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2013年2月24日 (日)

語らない、という表現の圧倒。おそらく2013年個人的ベストに食い込む『マーサ、あるいはマーシー・メイ』

『マーサ、あるいはマーシー・メイ』於・シネマート新宿

 この物語を貫く、他の作品と違うのは、徹底した設定である。それは、一切、説明をしないということ。主人公マーサの、現在と思しき場面と、過去と思しき場面が交錯し、しかも、多くの、この時間軸交錯映画のテクニックとして存在する、場面場面を明確にするひとつのカギとなるもの(画像であったり、人物の年齢そのものであったり)があるものなのだが、そのはっきりとしたものがほとんどない。そして、現在と過去の舞台も酷似していて、かすかに服装の色と、主人公の呼び名で推測するしかない。表情は、それを読み解くことによって、観客はストーリーを推測する手がかりとするが、結局は、大きな物語のかけらだけを見せられただけかもしれない、とちょっと途方もないかも、と思ったりする。

 未来世紀ブラジルじゃないが、ここで想像したのは、実は現在と思しき場面こそが、空想の将来で、過去と思われるものが現在、という解釈もありえるな、という予測。

 音楽は、スコア的で旋律的なものは、終盤で、ピアノのメロディが流れるのみ。音響設計に注意を払われている映画で、ちょっとゴダール的なサウンドデザインという気もする。

  ラストは、それそのものはショッキングではなく、予測は始めからついていることなのだが、まさかここで終わるとは、というところで終わる。まるで未完のまま提出された作品のようである。が、この終わり方こそが、この絶望感をループさせてものすごい。映画の心理効果をわかって楽しめている研究家的なワザと思える。

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