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2012年10月29日 (月)

すべてについてのバランス『KAMIKAZE TAXI』

KAMIKAZE TAXI』於早稲田松竹

この映画を傑作である理由は、さまざまな「映画に期待される要素」の配置というか、バランスにあるのだろう。すなわち、例えば、役者の演技であれば、自然な振る舞いと、突拍子もない予測のつかない振る舞い、セリフも、やや説明的なセリフと、物語上は不要だが、作品の性格付けとして必要なセリフ、ジャンルの構成要素としての、ラブストーリー、ヤクザもの、社会派な要素、そして映画のリズムとしての緩急、緊張と緩和、それらが、大きなストーリーとしては、昔の東映ものから、今ならタランティーノが好みそうな、ある種、単純明解な復讐譚。ただ、この復讐譚についても、どの人間が主軸に動いていくかが、途中でずれるわけである。ここの部分が、これはストーリーの組み立てが、だが、ふたつのミステリーの手法を混合させたアイデアである。

冒頭の進ませ具合によって、この映画が、単なる?バイオレンスものでないことを示唆する。それは、後半以降に効いてくるわけだが、伏線をどこで回収していくかのタイミングもクレバーである。

ただし、ここで原田監督のすごさは、これらは全て、役者の演技が文句全くない状況の中で交差させられる余裕のアイデアなのであって、ここに行き着くまでには、下地としての、このあたりのことは当然、みんな周知していることみたいなものがあるように思われる。

 編集がいかにも、おそらく意図して、昔の邦画のテンポをもっている。それは、フィルムを編集するから生れるタイミングのようなものである。カットの繋ぎ方は、スピーディにはせずに、そもそも細かいカットが繋がっていく緊迫感のシーンを決して長く作らないこともあるが、これは、この物語ゆえのものではあるのだろう。また、アクションのインパクトを編集で見せることはしない、そんなスタイルのようなものがこの映画にはあるように思える。原田映画が総じてそうなのかは、ちょっとわからないし、あらゆるジャンルを撮る監督のため、作品のジャンルによってのスタイルの使い分けももちろんあるかもしれない。

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2012年10月28日 (日)

ある意味「夢の中の映像」ブレッソン『白夜』

『白夜』於ユーロスペース

映画学生たちにとって、ロベール・ブレッソンというのは、いかにも、手法がある意味派手なため、わかりやすく?アート映画の入り口的に鑑賞するのに適しているなぁ、とは思っているが、それ以来のスクリーンで見るブレッソンで、かつ、中でもらしからぬ作品というので、いろいろな感情がまじりながらの感想。ひとことでいうならば「さあ、寝ないで見るぞ」

しかし、これは、もう確信犯じゃないかと途中で判明。この作品で言うと、どのシーンでも、ほぼBGMのように絶えず、等間隔で聞えてくる「誰かの足音」。常に聞えるコツコツコツ、と小さなSEは、もう「ほーら、あなたは眠くなる眠くなる」とまるで目前でつるしたコインをゆっくり動かされているかのよう。なので、映画は、まるで「夢の中の映像」となる・・・。

自分のブレッソン的アプローチの解釈は「あまりに、いろんな感情が瞬時に交錯し、それがあまりに膨大かつ精緻に変化するため、結果「何の表情もない」(とまっているかのように見える)ことになるのだろう、というもの。なので、自分の頭の中では、叫び苦しんでいる男と女がいる。なので、その一見の落ち着きには、ときどき吹き出してしまう。コメディ的な要素は十分にあると思う。

そして『白夜』は、まるでラジオ番組である。劇中4?音楽でドラマが遮断されるが、これはまるで、「さ、そんなどろどろアマアマなことばかり言ってないで、ここで一曲、音楽入れましょうか」といっているかのようなのである。この音楽の挿入は、なので独特かつ、これははっきり不器用であろうとは思う。ブレッソン映画に劇伴というか音楽は、なかなか似合わない。ちょっと流行に寄ろうとしたか、ラブストーリーだったからか、いつものブレッソンとはやはり違う。そこがかわいいといえばかわいい。

パンフレット。個人が頑張って配給しフィルム上映と聞いたので、もちろんパンフはあるだろう。800円。これが、なんといいますか、いい意味で、大学映画研究会の上映パンフのように気合の入った文章ばかり。文芸評論家・山城むつみ氏がドストエフスキー、ブレッソンともに詳しい立場からの原作との比較論、映画批評家・伊藤洋司氏のブレッソン映画の構造論(ブレッソン映画は、構造分析したいですよねー)、当時学生で撮影に立ち会ったベルトラン・ルノディノ氏の寄稿、フランス近代文学を中心に論じておられる福田桃子氏の、舞台となるセーヌ川沿いを視点とした映画論、映画批評家・葛生賢氏はブレッソン映画の中の女性論、そしてシナリオ採録。

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優しさに満ちた「淡々さ」『流 ながれ』『粥川風土記』

『流 ながれ』は、神奈川・中津川の環境保全につながる植物の保護と水生昆虫の発見に10年を費やす男2人を追ったドキュメント。ともに、普通のおじいちゃんが、ちょっと気になっていること、ぐらいの親しみやすさで問題と向き合うが、この記録が凄みを持つのは、その何気ない記録が10年以上(現在も続いている)の時間の重みをもっていること。何気なく振舞われるほど、その重みは伝わる。

 

そして凄かったのが『粥川風土記』で、全長162分の大作。じっくりとカメラを対象に構えて、ゆったりとした映画時間を過ごさせるものかも、と思ったが、そもそも文化映画の大家・姫田忠義氏による作品で、淡々と、描きたい事柄について、最小限の時間を使って解説していく感じなのだが、この、岐阜県の奥に位置する川沿いの山間の村、語るべき事柄が、あまりにも多いのだ。そのため、ひとりの人物をじっくり取材して、というわけでもなく、印象的に取材される人々の数も、膨大の人数。2時間越えの箇所で、ひとつのトピックについて、少し時間をとるが、そこ以外は、基本的に最小限の時間間隔だ。

久々に文化映画然とした作品を見た思い。思えば、この作りこそが、オーソドックスである。そして、一般映画館で文化映画はかかることがなかった時のテイストがまさにこれなのだが、このあまりにも優しさに満ちた無機質感。心地良くて、まさしく旅と映画、ともに好きならば、このタイプの作品には、多く触れるべきではないか、と思った。

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2012年10月21日 (日)

ポップかつ衝撃的な『いちご白書』

『いちご白書』於・三軒茶屋中央

まず。70年代あたまぐらいまでの映画で、このスタイルをとっているものが多い、主要クレジットを先にメインタイトルで出してしまう方法。この映画も、このスタイルなのだが、これ、他の作品も、ぜひ、実践してほしいことが。それは、・・・この映画、当時のロック/ポップ・シーンの重要なアーティストが提供した楽曲がかなり流れる、今で言う、PV的な作りもしている作品なのだが、流れる楽曲とアーティスト名が、メインタイトルで、つまり、流れる前に先にクレジットで提示されるのだ。どういった曲が、この作品で流れるのかが、先につかめるのだ。このスタイルは、そういえば、長年、定着してもいいものなのに、その後の作品で引き継がれているのは見たことがない。

 

さて、多分、テレビ放映などを含めても、見たのは初めてと思う。80年代などにリバイバルされるのも見たことがないし、古いフィルムが名画座で回っている、ということもなかった。かつ、学生の頃は、ポップ・ロックが流れる青春映画、というのは基本的に苦手だったということもある。

ものすごくポップな演出法で、当時のヤングも飽きさせない作品だったのだな、ということは納得できる。そういえば、この作品で多用される急激なズームインとズームアウト、時には、まるでおもちゃで子供が遊ぶかのようにしつこく多用しさえする。カットインも多い。これも、はしゃいでいるように多い。

 

映画は、終盤までは、いきいきとした若者ならではのポップな感覚で可愛らしいが、ラストの、最もスペクタクルな場面で、その後のパニック映画もかくやの、乾いた、そして、これも別の意味でしつこく表現するシーン。ラストの、このカラーの変化が、この映画の客観性を決定付ける。

 

自分は傍観者の態度であったはずが、次第に主役になっていく様は、『桐島』を思い出させたりもした。

 

なんとリバイバルにあたってのパンフが存在する。提供メダリオンメディア、配給アンプラクドの「語り継ぎたい映画シリーズ」のvol.1。『バードシット』『少年は虹を渡る』『ナッシュビル』のあのシリーズとは別。

無記名で「政治の季節、アメリカン・ニューシネマと学生運動」と称した原稿があるが、ニューシネマの、それも名作中の名作について言及するのみ。コロンビア大学紛争の実際の事件についての解説もほしかったりする。

http://democracynow.jp/video/20080425-1

http://en.wikipedia.org/wiki/Columbia_University_protests_of_1968

実際に起きたのは1968年の春で、1970年に映画化されているので、相当、記憶に新しいうちのメジャーでの映画化。かつ監督が28歳でポップなスタイル、と今でも、このスタイルはありそうだが、本作は、40年にリバイバルされる作品であるわけだ。

原作となったのは19歳時に体験したジェームズ・クーネンのノンフィクションで、クーネン自身、1979年のドキュメンタリー”Since of ‘45”に出ている。

 

そしてもうひとつの原稿。サウンドトラック(挿入曲)をメインにした解説だが、これが最も、映画全体の解説としても詳しい。オムニバス的な構成になっているサントラの作品では仕方がないのだが、シーン解説とそこでかかるBGMという形なので、全体像になりにくい。

そして書かれていたのは、川勝正幸氏なのだった。

 

ちなみに川勝さんの原稿ではなく、イントロの方で「完成度の高いサントラは、今も愛聴者が多い。」とあるが、92年に米ソニーで発売されたCDが廃盤になったのを最後に、長年再発されておらず、新たに入手するのは困難となって久しい。

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2012年10月20日 (土)

ハードな人生の「どの部分をじっくり描く」か『思秋期』

『思秋期』於・新宿武蔵野館3

こんなにハードな話だとは思っていなかったが、物語の雰囲気の推移が面白かった。物語自体はハードなのに、要所要所でコミカルな雰囲気をもったり、優しい時間が流れたりする。もちろん、ずっと真正面から緊張感たっぷりに描いた場合、かなり気力を使うことになるストーリーだから、転がりを見せる間の、転がっていない箇所の時間の描写をしっかり入れることは、物語を見せる側の姿勢としてあるべきだろうし、物語のどの部分を、より強調したいか、の表れでもある。

ぶっちゃけたたとえで言うと、「大仕事」をこなさなくてはいけなかった日の一日が終って、その後、晩飯のビールがうまかった、という一日があり、その一日を描く、というテーマがあった場合に「晩飯のビール」に重きを置く、ということだ。

この映画の場合は、社会問題を描くには漠然とさせているし、その後の展開のことからしても、描かれるひとつである「家庭内暴力」が主眼になっているわけでもなく、主人公の、自分でもコントロールが利かない衝動さ、についても「それゆえの哀しみ」のほうに主眼はある。

また、男と女が、互いを必要としていく、という物語でありながら、恋愛にも友人関係にも発展しない、という、その状況の描き方がリアル。主人公が「自分のことでていっぱいなんだ」旨のセリフを語るが、まさにその状況で、他者と関係をもつゆとりはない、という感じが、語らない登場人物たちの中でしっかり出ている。

あるシーンのあと(ということは、あのシーンがクライマックスだったのだ、ということが終ってから判る)ラストに向ってが、後日談的に急に展開させるが、あの展開も、「展開上必要だが、見せたくない部分は駆け足で行く」心配りのような気もする。

 

パンフはエスパース・サロウ発行700円。こちらも、監督・主演2人のインタビューでほぼ補完している。芝山幹郎氏のコラムは、これ、コラムというより、記名原稿での「あらすじ」でしょう。補完事項は一切ない。そして内田春菊さんの、これもコラムというより長いコメントいただきました、の感じ。

パンフで補完してほしかった点。この映画の元となっているコンシダイン監督の短編「DOG ALTOGETHER」とはどのような作品だったのか、とハンナが務めている「キリスト教のチャリティーショップ」について。これは、多分、説明なければ、どういった店舗なのか、わかりづらいと思う。

そして、デザインについて。この紙質で、赤地に黒字は非常に読みづらい。

そして、これだったら、英国俳優ファンの方コンシダインとミュランについて書いてもらってもよかったのではと思う。

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2012年10月14日 (日)

シャイなマッドマックス『キック・オーバー』

『キック・オーバー』於・川崎チネチッタ

あえて、混沌とさせたバックで展開するウエスタン、もしくはマッド・マックス、という構図。それも、画面自体は、真剣勝負のハード・アクションでありながら、言い訳的なモノローグで若干コメディを装う、という、いかにも、な構成。しかし、この構成こそが、娯楽アクションに忘れてはならないサービス心というか、「こういう風に見てくださいよ」という、まるでバラエティ番組のテロップのような役割をしていて、ある種プロ根性を見せ付ける、という感じでもある。また、今、このタイプのヒーローは、ジェイソン・ステイサムがすでにひとつ前の世代、ぐらいの位置だろうから、いやいやオレオレという感じの主張が楽しい。

そして、問題のシーン含め、エンタテイナー魂炸裂の一編。物語の見取り図がわかれば、後は、本当にわかりやすく進んでいくわけですが、こういうストレートな物語展開も、もちろん正解のうちの一つです。それぞれのシーンも、ひょっとしたら、タランティーノ的に粘液質的にためて進めることもできるでしょうが、そういう趣味ではないわけで。基本は、シリアスすぎないようにバランス考えてのマッドマックスでしょうから。

しかし、これ、原題の”HOW I SPENT MY SUMMER VACATION”は、楽しいが、ひねりすぎなタイトルですねぇ。ところで音楽はアントニオ・ピント。なるほどなワイルドな雰囲気出してます。

東京のメイン館は新宿バルト9。パンフは製作なし。

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『私が、生きる肌』パンフ考

『私が、生きる肌』パンフレット700円。

この作品も、監督・キャストが相当詳細にインタビューに答えているため、それによって解説書的ニュアンスをカバーしている。特に、いつものインタビューの答えとして予想されそうなものと正反対の答えをして面白いのがエレナ・アナヤ。アルモドバルのインタビューは、優等生的答えになってしまうことが予想される質問をしている気がして、最近は、こういった「答え手の機嫌を伺う目的が主」のように見える問いには、疑問を呈しておく。アルモドバル自身によるプロダクション・ノートは、モトネタともいうべき作品を具体的に提示して語っているため、作品を立体的に見ることが出来る。

コラムは3方。映画評論家・川口敦子氏の監督論、と思いきや、ほぼ本作の作品論。表現が難解な箇所が多い。そして仏文学者・翻訳家の平岡敦氏の原作論。そして、これが最も、このパンフで意味がある、作品中の重要なモチーフとなるアーティスト、ルイーズ・ブルジョワについての解説が横浜美術館・主席学芸員の天野太郎氏によって。

ゴルチエについて、は、もう今さら、ないというのは余裕ですね。

 

パンフにおける「映画評論家」の原稿にいつも抵抗を覚え、その理由を自分でも探しているのですが、ちょっと書いていくと、多くが、ファンならざっくりとは知っているであろう知識を詳細に書いた、という「だけ」のものが多い気がする、というのがまずでしょうか。「監督論」なら、その当作以外、あまり知らない場合、参考になるかもしれないが、「作品論」の場合「見ればわかるだろ」の範囲を超えない場合がある。

はっきり気づいた(今回のパンフでも、ある)もうひとつが、「実は、こうなのです」と特記したように書いてある事柄が、実はプロダクション・ノートほか、コラム原稿以前の部分で書かれてあるため、ただ重複するだけでクドいだけ、になってしまっていること。今回の場合、どちらもが、依頼原稿だから、該当箇所を削除修正できないだろうが、逆に、日本側の原稿依頼の際に、まず「既に掲載することが決定している原稿」は書き手に示したほうがよいのではないだろうか(示していた上で、こうなっているのであれば、さらに考慮となりますが)

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2012年10月13日 (土)

深追いせずに突き放すように見えつつも、な『メゾン ある娼館の記憶』。

『メゾン ある娼館の記憶』於横浜シネマ・ジャック

古きたたずまいを残してがんばっている映画館で、今はなき風俗を代表する興業についての物語を見る。

この映画は、アンバランスを見る映画である。一見、普通のフランス製エロ映画(もちろん、普通のエロ映画も、悪くないが)でありつつも、シネマ・ジャックで上映となると、そうではないことを期待させる。

女性たちは美しく、画面のほとんどは、本当に、絵画をみているようである。「
行為」は、その美しきものを妨げるものとして機能するかのように、最小限の描写しか示さない。

そして、まるで「観察映画」のように、女性たちにドラマを全く語らせずに、時はすぎていく。端々のセリフの中から、それぞれのキャラクターを見定めていくしかない。そして、そのキャラクターを形作るのが、個々の「お得意さん」との関係を語ることによって知れる、という構造が面白い。映画は、そういう態度であるから、つまりは、彼女たちはドラマを背負っているはずでありながら、少し追っては、深追いしない配慮のように、距離をとってしまうのだ。

序盤で、彼女が狂言回し的な存在になるのか、と思う新入りの少女がいるが、彼女でさえ、すぐに影を潜める。他の女性たちとバランスを保ってしまう。そして、終盤で、彼女たちが抱えていたドラマの深みにそれぞれ少し立ち入る描写が現れる。が、これらも、伏線はあるとはいえ、すごくひっそりと表される。

思うに、2時間近く(映画全編は125)、日常の彼女たちを目にすることにより、観客に芽生える親近感に、物語のウエイトはよりかかる。全然、映画自体の構造は一見違うが、ヴィンセント・ギャロの『ブラウン・バニー』も、そんな感じだったな、と思う。それがいいのか悪いのかは判らない。ただ、その現象にゆだねるというのは、一種の方法であろうとは思う。

音楽についても、ちょっと他にないトリックを施している。女性たちが、まるでレコードでBGMとして聴いているかのように、ロック(60年代あたりのものと思う。タイトルすぐ思い出せず)が流れる。劇中のソース音楽のように見える工夫として、カットが変わることによって、そのロックの音量も変わるし、寸断されたりもする。が、1899,1900年にロックなど、もちろん存在しないのだ。

ラストで、現代が映される。現代の娼婦たちと思しき女性たちのいでたちがある。このカットがあることにより、そして、劇中でかかっていたロックが再度使用されて映画が終ることで、例えば、この「現代の娼婦たち」が思い浮かべた、寓話的な1900年、と解釈できなくもない、と思ったりする。

配給アット・エンタテインメント。パンフは、どうも製作されておらず。(ロードショー館は6月2日ヒューマントラストシネマ渋谷)

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2012年10月 7日 (日)

ある意味「アクション映画」を撮りたいダルデンヌ兄弟『少年と自転車』『ある子供』

『少年と自転車』『ある子供』於・キネカ大森

思えば、多分『息子のまなざし』以来、ダルデンヌ兄弟の映画を見ていなかった(というか、今年に入るまで、2,3年、映画をほとんど見ない年が続いていた)ので、久々のダルデンヌだが、以前の頃は、映画は浴びるように見つつも、それ以外の思考はあまりなかったかもしれないような感じがあって、ダルデンヌ側は変わらぬとも、見る自分のほうは、相当、変わっただろうな、と予想はしていたのですが。

ダルデンヌ作品で、不思議に思っていたことがあって、どうして彼らは「少年少女ばかりを主人公にするのだろうか」そして「評価が高くとも、日本で公開されない監督が多い中で、ダルデンヌ作品は、どうして、日本で受け入れられるのだろう(失礼ながら、例えば近年のウディ・アレン映画のようにヒットするから、という理由ではないと思われる)」という点だ。

その答えがともに、自分の中では確立した。まず、前者だが、一見、まず撮りたいドラマありき、に見えるダルデンヌ作品だが、その前にまず「映画を撮りたい」衝動が、彼らには、あるのである。そして、彼らは「自然なアクション(それもできれば衝動的で、熱情的な)」が撮りたいのだ。その際に、「衝動的なオーバーアクション」が日常でもっとも許されるのは、自分をコントロールができない少年少女であったり、若者であったりするのだ。ある意味、ダルデンヌ映画の登場人物たちは、熟考しない。していたとしても、そんなシーンは残さない。ダルデンヌ映画は、静かだが、長回しというものがほとんどない。その逆に、これぞオーバーアクションの衝動の時に、なるべく近づきながら、動きから離れないカメラワークは凄い。ということで、まずは「映画が撮りたい」のだ。

その理由は、後者にも繋がるのかもしれない。彼らの作品は、ドラマがことごとくシェイプアップされているため、いわば、無国籍的である。どんな土地でもありうるドラマ、のところまでそぎ落とされている。なので「自然な感情が生み出す人間のアクション」に集中することができるのだ。

 

ダルデンヌ映画は、誰が見ても難解ではない語り口をしている。ここで思うのは「カンヌ映画祭」の受賞経歴が、実際よりも、えいがに難解感を増やしているのではないか、ということだ。まあ、チェーン公開してビッグヒット、な作品ではもちろんないにしても、観客は当然増えているのであろうか。貧困層を描くことに意味がある、とし、テーマを貫いているが、その作品群が常に「ミニシアター」でかかるのは、違和感を若干感じたりもする。

 

キネカ大森、『少年と自転車』はパンフ売ってました。700円。ル・シネマ仕様。貧困層を描く映画がル・シネマで、とは。やはりカンヌでの監督インタビューがほぼ全てを物語、カンヌ作品は、まずこれがあるからいいですね。コラムは3つ。女優、原田美枝子さんの純粋な鑑賞後の論評。まさにル・シネマの客層に向けての、作品の方向性を形作るもので、重要でしょう。そして映画評論家の文章として中条省平氏の「親子映画」としての側面で見る監督論、ラストに少年犯罪を専門とする弁護士の石井小夜子さんの実際と照らし合わせながらの論考。

 

そして、公開当時のガーデンシネマのパンフはすでにないと見えて、『ある子供』は、プレスを400円で売っていた。おそらくパンフにも転用されたであろうと推して、見ていくと、こちらも、カンヌでの監督インタビュー、そして宮本みち子氏「若者が<社会的弱者に転落する>」から参考になる引用と、そのほかにも、参考となる文献を紹介している。この試みは、その後、作品を紹介してもらう諸氏に向けての発案としては、積極的なものだ。

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物語と人間関係が快感を誘う『私が、生きる肌』

『私が、生きる肌』於・三軒茶屋中央

同じトーンで語るものだから、一見、いずれもシリアスに見えるが、アルモドヴァルの映画は、マジな時と、お楽しみな時と、両方の場合に区分できると思う。シリアスに人間を語るのは『オール・アバウト・マイ・マザー』や『トーク・トゥ・ハー』であったりのときだが、『欲望の法則』『ボルベール』『抱擁のかけら』は、お楽しみ側。『抱擁のかけら』なんて、物語をもてあそぶ面白さだったと思っている。

そして、今回の『私が、生きる肌』は、もうここまで巨匠の域に達していればこそできる、究極のワルノリで、人間関係をもてあそぶ。すなわち、それぞれの関係がおよぼす心理効果をまるで快感として味あわせるのだ。

少しレトロ感漂うタイトルの出し方や、トータルとしての編集は絶妙ながら、シーン・チェンジごとでのタイミングの、ほんの少しの、滑らかではない移行。これは、タランティーノあたりも好んで使う、あえてB級っぽさを出すためのはずし技だろう。

イグレシアスの音楽は、後半になるにつれ、だんだん、まるでピアソラのタンゴのように聴こえてくる。バンドネオンを使っているわけではなく、あくまでストリングスなんだけれども。

『私が、生きる肌』の物語として、快感重視だな、と感じずにいられなかったのは、ベテラン・メイドと男たちとの関係だ。あの関係は、ドラマに直接影響は与えないと思うが、そういった設定を加えることで、登場人物たち同士の心理関係はもちろんさらに複雑になり、かつ、その上下的立場がコロコロと入れ替わる。その関係性が入れ替わる感じが、官能的というかセクシーというか。で、倒錯しまくるわけですが、倒錯による快感を疑似体験させようということなのでしょう。

そして、アルモドヴァルのお遊びのときにこそ、さらに炸裂するのが、色彩の遊びで、シリアスな会話がなされているはずなのに、そのシーンの彩りの華やかなことよ、という箇所が連発し、そのアンバランスさに笑わずにいられなくなる。ラストも、シリアスなはずなのに、笑わずにいられないシチュエーションの骨頂で、かつ、そこでバシッとナチュラルに終るのは心地良かった。

 

パンフは、ロードショー時に完売か、入手できず。

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2012年10月 6日 (土)

覚悟を決めるタイミング『ルート・アイリッシュ』

『ルート・アイリッシュ』於・三軒茶屋中央

物語がどのぐらい進んだ頃だろうか、「これは、フィルムノワールだな」と察知し、自分の中で見方を変えた。ケン・ローチ作品といえば、辛口の社会派寄りの人間ドラマのイメージがあり、今回もそのつもりで見始めたのだか、途中で、この物語はどう転がっていくのかを想像した場合、アラン・ドロンあたりが主演のフィルムノワール(具体的には『チェイサー』)であったり、『ドライヴ』であったり、に似た終着に行き着かざるを得なかったからだ。

そして、それは、ほぼ予想通り、ケン・ローチ映画とは思えないバイオレンスの展開となる。イラク戦争をドラマの発端にはしているが、つまるところは、企業の陰謀であって、黒幕というものも明確に存在する。そして、ケン・ローチらしからぬ展開を見せた今回のドラマは、まるで次に尾を引かせないように、幕を閉じる。

ドラマの性格を錯覚させてしまった要因の最大は音楽だと思っている。今回も、盟友ジョージ・フェントンが携わり、静かに美しいピアノソロが特に前半では流れていたかと思う。確かに、このドラマにおいては、主人公が狂気へと足を踏み入れる覚悟は、かなり後半にあるため、いわば登場人物たちも、まさかフィルムノワールにはなるまい、なりたくない、静かに、哀しみたい、と思っているからこそ、バイオレンスの表層は早くからは見せないのかもしれない。

ここで、ドラマの見せ方として興味深いのは、物語がどう転がるかの覚悟をどこにおくかで、結果同じ進行をしていても、ドラマの性格は大きく変えられるということだ。それこそ、『ローリング・サンダー』と構成的に、どう違うんだ的な心持にもなる。が、これはジョージ・フェントン音楽、にも、かなりの意味の大きさはある。例えば、そうですね、デスプラが音楽だったとしたら、フィルムノワールとしての入り口は、もう少し早く察知されたろう、とか。

 

ロングライド発行のパンフレットは600円。まず、2010年のカンヌでの記者会見でのローチ、脚本のポール・ラヴァーティ、主演のマーク・ウォーマックへの発言がかなり詳細に掲載されていて、これがかなりを語る。コラム原稿は2つで、まず柳下毅一郎氏がバイオレンスとしてではなく(初め、その切り口かと思ったら違う)、ローチのフィルモグラフィーを追っての「監督論」を正攻法的に記し、現地取材経験のあるジャーナリストの安田純平氏が民間軍事会社という「企業」のイラクでの実態を記している。映画を見るだけでは「ウソー」と思ってしまいがちな部分を、「それはただ私たちが知らないだけ」とばかりに解く、映画解説というより、DIG的なパンフの役割を果たす。

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2012年10月 5日 (金)

膨大な情報量とドラマ『ニッポンの嘘』

『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』於横浜ニューテアトル
ちょうど今、フィルムアート社も時代的に、こういう本出すのか、と思った『ソーシャル・ドキュメンタリー』を読んでいるのですが、この本で扱われる「ドキュメンタリー」とは、また性格を異にする、昔からのイメージに近い、オーソドックスな「ドキュメンタリー」の形を取っているのが『ニッポンの嘘』だ。こういったタイプの、題材が前面に出る作品の場合、どうしても注意を向けるのは、その作品が「一般映画館で上映される」ということだ。今回の場合だと、「映画」かどうかはともかく、すでに存在する「福島菊次郎ファン(もしくは、彼の存在を既に知っていて、注目している人、と言い換えてもいい)」がどうしても、観客のコアとなるわけで、そこから、どう広がるか、というのが見せる側の見せ方の腕のみせどころなわけだが、かなり真っ向からだ。

いわゆるブレない活動を貫いてきた一人の人間を追うことによって、「彼がこだわった事柄」「彼が見つめ続けた人々」に少しずつ視点をずらして、一人の人間のドラマというよりも、かなり広いスケールの歴史大作の感じさえする思考を見る側は与えられ、かつ、一人の男の家族、彼を慕った女性のドラマなど、が、まるでオムニバス・ドラマのように交錯する。もし、ハリウッドで映画化するなら、ぜひポール・トーマス・アンダーソンにお願いしたいぐらいに、多様な人間が、ひとりの写真家を巡って数珠のように連なるが、もちろん、それは現実を追うので、破綻しない。
「自分を撮る」ドキュメンタリーが、ジョナス・メカスや鈴木志郎康の時代と現在とでは、意味合いが違ってきている、と『ソーシャル・ドキュメンタリー』の中で、幾度か考察されるが、自身の深い濃厚な時間の一端を「作品として切り取る」ことが可能になる勇気というか、そういった勇気が発生する、というそもそもの考え方の地盤がある、というのが現在だが、どうなんだろう、ひょっとして、あまりに作りこむフィクションの「面白さ」としての限界を、観客としてのメガな空間は感じ取り始めているのだろうか。

『ニッポンの嘘』という正統派ドキュメンタリーを見たいと思う自分は、ただ単に、おっさんになったら刺身がおいしく感じられるように、ドキュメンタリーを食すようになっただけなのか、それとも、フィクションのシラケ具合に嫌気がさしてきて、真っ向だが、ちゃんと描くもの、に期待するのか。

しかし『ニッポンの嘘』は、おそらく成功しているのだろう、上映機会は多いと思う。おそらく、この映画によって、初めて知った事象のある方は、多くいらっしゃるだろう。自分も、もちろん、かなりあった。

パンフレットは600円。映画中でも解説される事柄が、活字として整理されているのでありがたい。原稿はまず、田原総一朗氏が、元来から知っている福島像と今回初めて知ったことをシンクロさせて、映画が語っていない福島本人についての、いわばエピソード・ゼロ的な部分を補完する。
そして、長谷川三郎監督の、今回の製作意図、現在、最も身近な立場にいる人間とでも言える弟子、那須圭子氏の、いわば「福島さんと私」。
この映画には、記憶しておくべき様々な固有名詞が出現する。それらを記憶から反芻させるためにも、このパンフはありがたい。

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