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2012年12月16日 (日)

ボンド映画についての評論を具現化するかのような『007 スカイフォール』

『007 スカイフォール』於・新宿ピカデリー

総論として思えたのは、古き要素を、今の観客が好むマナーの上に並べた実験的作風とでもいえるでしょうか。ファンなら、冒頭から、これはツッコムところなのか、と疑ってしまう構成で始まるが、それもしっかり回収される。オーソドックスな、チェイスシーンはこうあるべき的お手本的展開から始まり、『殺しのドレス』であったり、『ハンニバル』『ダークナイト・ライジング』といった作品が想起されていき、ラストは、ケン・ローチ映画?的安らぎをしばらく覚える時間もある。

ボンド映画(もしくは、ヒット・シリーズの一編)に挑むにあたって、考えられるのは、「どんなシーンを見たいか」において「過去の名場面的なもの」「未来的なもの」「過去的なもの」という大きな3つの区切りということだろうか。 Qが活躍する司令室のシーンは、ちょっとレトロに想像された未来を感じてしまったが、スペクタクルにするには、こうするしか仕方がないのだろうか。

Qのプレゼントにおける、固定観念についての皮肉であったり、娯楽スペクタクルで想定されてきたものに関する何周もの突っ込みへの回答を考えた末の展開や反応は考えられる。そういいつつも、上海のシーンのように「ボンド映画には、華やかなシーンもなければ」といわんばかりのいかにもなシーンも、確信犯的に配置されたものであろう。

作り手からすれば、後々にファンから「俺はあのシーンが好きだ」「あの時のセリフがすき」みたいなポイントを多く散りばめたいと思うだろう。そういうシーンでありたいと思う、とばかりに展開した際には、ニヤリとしてしまう。

驚いたのは、終盤のひとくだりが、夜に大きく燃え盛る館の「炎」が、すべてのアクション、カットの照明として使用されるところ。このあたりは、アートでもあり娯楽映画でもあるコーエン兄弟作品を撮影してきたロジャー・ディーキンズならではのものでありましょうか。

アデルの主題歌は、イメージをこわすまいこわすまい、とソロリソロリと進んでいるかのようで、メロディも冒険せず、ボンド映画の主題歌はこうあるべき的歌い方で歌う。考えると、ボンドの主題歌は、シャーリー・バッシーとリタ・クーリッジ以外は、歌手たちが自分たちのいつもの持ち歌を歌うときよりも、ひたすら低音で歌い、高らかに舞い上がるような曲調には決してならないように作られてきている気がする。

パンフレット700円。ボンド映画ほど、作品数を重ねた大作ならではのことだろうと思うのだが、ページ数も充実していつつも、記名コラムは一切なし! そのかわり、かなり詳細なキャスト紹介とインタビュー掲載がある。そして、サム・メンデス作品であることが、かなり重要な要素として扱われていることだ。小道具、ロケ地、そして過去作との関連性、そして過去作のデータ、とデータ集的にはかなりの充実。

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