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2012年10月 7日 (日)

ある意味「アクション映画」を撮りたいダルデンヌ兄弟『少年と自転車』『ある子供』

『少年と自転車』『ある子供』於・キネカ大森

思えば、多分『息子のまなざし』以来、ダルデンヌ兄弟の映画を見ていなかった(というか、今年に入るまで、2,3年、映画をほとんど見ない年が続いていた)ので、久々のダルデンヌだが、以前の頃は、映画は浴びるように見つつも、それ以外の思考はあまりなかったかもしれないような感じがあって、ダルデンヌ側は変わらぬとも、見る自分のほうは、相当、変わっただろうな、と予想はしていたのですが。

ダルデンヌ作品で、不思議に思っていたことがあって、どうして彼らは「少年少女ばかりを主人公にするのだろうか」そして「評価が高くとも、日本で公開されない監督が多い中で、ダルデンヌ作品は、どうして、日本で受け入れられるのだろう(失礼ながら、例えば近年のウディ・アレン映画のようにヒットするから、という理由ではないと思われる)」という点だ。

その答えがともに、自分の中では確立した。まず、前者だが、一見、まず撮りたいドラマありき、に見えるダルデンヌ作品だが、その前にまず「映画を撮りたい」衝動が、彼らには、あるのである。そして、彼らは「自然なアクション(それもできれば衝動的で、熱情的な)」が撮りたいのだ。その際に、「衝動的なオーバーアクション」が日常でもっとも許されるのは、自分をコントロールができない少年少女であったり、若者であったりするのだ。ある意味、ダルデンヌ映画の登場人物たちは、熟考しない。していたとしても、そんなシーンは残さない。ダルデンヌ映画は、静かだが、長回しというものがほとんどない。その逆に、これぞオーバーアクションの衝動の時に、なるべく近づきながら、動きから離れないカメラワークは凄い。ということで、まずは「映画が撮りたい」のだ。

その理由は、後者にも繋がるのかもしれない。彼らの作品は、ドラマがことごとくシェイプアップされているため、いわば、無国籍的である。どんな土地でもありうるドラマ、のところまでそぎ落とされている。なので「自然な感情が生み出す人間のアクション」に集中することができるのだ。

 

ダルデンヌ映画は、誰が見ても難解ではない語り口をしている。ここで思うのは「カンヌ映画祭」の受賞経歴が、実際よりも、えいがに難解感を増やしているのではないか、ということだ。まあ、チェーン公開してビッグヒット、な作品ではもちろんないにしても、観客は当然増えているのであろうか。貧困層を描くことに意味がある、とし、テーマを貫いているが、その作品群が常に「ミニシアター」でかかるのは、違和感を若干感じたりもする。

 

キネカ大森、『少年と自転車』はパンフ売ってました。700円。ル・シネマ仕様。貧困層を描く映画がル・シネマで、とは。やはりカンヌでの監督インタビューがほぼ全てを物語、カンヌ作品は、まずこれがあるからいいですね。コラムは3つ。女優、原田美枝子さんの純粋な鑑賞後の論評。まさにル・シネマの客層に向けての、作品の方向性を形作るもので、重要でしょう。そして映画評論家の文章として中条省平氏の「親子映画」としての側面で見る監督論、ラストに少年犯罪を専門とする弁護士の石井小夜子さんの実際と照らし合わせながらの論考。

 

そして、公開当時のガーデンシネマのパンフはすでにないと見えて、『ある子供』は、プレスを400円で売っていた。おそらくパンフにも転用されたであろうと推して、見ていくと、こちらも、カンヌでの監督インタビュー、そして宮本みち子氏「若者が<社会的弱者に転落する>」から参考になる引用と、そのほかにも、参考となる文献を紹介している。この試みは、その後、作品を紹介してもらう諸氏に向けての発案としては、積極的なものだ。

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