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2012年10月13日 (土)

深追いせずに突き放すように見えつつも、な『メゾン ある娼館の記憶』。

『メゾン ある娼館の記憶』於横浜シネマ・ジャック

古きたたずまいを残してがんばっている映画館で、今はなき風俗を代表する興業についての物語を見る。

この映画は、アンバランスを見る映画である。一見、普通のフランス製エロ映画(もちろん、普通のエロ映画も、悪くないが)でありつつも、シネマ・ジャックで上映となると、そうではないことを期待させる。

女性たちは美しく、画面のほとんどは、本当に、絵画をみているようである。「
行為」は、その美しきものを妨げるものとして機能するかのように、最小限の描写しか示さない。

そして、まるで「観察映画」のように、女性たちにドラマを全く語らせずに、時はすぎていく。端々のセリフの中から、それぞれのキャラクターを見定めていくしかない。そして、そのキャラクターを形作るのが、個々の「お得意さん」との関係を語ることによって知れる、という構造が面白い。映画は、そういう態度であるから、つまりは、彼女たちはドラマを背負っているはずでありながら、少し追っては、深追いしない配慮のように、距離をとってしまうのだ。

序盤で、彼女が狂言回し的な存在になるのか、と思う新入りの少女がいるが、彼女でさえ、すぐに影を潜める。他の女性たちとバランスを保ってしまう。そして、終盤で、彼女たちが抱えていたドラマの深みにそれぞれ少し立ち入る描写が現れる。が、これらも、伏線はあるとはいえ、すごくひっそりと表される。

思うに、2時間近く(映画全編は125)、日常の彼女たちを目にすることにより、観客に芽生える親近感に、物語のウエイトはよりかかる。全然、映画自体の構造は一見違うが、ヴィンセント・ギャロの『ブラウン・バニー』も、そんな感じだったな、と思う。それがいいのか悪いのかは判らない。ただ、その現象にゆだねるというのは、一種の方法であろうとは思う。

音楽についても、ちょっと他にないトリックを施している。女性たちが、まるでレコードでBGMとして聴いているかのように、ロック(60年代あたりのものと思う。タイトルすぐ思い出せず)が流れる。劇中のソース音楽のように見える工夫として、カットが変わることによって、そのロックの音量も変わるし、寸断されたりもする。が、1899,1900年にロックなど、もちろん存在しないのだ。

ラストで、現代が映される。現代の娼婦たちと思しき女性たちのいでたちがある。このカットがあることにより、そして、劇中でかかっていたロックが再度使用されて映画が終ることで、例えば、この「現代の娼婦たち」が思い浮かべた、寓話的な1900年、と解釈できなくもない、と思ったりする。

配給アット・エンタテインメント。パンフは、どうも製作されておらず。(ロードショー館は6月2日ヒューマントラストシネマ渋谷)

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