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2012年11月26日 (月)

ポーランド映画史に残る名作というより、とにかく男と女の甘いハードボイルド。『夜行列車』

『夜行列車』於・シアターイメージフォーラム

社会性を色濃く出すでも、文学性をあふれされるのでもない、娯楽色的な作品。何が娯楽かって、一にも二にも女優(ルツィナ・ヴィンニツカ)の美しさがまずあり、都会的な男と女の雰囲気の生み出す、心地良い危うさであり、そういうドラマです、ということを示唆するイージー的ジャズのスキャットであったり。大体、頭から、こんな感じのシーンに、甘く気だるげなジャズが流れていて、これは本来ならそぐわないから、これは、もう音楽が物語の案内役を観客に行っているわけである。

一応、映画はミステリーの形をとる。犯人?もつかまるが、そこに推理なとがあるわけではない。それよりも、列車は、終着駅があるわけで、この主人公ふたりは、ほぼ、駅につけば、その後はないだろうことは推察できるので、ムードを乱れさせる、犯人確保の一件に使われる時間は、映画内の時間にとっても、観客側としても、じらされるひとときではある。

女車掌と乗務員のやりとりや、もうひと組、美女と初老の男のカップルにしても、大人の男と女の関係、の娯楽人間ドラマとしての空間を作っている。

車窓ファンとしては、列車ものの中では、特筆したいほど外景が映し出されるのも心地良い。

ポーランド映画史に残る名作というのは別として、ここちよい甘くかつハードボイルドな雰囲気も楽しめる、男と女の鉄道映画です。

 

ところで、この映画のテーマといえるスキャット曲、アンジェイ・トゥシャスコフスキによる、アーティ・ショウ「ムーンレイ」カバー演奏(ヴォーカルはヴァンダ・ヴァルスカ嬢)は、単独サントラという形ではなく、過去、POLISH JAZZのコンピの中にどうも入っている模様。以前、この感じのCDはもっていたが、多分、手放している気がする。POLISH JAZZは映画音楽でもある可能性高いのに、結構、チェックが軽かったりしたんですよね、昔・・・・

 

パンフは「ポーランド映画祭2012」として発行。800円。ポーランドジャズ専門ライターの白尾嘉規氏の原稿もあり。

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語られてこなかった側から撮るということ『死刑弁護人』『長良川ド根性』

『死刑弁護人』『長良川ド根性』於・ポレポレ東中野

ともに、パンフレットも発売されていたので、その話もまとめて。東海テレビ放送が、放映後に劇場公開も行う、というシリーズの第3弾と4弾。パンフがある、というのは、劇場公開についての心構えがホンモノだと感じ取ることが出来る。

東海テレビでドキュメンタリーといえば、自分にとっては、しばらくの間、フジテレビでもネットされて日曜の早朝に見られた「ふるさと紀行」が印象深い。ものすごく地味な番組だったが、あの徹底した抑揚のない落ち着きは知性に満ちていた。

『長良川ド根性』のパンフで水道橋博士氏が、東海テレビのドキュメンタリーの、もともとの確かさについて書いている。そういうテレビ局なのだ、とわかる。

『死刑弁護人』『長良川ド根性』ともにいえることは、知られている事件・事象ではあるが、そちら側から描かれたことはなかった、という視点で撮られている長編であることだ。そして、製作意図としても、その描いた側を擁護するものではなく、ある事象がある時に、多面的視点で物事を推察する姿勢を忘れないでほしい、という視聴者への思いゆえの製作である、ということだ。

『死刑弁護人』は、コラムは、ドキュメント映画としての確かさを想田和弘監督が、そして社会ドキュメントとしての題材からの立場を青木理氏が解くという、これ以上ない執筆陣。『長良川ド根性』は、水道橋博士と、「森づくりフォーラム」代表理事の内山節氏が自然と人間の関係性の再度の提言とでもいうべき原稿を書いている。

思ったのは、この2作品とも、社会派ドキュメンタリーと取ると、近づきがたいかもしれないが、もし、これを題材に劇映画が作られたとしたら、きっと、さらに多くが興味深く感じるのかもしれない、ということで、そう思うと、それよりも、実際、実物側を見るほうが、衝撃の強さは増すのに違いない。

 

そして、この2本、ともに音楽プロデュース 岡田こずえ氏により、前者が村井秀清、後者が本多俊之各氏音楽担当という、豪華な音楽アプローチがされていることで、といっても、かなりシンプルなメロディでともにミニマル・ミュージック的作りのナンバーが、特に前者はかなり、音楽のタイミングに気を配って流されるものなのでありますが。大体、ドキュメンタリーにおける劇伴ほど難しいものはない。特に、肯定的な人間ドラマなものではなく、社会派で、コミカルなシーンはほぼない場合はかなり難しい。前者も、「疑惑のシーン」とでもいいたい部分がほとんどで、盛り上げる、とかそういう方向の音楽はありえない。後者の、人間くささは、若干讃えるためのメロディは許されるでありましょうが。前者、村井さんといえば「世界ふれあい街歩き」「プロフェッショナル仕事の流儀」と、ともにドキュメントといえども、肯定的に進行するのが可能な、というかその方向の番組であるため、スコアも万が一マックスに流しても違和感はない。音付けが難しそうなドキュメンタリーのサントラで、最近、記憶にあるのは菅野祐悟氏『MEGAQUAKE 巨大地震』で、ドラマチックな盛り上げが必ずの氏の音楽で、相当メロディの抑揚に気を配っている苦労が聞き取れた。

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2012年11月24日 (土)

あまりにもシュールな『夢を召しませ』と女性映画としての傑作『風船』の川島雄三2本

『夢を召しませ』『風船』於シネマヴェーラ渋谷

シネマヴェーラ渋谷も初ならば、多分、川島雄三作品も初。とにかく、我ながら、旧作の見ていなささは激しい。

昔の邦画のあまりにもの守備範囲の広さは、それだけ支持された娯楽芸術であったことを物語る。

さて、川島雄三監督2作品。現在のデジタル上映への移行は、この「フィルムではおそらくみるのはもう不可能」な旧作の多くに、フィルムではないが触れることが出来るようになったことである。

『夢を召しませ』これは16ミリでの上映。その名の通りの作品で、導入部の説明をテンポよく進めた後に「夢」の内容に移っていくのだが、これが、もう破綻しているといっても過言ではないアバンギャルド。この流れを、夢とはいえ、納得してついてくる観客は相当と思うが、考えると、当時からすると、松竹歌劇団のスターたちが、このシュールすぎる長いコントを演じているのだから、たまらないかもしれない。

すっと通り過ぎてしまいそうだが、考えると面白いのは、劇中のリアルな部分でも、男性役に女性を配していることである。夢の部分のあまりにものシュールさに、こちらの構造は普通に見えてくる。海外リメイクならば、ミシェル・ゴンドリーですね、これは。

そして『風船』。もうこれは明らかに「美しいヒロインたち」の映画で、境遇の全く違う立場の魅力的な女性4人が要で、4人が4人ともそれぞれファンがつきそうな愛らしいキャラクターである(

悲劇的な新珠三千代をもってさえも)。ヒロインをさまざまな境遇に追いやっているかの男性キャラクターも、もちろん、一見主人公のごとく存在するが、最終的には、映画は、女性たちの行き先に向けられる。女性映画らしい女性映画は、久々に見た気がする。

そして、この物語の魅力である女性たちの現実感は、それぞれの「部屋」がしっかりとドラマで描かれていることである。これは、当時の社会的概念の傾向もあるのかもしれないが、というより男の部屋は見ても興味はわくまいが、女性たちの部屋は、自身をみるぐらいの興味があるものである。

個人的には、京都に住む女性の「家」の構造が、亡き(母方の)祖母の家の構造に凄く似ていて、懐かしさを覚えざるを得なかった、というのもありました。

 

まさしく、今これから作られる作品よりも、過去の未見作品チェックで大変だ、というのを改めて、身にしみる思いです。

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2012年11月23日 (金)

主人公の心情の変化のドラマを楽しむロードムービー『激突!』、多分、スクリーンで初見。

『激突』於・神保町シアター

『激突』の注目すべき点は、この作品が、テレビ映画である、ということである。であるから、ほとんど劇伴っぽい劇伴もなく(多くのテレビ映画は、劇場用映画よりもさらに明解なスコアを使用している)、説明的なセリフもほとんどないということである。大体、主人公も、何が起こっているのかわからないだけに、説明しようもないわけであるが。

ものすごく単純なプロットに見えて、実は複雑なのは、主人公の感情の変化である。ただひたすらに恐怖しているわけではない。考えてみれば、良質?のホラーの共通点は、おそらく、状況と対峙する(ほとんどの場合)主人公の心情の微妙な変化がきっちりと描かれていることである。『激突』は、起承転結を転がしていくのは、主人公の感情である。これが変化しない限り、このプロットでは、物事は動かない。

同様の「なぜ、狙われるかわからない」状態のホラーやサスペンスは、多くあると思うが、『激突』のそれ以外と大きく違う点は、数分のクルマを下りる場合を除き、大半が、クルマを走らせていて、舞台は、常に動いているところにある、ということである。状態はしばらく変わらないが、クルマは動いているため、「舞台は変化している」という場合は、例えば『ニーチェの馬』であったり『シェイディー・グローブ』の長い車窓であったり、という場合にも通ずる、リズムとして訴えかけるものが、プロットの構成とは別の話で、あると思う。状況は変化しないシーンも、感覚は動的なものを捉えているダイナミズムとして感じているのである。

序盤は、カーラジオがある一定の役割を果たす。主人公の心情変化のきっかけとして、ラジオの番組が一役買う。この「目で見ている現場」と「耳から聞える世界」を別ものとして並行させて描くのは、そのものすごい好例として、行定勲監督の『世界の中心で、愛をさけぶ』が印象的で、過去に録音されたテープを聴きながら、思い出の地を訪れていく、という構造は、ふたつの物語を同時に進行させ、かつ、それが決して不自然なシチュエーションではないというものである。『激突』のカーラジオは、主人公が日常と接点をもっている心情の象徴としてあろうことは、ある地点から、ラジオは聴かれなくなることによって、明確になる。家族側を撮るショットがあり、一見、これは不要ではないか、声だけで十分ではないか、とも思うが、この作品が「スタイリッシュになりすぎないためのテレ」のようにも受け取れる。また、見ている側の閉塞感を一瞬、まぎらすものでもあるだろう。その後の行程を考えれば。「すぐ帰る」みたいなシチュエーションを入れることによって、「すぐには帰れない状態に、これから入る」ということを宣言しているのである(そうでなければ、このシーンは不要である)。

主人公は、ある一線を越えてしまう。越えたことによるたかぶりのまま映画は終る。謎は、解決されないままなので、おそらく、幾度となく、この物語の続編の構想は出ていることであろうと思う。だが、不条理物語の旗手リチャード・マシスンの世界では、不条理のままで閉じてこそ物語である。

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2012年11月18日 (日)

熟考を重ねた後の「ご当地映画」のひとつの真摯なる形『三池 終わらない炭鉱の物語』

『三池 終わらない炭鉱の物語』於横浜シネマ・ジャック

熊谷博子監督は、いわば記録映画界のヴェテランというか名匠であろう。ですが、これは自分における、ということですが、近年に至るまでは「記録映画」というのは、いわゆる「映画」とは別のポジションにあった。確かに、今でも、ある意味別のポジションと思うが、少なくとも「一般劇場」で鑑賞する作品、の認識はなかった。作品というよりも「映像資料」のイメージがあったというのが近いと思う。

この『三池 終わらない炭鉱の物語』も、奇は全くてらわない、真正面から、これはまさしく「しっかり記録したものを見せて・聞かせていく」映画である。多くの記録映画がそうであるように、この作品でも重要なのは、証言を聴くことができた当事者の方々のインタビューであり、撮影当時の、現地の風景である。それが重要である意味を説明するために、解説が加えられていく。

三池が九州であること以外は、ほとんど知識を持っていなかった私自身には、内容について、どうこう言うことは全く出来ない。貴重な記録に触れさせてもらえた、という以上のことは言えないし、それは決して客観的に言っているという感じではなくて、ここから始まるのだ、的なものである。

パンフレットがシグロ発行で、出ていた。なんとデザインに巨匠・小笠原正勝氏の名前も。700円。

 

そのパンフを読んで知ったことが以下から。この映画、自治体からのオファーで熊谷監督が携わったという素材で、なんと自身から動機が発生して、というものではない、ということが監督インタビューでわかる。もちろん、記録映画のプロ中のプロに依頼するわけだから、自治体の担当者側の熱意と膨大な資料の準備への心積もりなどもハンパではない。監督インタビューは、プロダクションノート的に、この作品が完成するまでのさまざまな壁が読み取れる。パンフは他に地元・大牟田市石炭産業科学館の中村珠美氏による、この映画が作られる、と言うことになった想い、そして見終わっての想い、同館の歴代館長のリレーエッセイ、同じ「炭鉱」の田川市で行われたアートプロジェクトの主宰者の川俣正氏、そして、まるでシナリオ採録のように、映画中に登場する人々の言葉を書き起こしたもの、用語集、そしてスタッフ(撮影・整音・ビデオエンジニア)が語る裏側と想い、そして、このパンフの序文は、岩波ホールの高野悦子支配人による、この作品の保証書のような原稿である。

この映画を鑑賞し、パンフを読めば、かなり、さまざまな視点で、三池についての事項を知ることが出来る。新書一冊読むぐらいの知識量はおそらくある。

 

ところで、三池炭鉱が、海の下を掘り進んだもの、というのは知らなかった。そんなことさえ知らなかったという感じです。

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2012年11月17日 (土)

『アルゴ』直後に、参考になる「リアルタイム時の緊迫実録もの」『特攻サンダーボルト作戦』。

『特攻サンダーボルト作戦』於・新橋文化劇場

オーソドックスな作りながら、反芻すると、メッセージをどこにおくか、ということにおいてストレートであり、ある意味、へんな技巧には走らない、そんな男気に満ちた映画である。

この映画を形成する時間の多くは「ハイジャックされてから、軍が動きはじめるまでの乗客の焦燥」と「打開策に困り果て、方向が見えぬまま首脳たちが議論を続けるさま」と「奇襲作戦決定から、実行までの地道な前準備」に印象は占められる。おそらく、この3つは「時間の経過が、当事者たちに、実際以上に長く思えている瞬間」である。つまり、あえて「動きが見えにくい箇所」に視点は当てられる。

そして、その「時間の経過」の表現の一つとしてであろう、極端に、音楽は流れない。音楽が流れると、若干でもそちらに気もとられるはずだから、あえて流さない。登場人物たちは、時間を気にしている。兵士たちは、ついに歌い出しさえしてしまう。

決して、映画がドキュメンタリー・タッチなのではない。しっかり、ドラマティックな仕上がりである。ただし、前述の視点が製作の中にある。

それは、事件に巻き込まれてしまった人間たちの心構えであったり、苦悩であったり、そこに興味は行っている。物語を進めるコマのはずなのに、ハイジャック犯たちと、作戦を指揮するブロンソンに当てられるタイミングは、まさしく最小限である。この映画は実録であり、世界中の人間が、事件の概要は知っているはずである。がゆえに「新聞記事やテレビ放映では取材されなかった人たちとその時間」だけに興味を集中させているのである。なので、現在、この映画を見る限りでは、重要なところだけがあっさり通過されてしまったかのような空虚感があるかもしれないが、当時は、それはみながすでに知っている事項なだけに違和感は生れなかっただろう。

 

以下、覚書。日本輸入(日本ヘラルド)のフィルムの原題は”OPERATION THUNDERBOLT”であったが、一般的にはインターナショナルな現在のタイトルは”RAID ON ENTEBBE”になっている。こちらのタイトルで過去FSMが『モリツリ』の終盤で収録と言う形で、サントラがCD化されている。

アメリカは、TVムービーとしての公開。もともとTVムービーで製作されたため、スタンダード・サイズなのでしょう。対する、もともと劇場映画として製作された『エンテベの勝利』は、公開当時に、アメリカでシングル盤が出ている。

 

アーヴィン・カーシュナーって、タッチとか、覚えがないのですが、考えたら、どうも重要な『アイズ』『サウスダコタの戦い』ともに、見ていないようなか気がする。

 

また、この映画、事件のカギとなった箇所は、いちいち忠実に描写しているので、事件資料を照らし合わせると、興味深いです。

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2012年11月14日 (水)

あまりに堅実な「実録もの」な『アルゴ』。

『アルゴ』於・丸の内ピカデリー

この映画の誠実な点は、実録モノとして、その作りに非常に、過去の良作に比較して忠実、ということである。あまりにも、省略すると、物語がわかりにくくなる事項ばかりだし、どの場面もすでに「見せ場」になりうる重要さを秘めている。がために、たっぷりと感情描写なんかしている時間はないし、それはすでにリアルさを失うことになりかねない。次に、この映画の見せ所は、では、どの事実とどの事実を、どの順番で、複数あるドラマの現場を対比して見せるか、ということになってくる。主には、脱出側、ハリウッド側、CIA、イラン側の4者をどう並行させるか。これがかなりめまぐるしいが、いずれもその存在が明確化されているので、秒単位で移り変わっても、混同することにはならない。

監督としてのベン・アフレックは、集団劇を好む、というか、脇役にほど、興味が湧く人なのだろうな、と思ったりする。シーンごとに、そこにしか登場しない役柄の人物たちへのアクセントも忘れないので、どんどん世界が広がって厚くなっていくのだ。これは、ジョージ・クルーニーにもいえる気はする。

特に「空港突破」という、決行する人間たちに特別スーパーアクションを求める場面ではない時間を一大イベント化させる数分はすさまじい。

 

ただし、感じたのは、やはり、小中学生は、この映画を見ても意味がわからないだろうな、と思うのは、その年齢で見た『戒厳令』や『大統領の陰謀』などが面白さを感じられなかった記憶があるからである。

 

作品そのものとは外れるが、考えたこと。この映画は「大スクリーンの必要性」はない。「大スクリーン」には今や、アトラクションとしての映像作品であったり、大勢が一度に同時に熱狂するためのアニメやアイドル映画こそのもののようでさえある。

大画面で見る「面白さ」とは何だろう、と思う。イケメンがかっこよく映されるのも「面白い」ことだろうし、CG満載の派手映像の楽しさも「面白い」ことだろう。そして、興味深いストーリーは、多分、そこにはない。

この面白さの意味合い分けは、いずれもまっとうなはずなので、むしろ「アルゴ」を大画面で見せることのほうが、説得力を持たないものだと思ってしまう。

 

パンフは700円。ぱっとみて思う。プレスみたいだ!

門間雄介氏による、いわばインタビュー原稿の変形的なものまで含めて、ほぼインタビューから探られている。数々の、事実で検証できるキーワードの分析は、解説の一環として、何稿にも分かれて触れられる。面白いのは「奪還映画」として、その系譜をたどる川本三郎氏のレビュー。アメリカ商業映画としての傾向がみえてくる。

 

ところで、ご指摘あったように、映画見る限りでは、普通に聴かせ場も多かったアレクサンドル・デスプラの音楽なのですが、なぜかパンフレットに、プロフィールはおろか、最後のページのクレジットにさえ、ない。

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『THE FUTURE』を『わたしたちの宣戦布告』と少し対比してみてしまいました。

THE FUTURE』試写(場所・シネマート六本木)にて。

途中から『わたしたちの宣戦布告』を思い出しながら見てました。類似点といえば、カップルのアイデンティティ探しが、子供およびネコを介在の理由にして進むことと、いずれも、一見タイムリミットがあるということである。結果の推移は違うが、結果的にはともにリミットは外されることになるわけですが。

ただし『THE FUTURE』の場合は、カレの存在は、自分(女性側)を確認するための対比するものとして存在している意味合いが強い気がする。この物語の作り手自身でもある主人公は、自分の心情の推移を『わたしたちの宣戦布告』は、映像のリズムで表すが、『THE FUTURE』は、いい意味で、理屈っぽいからか、言葉で表したい感が満々だ。中盤で物語がファンタジー化していく引き金となる行為の伏線のために、一見他愛のないオープニングの、カップルのリア充的ややすれ違いがあるし、映画のリズムそのものは、工夫を凝らすというよりも、まさしくマイペースのものである。

THE FUTURE』の幻想性は、かなりジョン・ブライオンの音楽によるところも大きい。ミニマル的でポップで、幼い感じ、そしてそれらを合わせつつ劇伴として存在する。この感じは、確かに『君とボクの虹色の世界』のマイケル・アンドリュースも作っているが。

(ところで、『君とボクの虹色の世界』邦題には、すごく抵抗がある。原題はME AND YOU…とつづくので、あくまで、まず「自分ありき」の、自意識過剰的なところがかわいらしくて大きなポイントであるはずなのに、君とボクにすることで、この映画の特性を消してしまっているのだ。

THE FUTURE』は、そして「思っていることをそのまま映像具現化してしまった映画」のようだな、とも。オープニングで「そう思わせといて、そうじゃない・・・・と思わせておいて」の、いたずらっ子が捕まえられないように逃げ回るかのようなはぐらかし作戦もかわいい。序盤の作りで、何が起こっても、ある程度は驚かない免疫を観客につかせてしまっているし、そうなると、現実と現実ではなくて「こうなったら面白いのに」の区別がどうでもよくなってくる。

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2012年11月10日 (土)

人生初岩波ホール。『菖蒲』

アンジェイ・ワイダの映画を今までに見た記憶がない。というか、もちろん娯楽的映画から鑑賞人生を始めた自分だが、おそらく「岩波ホール」の映画に抵抗があったのだと思う。多分、自分が始めてみた、岩波ホール上映作(だが、見ているのは、もちろん大阪の劇場。多分、大毎地下)。読み物然としたパンフレットも苦手ではあった。

がワイダの『菖蒲』を見る気分が自分にあり始めたのは、タルコフスキーもタル・ベーラも、寝ずに見ることが出来るようになっている今、なんとなく「ワイダをみてもよい年齢」みたいなものに、自分が自然に思えたのかな、と。そして『菖蒲』がどうも、政治的映画ではないらしい、というところもあったかもしれない。

クリスティナ・ヤンダのモノローグ・シーンの固定カメラでの長回し、と、それに対比するかのように、手法として目立つ方法はとらない「ドラマ演出」部分、そして「演出」とモキュメンタリー的に溶け込むメイキング的シーン。死についての意識が常に言及され続け、しかし、意外なところに、それは訪れる。緑を基調とする、政治映画とはおそらく意識が真逆かもしれない美しい画像。そして、これは現代ならではの反映と思う、ミニマル的音楽。

その苦手だったパンフによると、音楽のパヴェウ・ミキェティンはナイマンやペンデレツキに師事し、『エッセンシャル・キリング』の音楽も担当しているとのこと。今後、映画でも名前をみる機会が多そうな気もする。

フィルモグラフィー見ると『白樺の林』や『愛の記録』など、決して政治映画ではない文学的な作品もワイダは作っている。なので、やはり見なかったのは、なんとなくの岩波ホール・アレルギーであろうと思う。

『菖蒲』のような映画の特性は、重いがシンプルなメッセージを、噛んで含めるかのように、ゆっくりと描いていることだ。ドラマティックな躍動は、おさえられている。というか、既に起こった衝動の、その後の思考を描いている映画である。それだけに、難解といえば難解だ。だが、難解映画すきにとっては、当然のような映画の終結でもあった。

 

パンフは700円。ジャーナリストの伊高浩昭氏が、政治映画印象の切り口からのワイダ論から入る文章、東京外国語大学の非常勤講師久山宏一氏の原作(イヴァシュキェヴィチ)論、アンジェイ・ワイダ、クリスティナ・ヤンダが書くこの映画について、日本大学藝術学部教授の古賀太氏とホスピタリティ☆プラネット代表の藤原瑠美氏の印象論。ワイダの総論が少ない気がしたが、ワイダをずっと見続けてきている岩波ホールからすれば、もう、皆さんごぞんじでしょうから、割愛しても問題ないのだろう(決して皮肉ではありません)。

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2012年11月 5日 (月)

長回しツンデレ効果・苦痛を覚えさせる中の快感表現『ヴェルクマイスター・ハーモニー』『ニーチェの馬』

『ニーチェの馬』『ヴェルクマイスター・ハーモニー』於・吉祥寺バウスシアター

 

タル・ベーラ3作をほぼ立て続けに見終え、感じたのは、確かに、作品を重ねるにつれ、語り口はシンプルになっていったということだ。『ヴェルクマイスター・ハーモニー』は、共通の長回しが炸裂だが、後の2本に比べて、その1カットの中で行われる事件・動きがあまりにもダイナミックかつドラマティック。これは、真正面から見て、その感想なのであって、その後の2本も、もちろん1カットの中の人物のドラマティックなリアクションはあるだけうが、表に出ることが少なくなっていく。

長回しについて、他の監督とは違うタル・ベーラの息遣いは、なんとなくわかってきた。この人の長回しは、通常、ひとつのシーンを見続けることのひと呼吸は必ず少し過ぎるまで待つのである。で、その待っている間に、ドラマとは直接関連性はないシーン(『ヴェルクマイスター』だと、食堂の女性と警官?の長いキス)が続いたりするが、こうなれば、このシーンの中で、またひと呼吸すぎるまで待っているのである。

これは、おそらく、見る側のリズムを狂わせようとしているのだと思う。心地良いリズムでシーンが流れていくと、自然となって、悪く言えば、残らなくなる可能性がある。ずらして、見る側の生理に少し不快感を与えて、進むのだ。トータルとしての作家性を残すために。長回しによるツンデレ効果とでもいおうか。

このツンデレ効果は、『ニーチェの馬』ですさまじくエスカレートする。ストーリーも、シンプルすぎて、ほぼ、ない状態だが、どうも「無物語的日常の繰り返しを描く」ことが今回の考えるところの一つのようなので、延々と続く、物語のない状態は、それを感じ続けることによって生じる疑似体験を見る側が感じるものなのだ。一見、長さの中に、深いさまざまなメッセージが込められていると思いがちだが(感じるのは勝手だが)、どうも無メッセージ状態を長く見続ける体験のようなのである。その不快感を倍増させる要因として、主人公たちが身動きが取れない理由の一つでもある、常識ハズレの強風状況があるが、これは、いかんせんこの物語をスペクタクル化させてしまって、やや、単調からは遠ざけているかもしれない。

タルコフスキー以上に、よって、タル・ベーラの作品は、長さこそを体感しないとドラマが理解できないもなのだ、ということがわかる。『ニーチェの馬』に至っては、物語の理解はほぼ意味を成さず、長さとシンプルさの体感こそに意味がある。そういう意味では、あっという間の2時間数分なんていってはいけなくて、それなりの精神的苦痛を味わってナンボなのだ、ということで、ツンデレ効果アート映画ここにきわまれりである。

 

『ニーチェの馬』パンフレット ビターズエンド刊600

タル・ベーラへのフィルメックス映画祭時のインタビューで、この映画について、そしてハンガリー大使館のインタビューで、タル・ベーラ自身の現在の心境と今後の活動についての回答が掲載。

コラムは、柳下毅一郎氏の、これは印象論。そしてニーチェ研究本も出している早稲田大学教授の高橋順一氏による晩期ニーチェとこの映画の関連性。これは、この作品を多面的に見る参考になる。そして細野晴臣、五十嵐太郎、佐々木中、藤代冥砂各氏のコメント。

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2012年11月 3日 (土)

ロケーションがまず圧巻な、人間重視ミステリー『倫敦から来た男』。

『倫敦から来た男』於・吉祥寺バウスシアター

タル・ベーラの語り口で、ミステリーを映画化するという試み自体がまず、すごいのだけれど、その場合にありがちな、ミステリードラマとしての完結は、もうどこへやら見たいな広がりになることもなく、ミステリーとしての起承転結がしっかりと守られているところが、この作家が、あくまで語り口の人なのだ、と納得させる。

とにかく、主舞台となる、駅の信号所小屋ともいうべき、あのロケーションがものすごい。そこを視点として、カメラを移動させることだけで、物語を進めていってしまう。物語は、次々進んでいるが、それはセリフとして残ることがない。おそらく、こんな?映画だと知らなかったのであろう、大人めのカップルが、後に「さっぱりストーリーがわからなかった」とこぼしていた。ある意味、映像を注視していないと、物語はわからない映画にしてある。

男が、一線を越えた行動をした後の、動揺の様。すべてのシーンに、苛立ちの具現化とも思える、一定の間隔で放たれる雑音(ビリヤードの玉の音、肉を叩く包丁の音)でリズムが刻まれる。静かに進行する「動画」が、動画であることを意識させるためとも言えるその物音と、初めのシーンの、小屋からの眺景も、あえて障害物ごしに画面が移動していく。

この映像作家が、必ずしも、骨子となる物語に興味の全体はない、もしくは、登場する人物全てに興味がある証拠ともいえる描写は、多くのシーンが、物語の中心となる人物が、そのシーンから退場した後も、しばらくそのシーンを描き続けること。前の席に座っていた男の食べっぷりであったり、前述の肉屋の包丁さばきであったり、ボールをけり続ける少年であったり。

原作となっているジョルジュ・シムノンの小説自体が、事件を描き、ミステリーでありながらも、その興味は、事件に関わる人間ドラマである旨があるため、シムノンの哲学によるものかもしれない。イギリスから来た刑事の、最後のおとしどころも、事件そのものよりも人間、の姿勢が現れる。

そして、珍しいのが、見終わった後、不思議に違和感ないが、こんな映像のリズムでありながら、ハリウッド大作ばりに、しっかり、多くのシーンに劇伴が流れていることである。スコアにしては、かなりアンビエントによる、起伏を少なくしたサウンドだが、しっかりメロディも存在している。薄い膜のように張られる劇伴も存在しつつ、かなり意図されたSEも同時進行させながらなので、奇妙な味わいがある。

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