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2012年8月11日 (土)

「寄り添う映画」だけで終らせてはいけない 『聴こえてる、ふりをしただけ』

『聴こえてる、ふりをしただけ』於・渋谷アップリンク。パンフレット500円も買いましたが、読まずに、先に感想書いてしまいます。
ほぼ、どんな映画なのか前知識入れないのは、いつものことで、タイトルに惹かれたのみ。以前に映画祭っぽいところで上映されたのは知っていたが、映画祭的な機会は万が一満員で入れなかったら終わりだし、そういった祝祭っぽいのは、あまり好きではないので、通常興行があればそれに越したことはない、と半ばあきらめていたら、ちゃんと通常興行機会ができた。
さて、この映画は、一見、「まず語りたいことありき」の「寄り添う映画」的な香りをさせるも、ある「観客に見せるための映画」としての構造があることに気づいたときに、一気に身を乗り出しました。そこから感じられたのは、この物語は、ある母をなくした少女と彼女をとりまく人々、それも主に彼女と同年齢の少女たちの関係から生み出される心理的なスペクタクルであるなぁ、ということ。この起承転結の面持ちは、大人を主人公に、さまざまな見せ場満載のサスペンスフルな人間ドラマの構造と骨格を同じくしていて、別にハルヒやラムちゃんの内面じゃないけれど、どこにでも存在する「母をなくした少女」の心情と言う世界というスケールの中でドラマティックな空間が展開している。
宇宙の話をする時に何万年だの何千万年などの単位が行きかう。その中での人間の一生なんて、ひとつの星を主語にした場合、おそらく、その変化は目に見えない。人間が識別可能な範囲で「大きさ」や「時間」が測られるのは面白いもので、その逆で、おそらく、人間の感覚では識別不可能な時間の間に(寿命が人間の時間に換算すれば、1万分の1秒だ、という感じの)生れてなくなっている「生命」というものも、おそらくあるにちがいない。「大きさ」というものは面白いものである。
ということが、「宇宙のスペクタクル」であろうが「少女の内面」であろうが、あるよなぁ、と感じたのでした。すごくしっかり作られている「娯楽映画」だと思います、この映画は。決して、「寄り添う映画」に寄り添いたい、と思う人たちのためだけには終らない映画です。
ということで、とり急ぎ書き終えて、パンフの北小路隆志氏と名越康文氏の論、山田ズーニー氏と田口ランディ氏の対談を読むことにします・・・

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