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2012年9月17日 (月)

親しみのあるフランス映画ということ『最強のふたり』

『最強のふたり』於TOHOシネマズ六本木。
始まって2週経過しているので、少しは楽だろうと、昼前に調べると、渋谷・日比谷ともに、夜しか空席なく、もっとも上映回数の多い六本木へ向うことにする。川崎だと楽勝のようだったのだが、ここまで予想外の大ヒットは、他の観客の熱気も見てみたかったというのがあります。

すでに観た人のほとんどがアース・ウインド&ファイアーについて言及していて、その理由は、オープニング・タイトル時のシーンで判明するのだが(そして、それは物語全体の重要な場面を切り取って、前面にもってきたものだな、というのは誰しもが感じ取れEW&Fがふたりにとってのある種のキーワードなのだということがわかる)、それは、その「セプテンバー」がノリのいい名曲だ、という簡単な理由ではなかった。
エコーの係り具合が違うのである。はっきり、締め切ったクルマでカーステレオの音量を最大にして、クルマの空間一杯に、その音楽が轟いている感じをはっきりと出したエコーであり、単に挿入曲が流れている、というものではないのだ。
クラシックとファンクディスコというはっきりと判りやすい音楽ジャンルの分け方は、用意といえば容易だが、それだけ、今まで、この主人公ふたりが接点のない世界で生きてきたことを物語る。共に、互いの逆のジャンルは、聴く意識を積極的にもたない限り、接することはおそらくない。エイナウディのピアノ曲以外の流れる曲の数々は、それぞれ、そのシーンの主役に立つ側の人間の心の中で流れている曲ととれば自然だろう。そこでドリスが主人公のはずのシーンでクラシックが流れるときに、その効果が浮かび上がる。
この映画は、いわゆるフランス映画的な繊細さを継承してきた、シネアスト寄りの新しい波とは一線を画す方面から出てきたものだろう。そこには、多くの、映画ファン以外の人間に門戸を広げられた親しみやすさが第一にあるわけだが、そこで、それらの多くの作品の中で、この作品に印象を与えたのが、ルドウィゴ・エイナウディのピアノ音楽の多様な引用であった。
ルドウィゴ・エイナウディは、90年代後半から、2000年代の前半まで、かなり積極的にイタリアの新進監督の作品のサントラを手がけていた。そのペースと作風は、確かに「哀しみを帯びたマイケル・ナイマン」もしくは「メロディアスなトーマス・ニューマン」的な位置をイタリア映画音楽シーンの中で確立するのかと思われた。『最強のふたり』で引用される「そしてボルドーの森で」は、その後期に位置する作品で、フランスとイタリアの合作映画。すなわち、エイナウディが今後フランス映画にも進出するのか、と思わせた作品だったのだ。
その後、エイナウディ音楽が大きく撮り開けられたのは『ディス・イズ・イングランド』があるが、こちらにも新曲提供はない。今回の『最強のふたり』の、まるでオリジナル・スコアのように引用するにあたっては、本当は、新曲も監督たちは熱望したのではないだろうか、と勘ぐってしまう。
それに似た例で最近の作品で思い当たるのは、グリズリー・ベアの音楽を引用した『ブルー・バレンタイン』で当初新録音が入る予定がスケジュール調整があわず、既成曲の引用になった、とある。『アメリ』のヤン・ティルセンは、ジュネが聴いて気にいった既成曲はそのまま使用し、そこに追加する形を取っている。さらに思い当たるのは、『キル・ビル』で「新・仁義なき戦い」を使いたい、というタランティーノの要望に、布袋氏が新曲を録音しても良い、と逆オファーするも、「あの曲がいいんだ」という返答があった、というのを思い出す。

さて『最強のふたり』は、基本的には、一般観客のためのコメディでありながら、そのアプローチの品のよさが、他の作品とは違ってひとつ抜けたのだろう。あとはオマール・サイの魅力爆発の感がある。サイは監督のトレダノ&ナカシュ組の常連だったわけだが、この「常連俳優のブレイク」は監督のブレイクと関わっているように思える。まず、思い出されるのは、なんといってもベッソンとジャン・レノだが、そのまだ知名度は低いが、その俳優の味を十分に知っているのは、もちろん長年つきあってきていた監督なのであり、その監督がバシッとくるものに突き当たったときに、その俳優の輝きも、より目立ってくる、これは呼応するものなのだろう。
タブーについて描くことでの、観客たちのわだかまりの解消加減もあり、これは製作にゴーサインを出す側の勇気にひたすら拠るものだろう。ただし、この作品のヒットによって、そのタブーは、かなり取り除かれていく可能性も大きい。

そしてパンフレット600円。この映画は、解説なしでも消化できるので、購入率が心配だが、この作品で知りたいのは、日本では全く知られていない監督についての解説と、これまた日本でほとんど知られていない、アート系ではないフランス娯楽映画シーンでの、この作品の位置だろうか。
そのフランス映画シーンにおけるこの映画の位置は、あの「フランス映画どこへ行く」の林瑞絵氏が書いている。ただし、興味深いのは、氏がどちらかというと、批判の対象として書いていたと思われる側から出てきている作品であることで、かなり客観的にヒットを分析し、自分自身は距離を保った文面ととれた。特に、TVのコメディ・シーンの人気者だったというオマール・シーなどは、もっとも、そちら側の人材と思われるし。
監督については、インタビューがある。一問一答的な簡潔さが続くのは、全体を見渡そうとする質問の際に、あまりにも前知識がない日本の興行側にも理由はありましょう。
そして芝山幹郎氏は印象論で、参考資料ではない。
ラストになんと賀来タクト氏の使用音楽考がある。ゴールドスミスといえば、の賀来氏ですが、今回も、使用する単語が独特の難解さをもつ文体だが、選曲について、さすが、といった形でとまり、どこがどうであるからさすがなのかまで知りたかった感はある。

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