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2012年10月 7日 (日)

物語と人間関係が快感を誘う『私が、生きる肌』

『私が、生きる肌』於・三軒茶屋中央

同じトーンで語るものだから、一見、いずれもシリアスに見えるが、アルモドヴァルの映画は、マジな時と、お楽しみな時と、両方の場合に区分できると思う。シリアスに人間を語るのは『オール・アバウト・マイ・マザー』や『トーク・トゥ・ハー』であったりのときだが、『欲望の法則』『ボルベール』『抱擁のかけら』は、お楽しみ側。『抱擁のかけら』なんて、物語をもてあそぶ面白さだったと思っている。

そして、今回の『私が、生きる肌』は、もうここまで巨匠の域に達していればこそできる、究極のワルノリで、人間関係をもてあそぶ。すなわち、それぞれの関係がおよぼす心理効果をまるで快感として味あわせるのだ。

少しレトロ感漂うタイトルの出し方や、トータルとしての編集は絶妙ながら、シーン・チェンジごとでのタイミングの、ほんの少しの、滑らかではない移行。これは、タランティーノあたりも好んで使う、あえてB級っぽさを出すためのはずし技だろう。

イグレシアスの音楽は、後半になるにつれ、だんだん、まるでピアソラのタンゴのように聴こえてくる。バンドネオンを使っているわけではなく、あくまでストリングスなんだけれども。

『私が、生きる肌』の物語として、快感重視だな、と感じずにいられなかったのは、ベテラン・メイドと男たちとの関係だ。あの関係は、ドラマに直接影響は与えないと思うが、そういった設定を加えることで、登場人物たち同士の心理関係はもちろんさらに複雑になり、かつ、その上下的立場がコロコロと入れ替わる。その関係性が入れ替わる感じが、官能的というかセクシーというか。で、倒錯しまくるわけですが、倒錯による快感を疑似体験させようということなのでしょう。

そして、アルモドヴァルのお遊びのときにこそ、さらに炸裂するのが、色彩の遊びで、シリアスな会話がなされているはずなのに、そのシーンの彩りの華やかなことよ、という箇所が連発し、そのアンバランスさに笑わずにいられなくなる。ラストも、シリアスなはずなのに、笑わずにいられないシチュエーションの骨頂で、かつ、そこでバシッとナチュラルに終るのは心地良かった。

 

パンフは、ロードショー時に完売か、入手できず。

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