« 2012年11月 | トップページ | 2013年1月 »

2012年12月29日 (土)

物語の区切りのつけ方に、劇映画撮りとしての粋なプロさを感じる『おだやかな日常』

『おだやかな日常』於ユーロスペース 

映画を見る場合、まあ、厳密に言えば、全部がそれに当てはまるはずなわけだが、必ずしもそうではなくて、自分の場合、半分ぐらいが、「見る前の予想していた印象とは全く違う」ことで、かつそれはプラスの面でそうであることがある。

『おだやかな日常』は、まさに、これに当てはまる作品で、唯一の印象としての情報としてもっていたチラシのデザインや、そこでの選ばれている写真や、コピーなど(解説文は詳しく読んでいない。今回の場合、あえて、といったほうがいいだろう)からぼんやりと発するものは、こんなにも緊張が張り詰め続ける作品だとは思っていなかったということへとつながる。

岩井俊二関連の作品への登板で知られる角田真一による、手持ちカメラをふんだんに使っての、ドキュメント感をたっぷりと出し、張り詰めた空間が刻み込まれている。園子温が『希望の国』では、あえて使わなかった、それまでの園映画のタッチに似たものを『おだやかな日常』は扱うため、自然と、観る人間を選ぶアクの強さはあるだろうが、誰にどう見せるか、以前に、とにかく作らなければ、それも自分流に、というのが今回の作品のように思われる。

物語といっていいのか、プロットについては、とにかく女性たちの心理の推移がドラマの核であるから、女優の示す自然な反応は、間違いないのだろう。

あえて、劇映画作品として成立させるための粋さ、といえば、ふたりのパートナーである夫たちの使い分けだろう。ラストの夫のあの反応は、おそらく自然だが意外だった。そして、それは決してハッピーエンドでもなんでもないが、どこでドラマに一区切り打たせるかは個々しかない、というきっかけを作ったのは物語のプロだと思わせられる。

ほぼ新書サイズのパンフレット有。コラムは東京国立近代美術館フィルムセンター主幹の岡島尚志氏が、内田監督の前作などと比較して分析するが、引用されるのがジャン・ユスターシュ『ママと娼婦』である。

そして内田監督を発掘したとでもいうべきPFF、のディレクターの荒木啓子氏が内田監督のデビュー期の頃からを回想し、本作につなげていく。

杉野希妃を中心に論じるのは、映画評論家の宇田川幸洋氏。

震災についての詠歌ということで京都大学地域研究統合情報センター准教授の西芳実氏が、実際と照らし合わせて解説、

そして『エンディング・ノート』の砂田麻美監督の印象。

シンプルに作られた中で、さまざまな切り口が見えてくるこの作品の、確かに読み解く手引きにはしっかりなっている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年12月23日 (日)

感情を拒絶したドラマが生む複雑な感情の表情『マリア・ブラウンの結婚』

『マリア・ブラウンの結婚』於渋谷・シアター・イメージフォーラム

(特集上映「ファスビンダーと美しきヒロインたち」)

 

おそらく、フランス映画社配給のロードショー公開時の、それも試写会で見たと記憶しているのだが、なにせ、あの年頃ではわかるわけもなく、印象がない。

ファスビンダー作品は、そこへ持ってきて、もう見るからに、女性の濃い香りがスクリーンから沸きあがってきそうな勢いで、よほど体力を作って見に行かないと、きつそうだ、という思いがあり、同年代ジャーマン・ニューウェーヴでは、ついついヴェンダースの方になびいてしまっていたのであった。

『マリア・ブラウンの結婚』のマリアは、全く説明することも、狂乱的な演技を見せることもなく、淡々と、自己暗示にかかっていくかのような心理を見せる。冷ややかで、表情を見せないことが余計に、その心情の実際の動揺ぶりが見て取れる。また、そう、説明せずとも理解できる空間になっている、というところがすごい。

つまり、マリア以外は、こんな状況では、この言動をとるだろう、という動きを見せ、マリアだけが、少しずつ、常軌を逸した言動をする。そのひとシーンにおいては、それは爆弾的な衝撃は起こさないのだが、緊張を見るものにさらに高める効果を持つ。

ラストは、その緊張をヒッチコック的に具現化するけれども、まるで、「悲劇のヒロイン」を演じるのだ、と主人公が覚悟を序盤できめた後は、それが、本当はその最終目的だったはずのものまでも、障害と認識して、悲劇のヒロインであることを突っ走る。

人は、突然、負の衝撃を受けたときの忍耐力はなかなか計り知れないものがあるが、その逆で、正の衝撃(本来ならば、よいはずの事柄)に対しても、耐久力をもたない。また、あまりにも感情の激しい動きが頻度に現れざるを得なくなると、おそらく、それに耐えるために、感情の反応を拒否するようになる。

そこへもってきて、音楽も、普通、このシーンでこんな音楽、という感じでは流れないようなサウンドを、かなりボリューム絞り目で流したり、と、演出効果によっての感情の盛り上げには、意図してさからう。戦時の悲劇の客観的な表現方法なのであろうとは思う。

 

特集上映のパンフレットは発売されていない模様。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年12月22日 (土)

スウィートな劇伴などが、作品の暴力性を多重化する『八月の濡れた砂』

『八月の濡れた砂』

於・横浜シネマ・ジャック&ベティ(フィルム上映)

(特集<日活映画100年の青春>)

にっかつ青春ものというジャンルも、ほとんど観ていないので、この作品が、全体の中で、どういった位置を示すものなのかはわからない。石川セリのエンディングテーマはもちろん知っていたので、その歌のイメージから、濃厚な男女の性愛的なものかと想像していたりもした。

が、実際は、どちらかというとモダンであり、決して、深刻化しない。アマちゃんなテイストである。だが、息が詰まるほどハードな、ではない青春も切り取ってよいので、不良具合が、そして男女のイケナイ加減も、このぐらいのものもあるだろう。

ラスト・シークエンスは、主役男女4人の心情が行き詰まり、ある意味、爆発するが、その爆発具合も、決して衝撃的にしない。

そして、フランシス・レイおよびイタリアン60’sゴーゴー劇伴的スウィートなBGMの中でのそのドラマ。この作品のセールス・ポイントはなになのか、と考えて、村野武範のカッコよさと、テレサ野田のモダンなプロポーションか。

いまや、この偶発的に見える暴力的でロックな編集といい、ドラマの、というよりも、映画のタッチに感じる暴力性は、現在でも可能だと思うのだが、この感じを最近の作品では得られないのは、なぜなのだろう。たとえば、編集で考えると、ほぼ完璧に考えるとおり編集は可能で、誤差がないため、ある意味、整然としてしまうのでは。もちろん、計算した上での暴力性、というのは理論的にはあるとは思うのだが、園子温のフィルムの暴力性も、この映画の暴力性とは違う。ゆるさが許容されないといけない、とでもいったらよいだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年12月17日 (月)

自分としては、興味のない部分ばかりが描かれたかのような『砂漠でサーモン・フィッシング』。

『砂漠でサーモン・フィッシング』於・横浜ブルク13

ラッセ・ハルストレム監督作品の、いい意味で子供っぽいファンタジーさは大好きではあったのだが、どうなんだろう、自分の味覚が変わったのか、やはり、この映画に無理があるのか。「ええっ!?」という、取り残された気分に陥るこの映画、さまざまな要素を提示するだけした後、急いで回収して終わる感じ。もともとが処女作である作家による小説を基にしているが、小説というよりは、コミック的であるのは、デフォルメが不自然な形であらわれるからだろう。

考えるに、ひょっとしたら、この大掛かりなラブ・コメを演じる俳優は、ユアン・マクレガーやエミリー・ブラントではなく、もっとコメディのプロを配すべきだったのかもしれない。この作品のおちつかせどころを一番わかっていたのは、あまりにも似合わないオーバーアクションなコメディエンヌぶりを表現していたクリスティン・スコット・トーマスであり、おそらく、彼女的な解釈で、ほかのキャラクターも演じられるべきだったのだ。

というのも、俳優たちは、一見、初期森田芳光映画における、ワザと棒読み演技的な、この作品にあわせた演技で導入しているのだが、しだいにシリアスドラマ向けな演技になっていく。

プロジェクトの関係者たちの日常、というサイドストーリーの位置立てであれば、物語の多重性的に楽しめるのだが、なにぶん、本来、物語のそもそもの発端である、大掛かりなプロジェクトの進行具合がなおざりにされて、主演ふたりの恋愛にしぼられてしまう。

今回の物語の展開で、一番、すじを通したか、といい意味で取れるのは、プロジェクトの雇い主であるところの、イエメンの深き大富豪についての詳細が語られずに終わるということだ。

ダリオ・マリアネッリの音楽は、スウイートな夢物語のテイストを無難に表現。はしばしにフィリップ・サルドを思わせる展開も。

上記を思ったが、「どんな物語を描こうとも、基本的には、人間にしか興味はない、と格好つけるのもいいだろう。そして、それは「どんな物語を描いても、同じ物語になってしまう」ことであって、それがよいのか悪いのかは、ちょっとわからない。この映画を娯楽映画としてみた私の場合は、こんな映画を見るつもりで見たわけではない、という感想にいきついてしまうのだった。

パンフレット700円は、かなり小さいつくり。ペーパーバックを気取っているのでしょう。インタビューがメイン。コラムはモデルのKIKI氏の感想、原作の翻訳をした小竹由美子氏の原作との比較論、いわゆるトリビア的なものと、プロダクション・ノート。

気になったのは<本当にあった、ありえない国家プロジェクト>としての、風船爆弾については特にだが、今回の物語の「計画」とはまったく別の目的を持っているので、同種のものとして語るべきではない。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2012年12月16日 (日)

ボンド映画についての評論を具現化するかのような『007 スカイフォール』

『007 スカイフォール』於・新宿ピカデリー

総論として思えたのは、古き要素を、今の観客が好むマナーの上に並べた実験的作風とでもいえるでしょうか。ファンなら、冒頭から、これはツッコムところなのか、と疑ってしまう構成で始まるが、それもしっかり回収される。オーソドックスな、チェイスシーンはこうあるべき的お手本的展開から始まり、『殺しのドレス』であったり、『ハンニバル』『ダークナイト・ライジング』といった作品が想起されていき、ラストは、ケン・ローチ映画?的安らぎをしばらく覚える時間もある。

ボンド映画(もしくは、ヒット・シリーズの一編)に挑むにあたって、考えられるのは、「どんなシーンを見たいか」において「過去の名場面的なもの」「未来的なもの」「過去的なもの」という大きな3つの区切りということだろうか。 Qが活躍する司令室のシーンは、ちょっとレトロに想像された未来を感じてしまったが、スペクタクルにするには、こうするしか仕方がないのだろうか。

Qのプレゼントにおける、固定観念についての皮肉であったり、娯楽スペクタクルで想定されてきたものに関する何周もの突っ込みへの回答を考えた末の展開や反応は考えられる。そういいつつも、上海のシーンのように「ボンド映画には、華やかなシーンもなければ」といわんばかりのいかにもなシーンも、確信犯的に配置されたものであろう。

作り手からすれば、後々にファンから「俺はあのシーンが好きだ」「あの時のセリフがすき」みたいなポイントを多く散りばめたいと思うだろう。そういうシーンでありたいと思う、とばかりに展開した際には、ニヤリとしてしまう。

驚いたのは、終盤のひとくだりが、夜に大きく燃え盛る館の「炎」が、すべてのアクション、カットの照明として使用されるところ。このあたりは、アートでもあり娯楽映画でもあるコーエン兄弟作品を撮影してきたロジャー・ディーキンズならではのものでありましょうか。

アデルの主題歌は、イメージをこわすまいこわすまい、とソロリソロリと進んでいるかのようで、メロディも冒険せず、ボンド映画の主題歌はこうあるべき的歌い方で歌う。考えると、ボンドの主題歌は、シャーリー・バッシーとリタ・クーリッジ以外は、歌手たちが自分たちのいつもの持ち歌を歌うときよりも、ひたすら低音で歌い、高らかに舞い上がるような曲調には決してならないように作られてきている気がする。

パンフレット700円。ボンド映画ほど、作品数を重ねた大作ならではのことだろうと思うのだが、ページ数も充実していつつも、記名コラムは一切なし! そのかわり、かなり詳細なキャスト紹介とインタビュー掲載がある。そして、サム・メンデス作品であることが、かなり重要な要素として扱われていることだ。小道具、ロケ地、そして過去作との関連性、そして過去作のデータ、とデータ集的にはかなりの充実。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年12月 9日 (日)

ベルイマンとウディ・アレン『秋のソナタ』

『秋のソナタ』於ユーロスペース。

いかにも女優演技合戦的映画は、久々に見た気がする。感情を豊かに表現する芝居としての。

なぜ、今『秋のソナタ』なのか、は、2010年にデジタル・リマスターがなされたものの、日本の権利を買ってきた、ということのようで、また8月に”LIV & INGMAR”というドキュメンタリーがノルウェー国際映画祭で上映された、ということもある模様。

たしか、この作品は、初公開時に三越劇場か大毎地下のどちらかで見ている。そして、その頃は、アート系映画とはこういうものか、というマイナス・イメージの感想が自分の中ではあったと思うが、見直して、まあ、あの年齢ではそうだろう、とも思う。

が、思ったのは、思ったほど、作りにおいてトリッキーではない、ということだ。母と娘が、それまでの人生を語り合うわけだが、その随所に回想シーンは挿入され、映像としてのアクセントを入れることで、決して、ストイックな作りではない。思えば、92分の、ほとんど主役3人のセリフのやりとりだけで、約4~50年の壮絶な母と娘の生涯を描写するわけだから、その構造自体が十分ストイックなのだが。

ところで、ベルイマン映画も、バーグマン映画も、ほとんど見ていないため、それぞれのフィルモグラフィーからしての『秋のソナタ』の凄さがわからない。例えば、バーグマンがこの映画のような演技を見せることが驚きなのかもしれない。

ただ、この作品を見ていて、ほとんどウディ・アレンだとは思った。ある意味、『秋のソナタ』はコメディなのかもしれないし、ウディ・アレン映画は、多くは笑って見るけれども、決してコメディではないのかもしれない、なんて。

パンフレット500円。映画評論家・秦早穂子氏の「秋のソナタ」によせて、は81年当時の岩波ホールのパンフの転載。ベルイマンが、女性に興味を持つことについて。2012年の今、この映画を見ることの意味からは、ずれるので、距離をとって読みたい文章。

映画評論家・河原晶子氏はベルイマンについてで、秦さんの文章とかなり重なる。そして映画評論家・川本三郎氏は女優バーグマンの歴史を説く。そしてシナリオ採録。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年12月 2日 (日)

まるで「ドラマ・シリーズのパイロット版のような」『人生の特等席』

『人生の特等席』於・川崎チネチッタ

まず、邦題についてですが、これ、劇中のセリフからの引用。セリフの引用での邦題は、違和感無くて、いいですね。過去には『君のためなら千回でも』が、セリフからの邦題ですね。ところで『人生の特等席』という言葉は、娘が父に言う、否定的な皮肉の表現して使われている。が、その語句だけ取り出すと、肯定的に見えてしまうので、ここは、ちょっと要注意ではあるかもしれない。

そのセリフあたりまでのシーンは、起承転結でいえば、長すぎるとでもいいたい、想定の範囲内のセリフの応酬が続く。物語りも、ひたすらに、実は、急に転がる後半のための条件を丁寧に積み上げているかのようである。この物語で、クライマックスは、どういった場面に設定してくるのか、検討がつかなかったのだが、かなり強引なもっていき方で、「映画」ならではのファンタジーにしていく。そのファンタジーの直接の布石は、序盤で示されてはいるのだが、これに関しては、少しずつ、状況は見せていくべきではなかったかと思っている。映画のファンタジーではあるが、唐突すぎて、カタルシスが少ない。ひょっとして、そうなるのか的な、観客側にも、少し予測可能な遊びがあってよかったかと思う。

娘の描き方で、思うところ。娘の、仕事で抱える悩みは、すごく漠然としか提示されず「困っている、ということだけわかればよい」スタンスになっている。実際、このような業況を、特に映画が描く場合、小説などと違って、メインとおもわれるひとつの状況のみ明確に提示して、それ以外は、おおまかな状況しか描写しない。ここがどうも気になっていて、複数の悩みは、その悩みを、それぞれ、ちゃんと具体的に示すべきである。でないと、悩みの深刻さが親身をもってこないし、客観的に状況を示すことによって、例えば、今回の場合だと、娘が仕事において、どのぐらいの責任をもたされているか、という社会的位置も示すことや、娘の人間性なども明確になるだろう。

そう思ったのは、この物語、あくまで、この映画のプロットを「パイロット版」として、「元弁護士の女スカウト」のテレビシリーズを作れるんじゃないか、と思ったからだ。その生い立ちが、父親が名スカウトだったから、という歴史があり、イーストウッドは時々、ゲストで出る可能性もあるか、的な。見たいですねぇ。

そして、パンフ。イーストウッド、アダムス、ティンバーレイク、ロレンツ監督のインタビュー、とコラムは評論家・柴山幹郎氏の印象論と、崔洋一監督のインタビュー(監督の師弟関係について語っている)、そして、最も読み応えあるのは、ドジャースのスカウトの日本人、小島圭市氏の、この映画のような場合、どうあるか、という現場ならではの考察。終盤のあのケースはどうなるのかについては言及なし。ああいうのはありなのか、と個人的には考えますが。

そして、今回のパンフレットの最大の特徴は、イーストウッドの主演・監督作のフィルモグラフィーが一本一本カタログ的にきっちり紹介されていて、チェックリスト的に使えるレベルであるということ。

ところで、イーストウッド監督のチームは、ほとんどスタッフを変えることなく、ともにし仕事をしてきているので、スタッフ個人別で、フィルモグラフィーなどから、その人の特徴なりを推察するのは困難である。その中で、チーム外だった人が、音楽のマルコ・ベルトラミなため、彼の参加には、すごく興味は沸くはずなのだが、まあ、当然というか、パンフレットで、それについて触れられることはない。700円。

また、インタビューの内容についても、答えが想定される質問ばかりなのが気にはなるのだが、パンフレット、というあくまで、こっち側の印刷物の中の掲載なので、限界はあるのだろう。ましてやメジャー作品であるし。まじめなチームだし。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2012年12月 1日 (土)

クローネンバーグ・チームの、というよりもハンプトン脚本の映画『危険なメソッド』。

『危険なメソッド』於・横浜シネマ・ジャック&ベティ

クローネンバーグ監督作品だが、シャンテ+ル・シネマが東京公開館である理由は、よくわかりました。これは、どうも、クリストファー・ハンプトンの映画である色が最も濃いように思われる。ザビーナ・シュピールラインがユングの患者となるところから・・・という非常に正統派なドラマの切り取り方であり、かつ、相当の年月を経て、それぞれが濃い個性を持った人間たちが複数からむ物語であるから、それらを丁寧に辿るだけで、相当数の時間を費やさねばならない。

序盤の、ユングが妻に心理実験をしかけるシーンがあるが、ここでの「機器」を使ったある種のプレイ?が、この映画の最も、自分が今まで見てきたクローネンバーグ作品の系譜に準ずるシーンであるが、これ以降、ユングとフロイトの交流が密になる頃からの、「手紙」というツールでのやりとりが、この物語でのユニークな部分であろうとは思う。

そういえば、最近、現代の物語と言うものをどのぐらい観ているか、意識していないが、近年、携帯電話を使ってのやりとりがしげく出てくるかたちは、自然になったと思うが、そういえば、と思ったのが、今の物語の中に、それは小説なども含めて、「メール」や「ネット検索」はどのぐらい登場しているのだろうか。ツイッターやフェイスブックは、物語に自然に登場しないといけないほどの普及はまだしていないと思うが、今は、連絡手段は、「携帯電話」よりも「メール」のような気がするし、「メール」特有の、送り手が送る時間と、受け手が、その連絡を知る時間には、多かれ少なかれタイムラグが生じる、というユニークなコミュニケーションの現象は、現代の諸物語を生じさせる大切な意味を持っているように思われるのである。

さて、クローネンバーグ映画におけるエロで思ったのは、ごくわずか、直接的なシーンもあるが、説明的なものでしかない。とすれば、会話の中で、エロトークをエスカレートさせることに徹しておくだけの方が、より効果的な気がする。むしろエロかったのは、ヴァンサン・カッセルのシーンである。

スコアの余韻が、何かに似ているな、と思ったら、それはドルリューのものである。そこで、ハンプトン脚本の音楽は、どういったコンポーザーだったかを確認する。フェントン、ナイマン、カツマレク、グラス、デスプラ・・・ドルリューの名は無い。そして、ハンプトン脚本とクローネンバーグ・チームを結びつけたのは、製作のジェレミー・トーマスだろうけれど、そこからも、ヒントらしきものはない。

音色と言うか、感触は、ドルリューなどのフランス映画の感じがするが、完全にクローネンバーグ・チームが作り上げた作品で、音楽もショアである。流麗であろうとはしないショアと、ドルリューでは世界も違うので、どちらがとう、ということはないのですが。

東宝によるパンフは、ミニシアターの大きさではなく、普通のチェーン公開の形の大判。コラムを寄せているのは占星術研究家・鏡リュウジ、映画評論家・黒田邦雄、法政大学教授・鈴木晶の各氏と、監督インタビュー。これも、シャンテ、ル・シネマという公開館の客層にあわせての傾向と思えるが、いずれの原稿も題材についてのものばかりで、撮った作家や演じた俳優たちについての言及はほぼない。これならば、クローネンバーグ論はきついとしても、ハンプトン研究は読んでみたいし、キーラ・ナイトレイやマイケル・ファスビンダーについても触れないのは、勿体無かろうと思う。題材については、もちろん詳しい鈴木教授の解説があるのだから、題材以外をも観るべきと思うのだが・・全体の文章量は多いのに、結局は、映画を見ればわかる概要をなぞっての印象論にほとんどの行数を使っているのは、なかなか難しい表現になるが「残念」といわざるをえない。700円。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年11月 | トップページ | 2013年1月 »