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2013年1月20日 (日)

役者たちが歌う中の「謎のままの歌」の存在『雪の断章 情熱』

『雪の断章 情熱』於ユーロスペース(「甦る相米慎二」特集上映にて)

念願の作品再見。ロードショーと毎日文化ホールで多分見ているので、最低でも、3度目のスクリーン鑑賞だが、20数年ぶりなのは確か。

冒頭の複数シーンワンカットは、記憶していたのと、少し違った。そして、これはやはり、予習なしで見れば、意味わからないだろうなぁ、すごいなぁ。

『ションベンライダー』と違い、明らかに大アイドル映画なので、ヒロインのアップでの長いカットも相当あり、遠景のワンシーンワンカットばかりなわけではない。とはいえ、やはり多いのだが。そのため、わかりにくいことはある。

オーバーアクションを通常の演技より要求することになり、そのきっかけとして、口ずさむ歌があり、それに呼応して、ドラマとは直接関係しない既成曲の引用がおびただしくある。

トークショーでの榎戸監督談では、使用されている「楽曲」で、出典不明の曲もあるという。『雪の断章』にも登場する。ひょっとして、ソフト化困難な要因のひとつはこの件じゃないか、と思う。「オレの創作」と監督が言っていればいいものを、そこをはぐらかしたまま、本人に確かめえない状態になってしまっているため、「他者に権利保有」あるかもしれない曲?に触れることができない・・・。

しかし、今では、監督がいきなりレコードをもってきていて、それをかけて同録したものを採用、なんてワザは、不可能ではないだろうが、巨匠中の巨匠でもないと無理だろうなぁ、とも思い、そういう意味でも、自由な時代ではあるな、と思う。

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2013年1月19日 (土)

表情には関心がない、というか優先性は低い『ションベンライダー』

『ションベンライダー』於ユーロスペース

(「甦る相米慎二」特集上映にて)

『ションベンライダー』を見たのは、大学での上映会のために、たしか2回見て以来、なので28年ぶり。28年前、すなわち大学2年(大阪だから、2回生といったかな)のときだろうか、見たときには、負の意味で、「こんな映画見たことない」と思った記憶がある。そして、一見、娯楽映画の顔をして、難解な映画だったため、うらみ?もあった。そのときは、相米慎二という名前の特性も知らず、先輩の雄弁で知ることとなった。多分「撮り方」というものを意識したのが、そのときではなかったか。それ以後、見ることができる機会はあったはずだが、積極的にこの作品に接触することはなかった。が、その後の相米作品は、その特性を知って、意識してみていたので、自分が、唯一、意識せずに見た経験がある相米映画がこの作品、ということで大切な一本ではあった。

この映画で特に色濃く出ているのは、複数の人間の大きなアクションを常にワンカットでおさめるために、遠景(当時、大学の仲間うちでは「遠まわし」といっていた記憶がある)が多いということだ。そして、それは、遠すぎて、役者の表情は、ほぼわからない。セリフも聞き取りにくい。そして、それは、その後の北野映画に通ずる「撮りたいシーンありき」の、シーンとシーンの間の成立ぐあいがかなり強引であること。この強引は、「不器用な映画」すきにとっては、逆にうまみに替わったりもする。とにかく、少年少女をはしゃがせて、そのいいわけは後で作る。そんな映画に見えるが、これもカネフスキーの状況に似て、「そういった映像が、映画として、成立しえる世界」そのものがすごい、と思えたりする。

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見なければいけないものを、カメラが追うということ『動くな、死ね、甦れ』

『動くな、死ね、甦れ』於ユーロスペース

蓮實重彦氏が絶賛し、カンヌ発で世界に広がったという意味で、見る前までは、狭い意味での美しさのイメージをもっていた作品である。だが、歴史を覆すほどの衝撃、といわれる作品の「美しさ」は、そもそも想像の範囲内なわけもなく、と思い、うちのめされることになる。

カネフスキーという人は、ストレートな人であり、目をそむけてはいけないものには、ちゃんと対峙する。その姿勢が「美しさ」ととられることもあるだろうし、この映画がモノクロで作られていることが、そもそも他人に見せる映像としての優しさじゃないか、とさえ思える。あまりにも、その異臭が漂ってきそうなぐらいに、実際には生々しいエピソードが、正面きって描かれる。もし、この映画がカラーで公開されたら、上映禁止になる国も多いんじゃないか、とさえ思える(端的なシーンの話ではなく)。

少年少女の物語でありながら、決して、少年少女のための物語ではなく、だが、ある意味、この映画を少年少女期に体験することも、悪くはないことかもしれないとも思うが、やはり、前準備は必要であろうとは思う。そこはカネフスキー自身とは大きく違うところである。

ところで、1989年に、このような、過去の貧困に根ざしたドラマを、決して美化せずに語る作品が、撮ることができる状況をうらやましくも思える。邦画も、昔のリアルタイムとして探せば、見つかるかもしれないが、今、カネフスキーのような映画を、物語としてはもっていても、実際問題として、形にできることはほぼ不可能なのではないか、とも思う。そして、その突破口的に、日本には、ドキュメンタリーがある気もする。

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2013年1月13日 (日)

撮影日データがある意味への回答となる『あるいは佐々木ユキ』

『あるいは佐々木ユキ』於・ポレポレ東中野

商業映画ではない映画を撮るとしたら、どんな映画を撮りたいか、の理想系的作品。考えうる映画としての実験はすべてしてみたい、物語に縛られたくない、見ている瞬間がちょっと恥ずかしくなるような、そんなつい、忘れてしまいそうな感覚を思い出してみたい、など。

登場する人物たちは、今の若者だけれども、この感覚は、でも80年代あたりの自主映画の感覚と変わらないものであり、決して、今の若者へのメッセージにはなりにくいもののような気がする。今の30代および50代は、社会へのメッセージなどを結構、はげしく問うていたが、40代は、めぐまれていた世代で、サブカルを通して物を言う、そうざっくりとした世代論は、確かにあたっているような気がして、その「めぐまれていた世代」の映画と思える。

そういえば、この映画は「ファンタジー」であるという。一見、日常を舞台に描き、設定の、劇映画らしい記述は省略した「設定」は、だが、これは「ファンタジー」だといわざるを得ないところは、悲しいところではあるのだろう。

その、この映画がファンタジーだと説く説得性は、ラストのクレジットの撮影日データ(201134日に撮影を終えている)が物語る。

パンフレットあり。福間健二監督は、49年生まれなので、40代でも50代でもなかった。バリバリ学生運動の世代の人である。しかし、そういう方向には行かずに、年齢から想起するよりも若い世代と感覚の近い映画監督といえるのか。パンフレットで読み応えは、やはり監督のインタビューで、大事な点をこのパンフが押さえているのは、インタビュアーが誰であるかを明記していること。立教大学映像身体額専攻博士課程の河野まりえ氏による。この場合、作りながら考えていく過程がわかる内容で、いわば、これがまたひとつの物語になっている。

コラムは詩人の井坂洋子氏。詩人でもある監督の作品を詩人が論じるので、そういう評論になっている。脚本家の港岳彦氏も、詩に詩で応えるような評論。

正直、「詩」に関しては、まだなかなか正面切って味わえていない感覚はある。これも、多分、自転車にふいにのれるようになるように、何か、きっかけひとつで、急に視界は開けるような気はするのだが、まだ無知ゆえの抵抗感覚がどうも自分にはある。

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2013年1月 5日 (土)

必見!必聴!な「音響 渡辺宙明」作品。『七人の刑事 終着駅の女』

『七人の刑事 終着駅の女』「特集上映 駅と映画」にて:於・ポレポレ東中野

多くの昔の映画のスタイルにのっとって、この作品も、はじめのタイトルで、スタッフ詳細を示すが、今回ほど、これがありがたかった事はない。クレジットに「音響 渡辺宙明」と出たのである。これは、ただ事ではないことがすぐにわかった。その前にも、いかにも、「本作は、劇伴的にSE使いますよ」を主張するがごとくに、タイトルが出た瞬間に、駅っぽいSEが、増幅されたのだ。

全体的に思うのは、これは、音数の多い、ジャック・ベッケルの『穴』のスタイル踏襲のように思える。それは、両作に通じる、足音への感覚の集中である。

本作の「臨時に設けられる捜査本部」ゆえに起こる意識の「意識したズレ」が何箇所か登場する。それと呼応して、これだけ、音にこだわっている作品ながら、刑事たちは、音を立てずにしぐさや目線で会話するのである。言葉で発せられている部分は、実はひょっとしたら重要ではない。そんな「息のあった大人の共同体」みたいな空気が面白い。

聞き込みの会話なども、拾われることはなく、そこで聴こえるのは、BGMとしての雑踏である。ラスト近くでは、なんと映し出されている登場人物とは関係しない、駅で聴こえる様々な会話がスケッチ的に流される。もう、ここの見せ方などは、もうヌーヴェルヴァーグとでもしかいいようがない。スタイリッシュさのアピールは、ラストのクローズアップ以外にも、定期的に現れる。それゆえ、この映画がある意味凄いのは、音だけ聴いた場合、ひょっとしたら、別の解釈ができてしまう作品になっているんじゃないか、とさえ思える、音と絵の意図したズレにある。

追記。事件のカギをにぎる「音」について、何度も言及はあるのだが、これについても、回想シーンなど入れるわけでもないため、その「音」自体は、実際に一度も登場しない、というのも、かなりの反骨振りである。

あまりにもないのもどうか、とばかりに出てくる「音楽」は、多分大きく2か所ある。女が戻る街の一角の店から洩れる音楽(ジャンル失念)と、ラスト近く、上野駅構内食堂で流れるラテンの、共にソース・ミュージック。

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