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2012年8月18日 (土)

自分も存在する架空の教室『桐島、部活やめるってよ』

『桐島、部活やめるってよ』於・川崎チネチッタ。
桐島が部活をやめるという情報が生れる瞬間は、やはり『エレファント』や『明日、君がいない』の事件がおきる瞬間に似ていて、そこを中心にするという基準が、受け手を安心させる。「何を描いているか」が、ストーリーとして、なんとなく判る。
また、その情報が流れた日の周辺の出来事が、周辺の人物たちの記憶におそらく永遠に残るかもしれない、という点では、学園祭の準備の最終日の出来事にも似ている。
自分は、高校は共学じゃなかったし、他の生徒たちの動向には全く興味なく、映画と推理小説に没頭していたクチなので、描かれる「日常」がどれほどの度合いでリアリティを持たないのかはわからない。が、一見「すべての登場人物が主人公」のような様相を持ちつつも、地味な映画少年に向って、万能クンがかっこわるい表情を見せてしまうことにより、映画少年クンたち側が「悩んでいない」確信のようなものを感じさせることになる。
映画少年クンたちに映画は、シャイさゆえに、オタク知識濃度高い会話をさせる。その対照に、彼ら以外の生徒は、雰囲気のみの会話をしているかのようだ。しかし、互いへの感情の反応仕合は、敏感すぎるほどに敏感。
やはり、この物語は、映画少年クンが登場しないシーンも含めて、彼目線の物語であろうとは思う。彼の会話以外には、人間同士のあまりにも敏感な感情の響きあい、という以上のものが感じられなかったりするからだ。なので、一見、この物語が、ノスタルジーは伴わない「架空の高校生活の日常」と思いつつ、理想なのかどうなのかがわからないハードボイルドなところが、「今、自分も、同じ年齢の人間の、自分は立ち会っていない場面の空想」と考えれば、合点が行く。映画少年クンは、別に非情ではないので、彼らを悪者あつかいはしない。ただ、わからないだけだ。
地味に、教室のみなを眺めていた人間には、あることなのかもしれない。それが「昔はよかった」かどうかもわからない。その証拠に、現在も、自分の周辺の人々がどうあるのかは、想像なんてしたこともない。
善悪でもなく、ノスタルジーでもない。ただし、やはり、現実の教室の会話はもっと生々しく具体的だろうから、現在の高校生が違和感をもつのは、それは映画として正しいのでもあろうと思う。

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