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2012年9月29日 (土)

「アップリンク配給」で「ル・シネマで公開」の「難病ものフランス映画」『わたしたちの宣戦布告』

『わたしたちの宣戦布告』於ル・シネマ
あまりにもおびただしく存在する「難病もの」のひとつとしてしか初めは見えないこの作品が「アップリンク配給」で「(関東は)ル・シネマの完全単館公開」という点がまず自分としては、何かある、と感じさせずにはおられず、かつ、アカデミー外国語映画賞のフランス代表作品であったということを知ると、何かある度はさらに増すというもので。
別に、この作品は、ミステリーではないし、パンフのイントロダクションでもそれがわかる記載があるのでためらわないが、この物語は「難病を克服する物語」なのである。
自分が鑑賞したのは、土曜の最終回で、まさしく若いカップル的な客層がまばらに座っていた。彼らの上映後の会話を漏れ聞いていると、そこそこのアート系映画ファン(自分たちでも映画制作に携わっていそうな会話だった)もいたりした。
そう、これは若い夫婦がわが子の難病に戦う決意をもつ映画であるが、そのモダンな生き方がフィットする層に、客層も相当限られかねない香りはした。その後の予告編のオーソドックスなラインナップを見ていると、こちらのオーソドックスな側の層にはにぎやかすぎるかもしれない、と。が、そこで考えれば、例えば、今年だと『別離』と『少年と自転車』そして『クレイジー・ホース』を見て、今回、という流れも十分ありかな、とも。
 アップリンク配給作品には、その作品のどこかしらに「戦う」姿勢が見られる、と感じている。はっきり社会的なものから、毅然とした生き方の人間ドラマまで。そんな「戦う」映画好きな配給会社ならではのやはりチョイスではあった。
そうそう、その「克服」した実話の当事者たちによる再現映画である。そこで思うのは、この映画が悲劇的トーンではなく、ポップで時にコミカルである、というのは、事実が「克服」したからに違いない、と思う。たらればになるが、そうでなかった、としたら、そもそも当人たちが映画化する勇気があるか否かも不明になるわけだし。ポップ・ミュージックの引用に凝れるのも、その余裕があるからだろうと思う。
そういえば、難病モノの「克服」のドラマのなんと少ないことよ。ひょっとしたら、この方が、実際の人間の精神的には役立つんじゃないか、と思えてくる(実利を考えるわけてもないですが)。物凄く大量に存在する難病モノの半分でもが助かる物語だったら、どうであろうか。それとも、克服する物語は、物語にならないとでもいうのだろうか。

ところで、本筋ではないことだが、主人公たちが出会うときに、互いの名前がロメオとジュリエットと知って、びっくりするわけだが、やはり、世界中のロミオもしくはジュリエットは、その特定の名前の異性に出会うと、ひょっとしたら、と意識するのだろうか。自分がそうだったら、するだろうな。

さて、パンフ。700円。アップリンク発行だが、ちゃんとル・シネマ仕様。ヴァレリー・ドンゼッリとジェレミー・エルカイムへのインタビューがメインをしめるが、これがほぼ全てを語りつくしている。コラムは3つで、フランス在住映画ジャーナリストの佐藤久理子さんが、フランスでのヒットの要因の分析なのだが、後半は、印象論と化す。この映画の状況こそ、本当は、林瑞絵さんに書いてもらった方が、なんて思ってしまう。
2つめのコラムは秦早穂子さんによるもの。フランス映画評論家のベテランから見る、現在のフランス映画といったところを期待するが、歴史の中で見るわけではなく、あくまで、この作品の解釈のみに徹した原稿。映画ファン以外、もしくは年配の観客などに向けた手引とでもいいましょうか。
3つめは、おそらく、この映画で唯一、詳細な解説が必要と思える「音楽」についての解説(完全にサントラのライナーノーツとして読んで可。フランス盤サントラお持ちであれば、このページをコピーして、入れておくことを薦めます)。やはりメインがクラシックの人だけに、クラシックの引用についての分析は、曲そのものの内容とも呼応させて、作品の凝りようを解説する。
当然ながら、自分は、サントラ引用に異常に反応するわけで、初めのほうで流れるドルリューは、ドルリューだ、というのは音を聴いてすぐわかるわけですが、はっきり曲名までわからない。確認すると、RADIOSCOPIEというラジオ番組の音楽。映画音楽ではない。ということは・・・・と、ユニバーサル・フランスから出た、あの6枚組のボックス“Le cinema de Georges Delerue”を確認したら、5枚目18曲目に収録ありました。ラジオ番組なので、フランス人には、なじみのある曲なのかもしれない。
そしてモリコーネだ。手術の日の朝のシーン。まるで、モリコーネがこのために書いたかのように、曲の尺とシーンの流れがぴったりあっている。エロエロな映画でのエッダのエロいスキャット入りの悩ましい名曲ということまでは思い出せて、でそういう曲だから、知ってるとシーンとのギャップがすごいなぁ、と思いつつ、クレジットで、そうそう『家庭教師』とわかる。
他には、あのユクセックがかかる「検査室に入れさせてもらえなくて、気が動転して気絶するまで」をこま飛ばしで見せるシーンは、どうしても『汚れた血』のモダンラヴと、最期のビノシュのこま飛ばし早送りを思い出さずにいられない。そして、この映画の最もメインシーンとなる簡易遊園地のシーンでローリー・アンダーソンとなると、やはり、アート映画世代かな。と思ったがしかし、この映画の2人は73年、78年生まれなので、ドンゼッリ側は、ティーンエイジにその洗礼をうけているかもしれない。
パンフのラストに、チラシではよくある、著名人コメント集があるのだが、これが100%古きよきシブヤ系を意識した人選と思える。選曲がやはり、日本では客層を選んでしまうし、編集のリズムも、決してオーソドックスではないので、意識的に、(永遠の)おしゃれ意識あり、の層になるのか。
先日のTBS RADIO “LIFE”のアンチエイジング時代での考察を思い出す。28歳で自分の年齢を止めた層、という見解である。

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2012年9月25日 (火)

深谷シネマで見た『シグナル 月曜日のルカ』

『シグナル 月曜日のルカ』於・深谷シネマ
当初、川越スカラ座に行くつもりが、諸事情で予定変更で、深谷シネマへ。
いろいろと書きたいことはあれど、先に、映画そのものについて。
前知識としては、仲里依紗版『時をかける少女』を撮った谷口監督作だ、ということだけ。そして、ご当地映画的なものだろう、といううっすらとしたもの。谷口正晃監督の位置的イメージは、自分にとって、少し前の今関あきよしや小中和哉の位置にある監督。完璧ではないが、なかなか実現できないキュートさを恥ずかしがらずに形にする。
今回の『シグナル』のヒロインとなる三根梓、完全に初代時かけの原田知世とダブる。
古風な映画館の、もっとも古いタイプの映写室における映写技師が少女!この設定は、あまりにかけ離れていて、思いついたことがなかった。女性が映写機を回す、という実例は、思い出す限り、自分の周りでも数例あるが、かなり稀であることは確かだ。
何より、この映画で気になったのは、この映写機の扱いについての描写があまりに細かくて、長いことだ。たまたまだが、自分が映写も担当した映画館は、まさしく、この方法をとった映写だった。ただ、作品中の映写機は、多分、フィルムを2つにまとめて、映写機を移すのは中間点の1回だけだが、自分がいた映画館は、邦画やおおよその洋画は、一巻が約20分で、フィルム2巻分をひとつにまとめて回していたので、映写機の移し変えは、100分の作品だと、2回行うことになる。なんてことを思い出しながら見るので、個人的には退屈しない。
思わずにいられなかったのが、この作品のターゲットは、どこにあるのかということ。この映画館の設定、技師が美少女なんていう、ある意味、夢の設定は、年齢がそこそこ召している男性向けと思われるが、そんな舞台とは、全くそぐわない、結構ドロドロした愛憎ミステリーは、いまどきのティーンエイジ女子向けのような気もする。そして、美男美女が演ずるためにすっきりしているが、これに似た愛憎トラブル(ストーカー的な)は、現実にも、相当数潜んでいる気がする。決して笑える設定ではない。
とすると、映写技師が美少女、というキモのこの一点を除き、実際は現実味を帯びているんじゃないか、とは思う。作品のロケ地として使用された映画館は上越市と上田の劇場。この2つ、特にシーンが多い上越の「高田世界館」はご当地映画的なものがある。
さて、この作品、映写技師なんて古い、と少女は言う。これまた笑えないジョークとしては、これが「デジタル作品」であることだ。
驚けたのは、不自然なクライマックス含め、ほとんど全てのシーンが映画館の中で語られるということで、ここに、この映画独特のこだわりがおそらくある。

この映画を「深谷シネマ」で鑑賞。ちょうど自分の中で意識のあった「地域コミュニティ」としての映画館のありようのひとつの有名な例の場所である。酒蔵を改装したという場内は、場内に入るまでが、かなり味があり、またシンプルな椅子も、いかにも手作り映画館の、最小限でのクリーンさが整った感じ。
ローカル線の旅をする時に、「地方の映画館で見る」という旅も加えたい構想は以前からあるが、この「地方名画座・ミニシアターの旅」は、見直したく思う次第。

『シグナル 月曜日のルカ』が、ご当地映画として作用しているのかどうかはわからないが、ご当地映画散策にも興味はある。地方色がしっかり焼き付けられ、かつ、映画作品としてもしっかり面白い作品になっているのかどうか。一見、真面目に地味にしか見えなくて、ひとまとめにしがちだが、決して、「すべて同じような作品」ではあるまい、とは思っている。

ロードショー時のパンフ売ってました。700円。邦画で若手俳優の映画なので、インタビュー掲載はあるが、予想を裏切るものではない。長文は映画ライターの細谷美香さんの三根梓についてのプロダクションノート的主観的肯定論、監督インタビューも、役者についてで、かなり重複あり。そして、この作品では、これがないと意味がない、舞台となった2つの映画館についての紹介(電話番号やウェブアドレスまでは掲載せず)、最後に映写指導をされた荒島晃宏さんの話。ここも、つまりは若い役者さんのがんばりについてになってしまうが、映写シーンの解説も少し。荒島さんは、起こしたことがないトラブル、とおっしゃっている、フィルムが床に散らかされたトラブルは、これは巻き取り側からフィルムが外れると起こるのかな。そして、ちょっとはてなだったのは、フィルムのさかさ状態ですが、あれは巻き戻すのを忘れて、前回に終了したフィルムをそのままセッティングしてしまうと起こるのかな(かけ方が逆だから、多分、音も出ていないかな)・・・・

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2012年9月23日 (日)

研究者の考察を参考にしつつタルコフスキー『アンドレイ・ルブリョフ』『鏡』

『アンドレイ・ルブリョフ』『鏡』於横浜シネマ・ジャック
自分にとって、20数年ぶりのタルコフスキー2本立て。しかし、以前に決行した20代前半の頃と比較すると、3時間と聞いても、げんなりというよりワクワク感のほうが立つのは、やはりトシのせいでしょう。
おそらく、ともに未見と思ったので(少なくとも、記憶がない)、続けてみることに。さて、先に『アンドレイ・ルブリョフ』。タルコフスキー映画の難解さは、まずは、ソビエト、ロシアの歴史について、ある程度知っていないと、なかなか容易に意味づけはできない、というところにあると思う。映画にもいろいろあって、いわゆる娯楽、アトラクション映画から、詩人もしくは絵画の延長としての作品を映像に焼き付けたものがあり、もちろん、タルコフスキー映画は後者なのだが、これは、一回見てどう、というよりは、さまざまな文献にあたるなどして、研究されていく、「対象」としてのあり方も間違ってはいないと思う。ただ「映画」というスタイルで完成しているため、解釈に時間がかかることに恐れをなしてしまうという錯覚が出てしまう、ということだと思う。
『アンドレイ・ルブリョフ』は、タルコフスキーの個人的な部分を色濃く出しては、おそらくもっとも「ない」作品なので、本当は、当然の如く、予習・復習は必要とは思うが、とりあえず、ただ「見ただけ」の印象的感想。タルコフスキー作品としては、珍しくコミカルさが時おり感じられる。強烈なイメージも焼き付けるが、人間の表情を見つめる画像が多い。より、絵画というより、演劇を感じさせる。画家の映画なのだが。
そして『鏡』。逆なのは知って、あえて言うが『ノスタルジア』にあまりにも似た画面、そして色、特に緑。難解難解と聴いていたので、これはあえて先に内容をある程度予習して鑑賞。すると、タルコフスキー作品としては予想以上のシーン(というのかな)展開のめまぐるしさにもかかわらず、理解できる。ネックとなるのは、だからこそなのだが、現在と過去の人間関係が酷似していることで、これを見誤ると訳が判らなくなる。もちろん、そういいつつ、理解しきっているわけでは全くないのですが。過去(幻想)と現在、そして白黒とカラーを使い分ける場合、ほとんどの場合が、現在ではない方がカラーになっている気がする。過去・幻想ほど、現在の自分の心理状態の中では「リアルであってほしい」という願いを実現させているのだろうか。現実ほど存在感を失い、過去が鮮明になる。

2012年の「タルコフスキー特集」(企画・パンドラ)としてのパンフが出ている。500円。今回の特集によせるユーリ・ノルシュテインとアレクサンドル・ソクーロフのコメント、そして注目の原稿は、東京外国語大学准教授(ロシア語専門)の前田和泉さんの「父と息子」。アンドレイと父アルセーニイの関係、そしてタルコフスキーの家族関係を軸に、作品への投影状況の考察。『鏡』の相当な参考資料となる。もうひとつが映画学およびロシア文化研究を専門とする映画研究者(評論家ではない)の西周成さんのプロダクション・ノート的に読み解く「運命と使命 アンドレイ・タルコフスキーの場合」。タルコフスキー死後の旧ソ連諸国の若い映画作家への影響まで波及しており、今後の鑑賞の参考になる。

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壮大な裏物語を一晩で語る『漆黒の闇で、パリに踊れ』

『漆黒の闇で、パリに踊れ』於銀座テアトルシネマ。
何度も言うが、もう一度。もう、こんなの「パリで、夜だった」でいいじゃないですか。覚えられないだけだし。
ということで、華はなく、日本で無名俳優たちのじっくりドラマということで、あきらめていた作品が、レイトショーとして公開。劇場アナウンスで「ブルーレイによるデジタル上映になりますことをあらかじめご了承ください」は、肯定的驚き。これについて謝ってくれた映画館は初めてだ。
さて、前知識どおり、パリの夜の裏を知り尽くした刑事と、今日だけ、と運転手役を命じられた女性警官のある夜のパトロール。といっても、ありとあらゆる店、人間と通じている男だけに、まるで街の調整役のごとく、すべてが目的意識をもっての行動となる(毎夜がこれではパトロールになっていない気もしないでもない)。
まるで、パリの夜のカタログのようなさまざまな人間模様がスピーディに捌かれていく。不自然な説明セリフなしで、そして一晩の出来事に集約させて、刑事と夜のパリの係わり合いの歴史をほぼ理解させる脚本は、脚本家の満足感も予想できそう。そして、物語が始まってから、うっすらと、この作品の弱点と思われていた部分も回収される。
メインビジュアルにもなっているように、なんといっても、主役のロシュディ・ゼムの面構えといでたちが、この映画を本物っぽく見せている。
決して、明るい映画じゃないし、終り方もハッピーエンドではおそらくないが、不思議な幸福感は漂いながら観ていられた。なんだろう、この映画に期待していたムードに限りなくちかかったということだろうか。

パンフはなし。劇場アナウンスでも、それについて言及あり、にもこだわりを感じた。

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製作事情の真実以外は、これは『ユージュアル・サスペクツ』的なのか『これは映画ではない』

『これは映画ではない』於シアター・イメージフォーラム
この映画についての真実(もちろん、すべての映画の真実はさぐれないが)は明かされないだろうから、さまざまに多構造的にこの作品?は捉えたほうが面白いと思う。偶然回っていたビデオカメラ、記録として映像を残しておいたほうが良いという友人の意見、偶然ゴミを引き取りにきてくれた青年が話してくれるさまざまな事情。表層的には、ここには「映画を撮りたかったが、やめた」とオーバーアクションする「監督」の自発的な態度は見られない。が、それは、不自然なほどに「観られない」。今や、今の時代のこの映像は、データとして録画されたものだから、どのぐらい、実際は「撮影」されていたのかはわからない。そして、この「映像記録」にも、リハーサルはあったのかもしれない、いや、あったろう。そして、プレイング・ディレクターも、世の中にはいっぱいいるし・・・
それどころか、作品内でパナヒが語る「幻の作品」の「物語」は、いわばパナヒの立場が、主人公の「芸大受かった娘」に当たるわけで、結構スレスレなメッセージをあからさまに語っているのだ。なので、ひょっとしたら、この「幻の構想」も、現在を語るためにでっち上げたもので、このような作品を撮る予定は元来なかったかもしれない、そうでもないと、あまりにウマすぎる話じゃないか、とも勘ぐる。そうすると、「こういった映像作品にせざるを得なくなった」事情以外は、実はほとんど・・・・・
ということで、かなり暗喩に満ちつつも直接的なメッセージ。しかも、これだと元来、無料でyoutube公開などになりそうなところをあえて「映画作品」として出品させたところにも、メッセージを生かす手段のアイデアがある。この発表方法によって、メッセージはメッセージではなく「映画」になったのだ。映画としてカウントされたのだ、世界的には。
ということで、些細かもしれないが、気がついたこと、「映画」は発表手段に拘れば、映像作品は「映画」たりうるのだ。映画になりそこねた「メッセージ映像」も、過去に多分山ほどあるだろう、とちょっと勿体無さを感じたりする。

パンフは600円。海外レビュー(コメント)、イントロダクション、シノプシス、この作品に関連する時間軸の説明、モジタバ・ミルタマスブ監督のインタビュー、日本にイラン映画の紹介に最も尽力している東京フィルメックスのプログラムディレクターの市山尚三さんの、パナヒ監督デビュー時から現在までのイラン映画と世界情勢との関連などからの解説、森直人氏(映画評論家)は、純粋に映画ファンの立場で柔らかく見た場合の考察だが、やはり美辞麗句で固められている。もっと客観的な単語を使って「解説」してほしい。
最後に、ニューヨークタイムズのA.Oスコット氏の論評。こちらは、社会論や柔らかめの哲学書に似た語り口で理路整然。冷静に方程式を解くようにこの作品の異質さを「解説」している。

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2012年9月17日 (月)

親しみのあるフランス映画ということ『最強のふたり』

『最強のふたり』於TOHOシネマズ六本木。
始まって2週経過しているので、少しは楽だろうと、昼前に調べると、渋谷・日比谷ともに、夜しか空席なく、もっとも上映回数の多い六本木へ向うことにする。川崎だと楽勝のようだったのだが、ここまで予想外の大ヒットは、他の観客の熱気も見てみたかったというのがあります。

すでに観た人のほとんどがアース・ウインド&ファイアーについて言及していて、その理由は、オープニング・タイトル時のシーンで判明するのだが(そして、それは物語全体の重要な場面を切り取って、前面にもってきたものだな、というのは誰しもが感じ取れEW&Fがふたりにとってのある種のキーワードなのだということがわかる)、それは、その「セプテンバー」がノリのいい名曲だ、という簡単な理由ではなかった。
エコーの係り具合が違うのである。はっきり、締め切ったクルマでカーステレオの音量を最大にして、クルマの空間一杯に、その音楽が轟いている感じをはっきりと出したエコーであり、単に挿入曲が流れている、というものではないのだ。
クラシックとファンクディスコというはっきりと判りやすい音楽ジャンルの分け方は、用意といえば容易だが、それだけ、今まで、この主人公ふたりが接点のない世界で生きてきたことを物語る。共に、互いの逆のジャンルは、聴く意識を積極的にもたない限り、接することはおそらくない。エイナウディのピアノ曲以外の流れる曲の数々は、それぞれ、そのシーンの主役に立つ側の人間の心の中で流れている曲ととれば自然だろう。そこでドリスが主人公のはずのシーンでクラシックが流れるときに、その効果が浮かび上がる。
この映画は、いわゆるフランス映画的な繊細さを継承してきた、シネアスト寄りの新しい波とは一線を画す方面から出てきたものだろう。そこには、多くの、映画ファン以外の人間に門戸を広げられた親しみやすさが第一にあるわけだが、そこで、それらの多くの作品の中で、この作品に印象を与えたのが、ルドウィゴ・エイナウディのピアノ音楽の多様な引用であった。
ルドウィゴ・エイナウディは、90年代後半から、2000年代の前半まで、かなり積極的にイタリアの新進監督の作品のサントラを手がけていた。そのペースと作風は、確かに「哀しみを帯びたマイケル・ナイマン」もしくは「メロディアスなトーマス・ニューマン」的な位置をイタリア映画音楽シーンの中で確立するのかと思われた。『最強のふたり』で引用される「そしてボルドーの森で」は、その後期に位置する作品で、フランスとイタリアの合作映画。すなわち、エイナウディが今後フランス映画にも進出するのか、と思わせた作品だったのだ。
その後、エイナウディ音楽が大きく撮り開けられたのは『ディス・イズ・イングランド』があるが、こちらにも新曲提供はない。今回の『最強のふたり』の、まるでオリジナル・スコアのように引用するにあたっては、本当は、新曲も監督たちは熱望したのではないだろうか、と勘ぐってしまう。
それに似た例で最近の作品で思い当たるのは、グリズリー・ベアの音楽を引用した『ブルー・バレンタイン』で当初新録音が入る予定がスケジュール調整があわず、既成曲の引用になった、とある。『アメリ』のヤン・ティルセンは、ジュネが聴いて気にいった既成曲はそのまま使用し、そこに追加する形を取っている。さらに思い当たるのは、『キル・ビル』で「新・仁義なき戦い」を使いたい、というタランティーノの要望に、布袋氏が新曲を録音しても良い、と逆オファーするも、「あの曲がいいんだ」という返答があった、というのを思い出す。

さて『最強のふたり』は、基本的には、一般観客のためのコメディでありながら、そのアプローチの品のよさが、他の作品とは違ってひとつ抜けたのだろう。あとはオマール・サイの魅力爆発の感がある。サイは監督のトレダノ&ナカシュ組の常連だったわけだが、この「常連俳優のブレイク」は監督のブレイクと関わっているように思える。まず、思い出されるのは、なんといってもベッソンとジャン・レノだが、そのまだ知名度は低いが、その俳優の味を十分に知っているのは、もちろん長年つきあってきていた監督なのであり、その監督がバシッとくるものに突き当たったときに、その俳優の輝きも、より目立ってくる、これは呼応するものなのだろう。
タブーについて描くことでの、観客たちのわだかまりの解消加減もあり、これは製作にゴーサインを出す側の勇気にひたすら拠るものだろう。ただし、この作品のヒットによって、そのタブーは、かなり取り除かれていく可能性も大きい。

そしてパンフレット600円。この映画は、解説なしでも消化できるので、購入率が心配だが、この作品で知りたいのは、日本では全く知られていない監督についての解説と、これまた日本でほとんど知られていない、アート系ではないフランス娯楽映画シーンでの、この作品の位置だろうか。
そのフランス映画シーンにおけるこの映画の位置は、あの「フランス映画どこへ行く」の林瑞絵氏が書いている。ただし、興味深いのは、氏がどちらかというと、批判の対象として書いていたと思われる側から出てきている作品であることで、かなり客観的にヒットを分析し、自分自身は距離を保った文面ととれた。特に、TVのコメディ・シーンの人気者だったというオマール・シーなどは、もっとも、そちら側の人材と思われるし。
監督については、インタビューがある。一問一答的な簡潔さが続くのは、全体を見渡そうとする質問の際に、あまりにも前知識がない日本の興行側にも理由はありましょう。
そして芝山幹郎氏は印象論で、参考資料ではない。
ラストになんと賀来タクト氏の使用音楽考がある。ゴールドスミスといえば、の賀来氏ですが、今回も、使用する単語が独特の難解さをもつ文体だが、選曲について、さすが、といった形でとまり、どこがどうであるからさすがなのかまで知りたかった感はある。

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なぜ英語なのかは、パンフでも語られない。『ヴァンパイア』

『ヴァンパイア』於川崎チネチッタ。
先に音楽のこと。サウンドトラック盤のジャケットは、先に見ていて、それは映画のヴィジュアルやイメージと異なり、その盤そのものの別のイメージの画像のようである。そこで、あたかも、「架空の既成曲」を使用する設定のように思えたのでした。
現実にも存在する事実の破片を取り入れつつ、暗喩どうしを現代舞踏のように組み合わせるかのような岩井俊二映画。そして、事実の破片は、時に、多くがタブーとしている事項であり、それゆえ、深く、多角的には語られてこなかったものであったりする。
どこまでが現実といえるか難しい「吸血鬼ごっこ」が何を意味するかは、ラストの、血の別方向へのやりとりで形を現すと思う。
ラストのラストの終り方。あの感じの終り方、以前にも何かで観た記憶があり、かつその時も快感を覚えたが、今回も、ラストが終わりではなく、さらなるラストがある安心感。『ワンス・アポン』の終り方ではないので、あしからず。
パンフは、600円。岩井俊二自身によるイントロダクション的「ブランクの正体」、樋口尚文氏による、現実と呼応させての評論(これは、おそらく従来の岩井ファン以外の、現実的な事象への興味が日常に多くある人に助けになると思う)、中森明夫氏の論は、ふと思う「映画論を行うときに、その映画のスタイルに文章も似せてしまう」ことに抗えていて面白い。つまり、より下世話な文体で岩井映画を論じている。これも、岩井映画に距離を置きたくなる人間向きで意味深い。
そしてインタビューは重複する回答など、通常であれば疑問が残らざるを得ないが、それは常識的解釈をしてしまうからか。
キャスト紹介は、主役8人。スタッフ紹介がないのは、主だった作業がすべて岩井本人だから。しかし、その助力となったスタッフはもちろんいるわけで、そのスタッフも可能であれば紹介していてほしかった。あくまで、ひとりで作りあげられはできないということで。

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2012年9月16日 (日)

リアルに見える人間ドラマのうそっぽさの多重構造『ライク・サムワン・イン・ラブ』

『ライク・サムワン・イン・ラブ』於横浜シネマ・ベティ。
またしても、音響の映画を見た、とは個人的印象。とにかく、ファーストシーンがすごい。ほとんど、据え置きのカメラにさまざまな構成の人物の複数の会話があり、そのサウンドミックスのバランス調整で、物語が進行する! ファーストシーンのインパクトの重要さは、『雪の断章』や『ブギーナイツ』以来、しみついているのですが、それの「音」版を見せられた思い。
映画自体のシーン数は、かなり絞られている。その中での登場人物をとりまく、表(行動)と裏(実際の心理や現実的状況)のずれの多くも、タクシーで聴く留守電であったり、部屋から聞こえる外の暴力の騒音であったり、とフレーム外のドラマがすさまじい。そして、カメラは基本的にはすましていて(ガラスに反射する二重写しなどはあるが)、サウンドの部分が、ただならないドラマを描写する。
さらに気になったのは、たっぷり時間をとって映し出されるそれぞれの登場人物の行動が、なんとなく宙に浮くというか、ウソっぽい感じを感じずにいられなかったということ。
それは、後にパンフ(700円)を読んで、俳優には、明日演じるシーンの台本を渡されるだけ、という状況(これも演出)で納得がいったが、この「一見、じっくり人間を見ます」的な表現の中で、「でも、現実とは違う違和感」のズレが生じてエキサイティングなのかな、と思う。特に元大学教師というタカシの、自分の部屋と称する部屋でのたたずまいは、やはりおかしい。それは、おかしくない日常のはずの部分に、自分の日常ではありえない「女子大生」を置くことによって生じる動揺なのだろうと解釈したりする。
で、パンフ。出展されたカンヌでの取材結果をふんだんに盛り込み、ピエール・リシアン、
ジャン=クロード・カリエールの批評を掲載。日本側は、川口敦子氏と佐々木敦氏の論、アクター・プロフィールでは奥野匡、高梨臨、加瀬亮各氏インタビュー付(いずれもカンヌ取材)、アッバス・キアロスタミ監督へのインタビュー、製作のユーロスペース代表の堀越謙三氏とシネモンドの土肥悦子氏のプロダクション・ノート。撮影の柳島克己、編集のバーマン・キアロスタミ、美術の磯見俊裕、録音の菊池信之各氏は詳細過去歴を明記。
考えうる掲載すべき事項は網羅の感はするが、あえて考えるとすれば、あまりにも「キアロスタミ論」により過ぎてはいないか、ということなのだが、唯一、キアロスタミ論をしていないのが佐々木敦氏の論で、これは『未知との遭遇』など、佐々木氏自身の持論に繋がっていくもののうちのひとつの原稿になっていると思われる。

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2012年9月15日 (土)

ロケーションの主役性に集約させる『ル・コルビュジエの家』

『ル・コルビュジエの家』於K’s Cinema。
建築メインの文化映画的なところにプラス演劇が加わる感じと思っていたので、物語とロケーションのバランスが同等的な割合なのが意外だった。物語の進行としては、典型的なパターンを踏襲しつつ、その中で異質なバランスになるのは、客観的に観て、実は主人公の方が「嫌なやつ」「困った隣人」なのじゃないか、とわかり始めること。どんな人間にもいろんな面があるぐらいで終らせてもいいことではあるが、そこを省略せずに描くことで、見る側は、どの人物に感情移入すべきか、いずれとも距離をもつことになり、そこでロケーションだけが生きてくるということになる。
アングル先にありき、なシーンの数々は、そのシーンが始まるや、これがどういう緊張感を表すシーンなのかが瞬時にわかるようになっている。そこに、さまざまなアーティストたちの助力が、パフェのトッピングのように付加される。
一曲一曲がポップなアンビエントとして完成しているサウンドトラックや、全体の、滑らかではない物語の流れは、プロの劇映画屋たちの手馴れた仕事ではないゆえに出てくるいびつな楽しさであろう。これこそ、映画屋以外が映画を撮ったときの偶然の面白さ。
ところで、この映画も、なんとパンフレットがある。解説以外には、建築家の伊東豊雄氏の、この映画の主役であるところのクルチェット邸についての解説、監督ガストン・ドゥプラットとマリアノ・コーン、主役のラファエル・スブレゲルブルトとダニエル・アラオスのかなりしっかりしたプロフィール、小柳帝氏の印象論、脚本のアンドレス・ドゥプラットのインタビュー、メキシコ在住フリーライター長屋美保氏の監督へのメール・インタビュー、大成建設ギャルリーの学芸員の林美佐さんのル・コルビュジエについての解説、と盛りだくさん、入手した資料は全て公開の勢い。
パンフ中の監督のインタビューによると、「映画」は重要視していないらしい。それは、彼らのプロフィールからもわかるし、だからこそ可能な映画でありましょう。
建築映画といえば、自分は『マイ・アーキテクト』しかパッと思い浮かびませんが、あれはあれで、建築家の映画だが、理解していなかった父を理解するために息子が辿る旅、という「建築の凄さ」を見せる作品では実は、ない、ということも思い出したりします。

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