、その「前の作品」を観ている人間のあくまで感想であって、その作品のインパクトを引き継ぎたいがために、あえて新作として提出することによって、リアルタイムな新作ほど観られる機会がやはり多いメディアにとっては、再映画化すること自体に意味があるのであるから、前作と比較されることは承知だし、前作ファンからうんぬんいわれても、それも承知の上での仕事なので、初めて見る方こそ見てください、ということなのだろう。
さて、本作。リメイクというよりカーペンター版の前日談ということなのだろう、ハワード・ホークス版のリスペクトでも、また新たなアプローチというのでもなく、あくまでカーペンター作品へのリスペクトだとわからせるためか、前日談になっている。が、おおよその、描かれるドラマというか経緯は、カーペンター版とさほどかわるものではない。
では、どこが違うか。カーペンター版は、いろいろいっても、やはりより万人へのエンタテインメントに着地させないといけないセーヴがなされている気がするが、本作は、まるで、その時に不満を持ったファンが自分たちが見たかったのは、この部分なんだよ、といわんばかりに、カーペンター版でみながショックをうけたグロい部分が、これでもかと、ものすごくしつこく描かれる。もう、ほとんど、そのための時間であるかのよう。
主役は、初めから女性であることは書いても良いと思うが、それゆえか、サントラのみを先に聴いたときも感じていたのだが、『物体X』というよりも、『エイリアン』を何度も、思い浮かんでしまう。音は、カーペンターの、というよりゴールドスミスの『エイリアン』側に意識が向く、もしくは思い出させる音色である。閉所での追い込まれての主人公の表情は、下着姿のリプリーを思い出させる。
この映画のポイントにもっとなるべきであったはずの、ノルウェー人とアメリカ・チームの混合部隊の異言語のやりとり。と思ったら、納得する展開に一応はなる。

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