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2012年10月 5日 (金)

膨大な情報量とドラマ『ニッポンの嘘』

『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』於横浜ニューテアトル
ちょうど今、フィルムアート社も時代的に、こういう本出すのか、と思った『ソーシャル・ドキュメンタリー』を読んでいるのですが、この本で扱われる「ドキュメンタリー」とは、また性格を異にする、昔からのイメージに近い、オーソドックスな「ドキュメンタリー」の形を取っているのが『ニッポンの嘘』だ。こういったタイプの、題材が前面に出る作品の場合、どうしても注意を向けるのは、その作品が「一般映画館で上映される」ということだ。今回の場合だと、「映画」かどうかはともかく、すでに存在する「福島菊次郎ファン(もしくは、彼の存在を既に知っていて、注目している人、と言い換えてもいい)」がどうしても、観客のコアとなるわけで、そこから、どう広がるか、というのが見せる側の見せ方の腕のみせどころなわけだが、かなり真っ向からだ。

いわゆるブレない活動を貫いてきた一人の人間を追うことによって、「彼がこだわった事柄」「彼が見つめ続けた人々」に少しずつ視点をずらして、一人の人間のドラマというよりも、かなり広いスケールの歴史大作の感じさえする思考を見る側は与えられ、かつ、一人の男の家族、彼を慕った女性のドラマなど、が、まるでオムニバス・ドラマのように交錯する。もし、ハリウッドで映画化するなら、ぜひポール・トーマス・アンダーソンにお願いしたいぐらいに、多様な人間が、ひとりの写真家を巡って数珠のように連なるが、もちろん、それは現実を追うので、破綻しない。
「自分を撮る」ドキュメンタリーが、ジョナス・メカスや鈴木志郎康の時代と現在とでは、意味合いが違ってきている、と『ソーシャル・ドキュメンタリー』の中で、幾度か考察されるが、自身の深い濃厚な時間の一端を「作品として切り取る」ことが可能になる勇気というか、そういった勇気が発生する、というそもそもの考え方の地盤がある、というのが現在だが、どうなんだろう、ひょっとして、あまりに作りこむフィクションの「面白さ」としての限界を、観客としてのメガな空間は感じ取り始めているのだろうか。

『ニッポンの嘘』という正統派ドキュメンタリーを見たいと思う自分は、ただ単に、おっさんになったら刺身がおいしく感じられるように、ドキュメンタリーを食すようになっただけなのか、それとも、フィクションのシラケ具合に嫌気がさしてきて、真っ向だが、ちゃんと描くもの、に期待するのか。

しかし『ニッポンの嘘』は、おそらく成功しているのだろう、上映機会は多いと思う。おそらく、この映画によって、初めて知った事象のある方は、多くいらっしゃるだろう。自分も、もちろん、かなりあった。

パンフレットは600円。映画中でも解説される事柄が、活字として整理されているのでありがたい。原稿はまず、田原総一朗氏が、元来から知っている福島像と今回初めて知ったことをシンクロさせて、映画が語っていない福島本人についての、いわばエピソード・ゼロ的な部分を補完する。
そして、長谷川三郎監督の、今回の製作意図、現在、最も身近な立場にいる人間とでも言える弟子、那須圭子氏の、いわば「福島さんと私」。
この映画には、記憶しておくべき様々な固有名詞が出現する。それらを記憶から反芻させるためにも、このパンフはありがたい。

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