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2013年2月25日 (月)

知られざる「ご当地映画」の傑作たちに思いをはせてしまう 『ひかりのおと』

『ひかりのおと』於・オーディトリウム渋谷 

映画としては、10年前ぐらいから脈々と続く、インディーズ邦画の主流のひとつである、無口で静かで、間で見せる作品である、と思うが、冒頭での音楽の入れ方で、「これは、いわゆる普通のお客さん(年に何本も見ない人々)への配慮があるな」とは感じる。決して、難解ではないが、日常からすれば立派にドラマとして存在しうるひとときを軸にして、そして男女のドラマとして、劇映画は成立している。

監督もキャストも地元の人々、ということで、であろう、風景に対してのよそよそしさ、逆に不自然な自然さ、がないのであろう、そういった「大都市から、撮影スタッフがやってきてスター俳優で撮る」ものとは明らかに違うフィットさがある。

音楽を職にしたい、という男が主人公でありながら、音に対しては、結構ストイックで、流れる曲調も、ジャズ寄りであるのは新鮮。若者用映画にずれてしまわない危険性への察知かな、とも少し思う。 

東京では、最近、上映が始まったところだが、地元では、一年以上前から上映は始まっている。パンフレットは2011年12月23日発行。自身トマト農家である山崎監督と、舞台となる牧場の撮影協力で映画に大きな役割を果たした三浦牧場の三浦氏の対談。詠歌と農業と地域のネットワークという、この映画ならではの話になっている。レビューとして、奈義町現代美術館副館長の岸本和明氏、『モバイルハウスのつくりかた』の本田孝義監督、映画評論家・上野昂志氏の各文。ラストに、東京・真庭・岡山のそれぞれのプロデューサー、桑原広考、加納一穂、岡本隆各氏のそれぞれのプロダクション・ノート的ひとこと。 

思ったのは、おそらく、かなりの数、存在する「ご当地映画」。『ひかりのおと』が最近までそうであったように、各地には、「東京では、まだ上映されていない長編映画」。各地の旅の目的のひとつに「ご当地映画を見る」というのも、今後、加えられていくのではないか。もしくは、それらの作品も、例えば現地でDVD化され、「おとりよせ映画」となるのであろうか。

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2013年2月24日 (日)

ドキュメンタリーの時代を始めさせた画期的傑作を見直す『阿賀に生きる』

『阿賀に生きる』於シネマ・ベティ

 この作品は、本来は、現状報告的意味合いを濃く持ったドキュメンタリーであるはずであった。だが、最終的に編集された素材は、まるで、そのドキュメンタリーのスピンオフ的カットを集めたもののようなものであり、そこが、この作品を始めとして、ドキュメンタリー映画、というものの存在目的のあらたなる物、として考え始められ、その考えは現在も主流になりつつある。

それは、撮影された素材が、想定外の部分の強烈な興味を及ぼすものである場合、路線変更も当然、ということである。

この映画には「あれ、今、撮ってたん?」という反応のカットが多くある。つまり、映されている人々は、おそらく、本編として使われるのであろう、公的な硬い余所行きの反応のシーンが、この前後にあり、その後の、いわば撮影途中の一服の時間のたわいない会話や表情を反応している時、なのである。

また、この映画の人間としての器の大きさは、最終的にこれらの、地元の人々の素の表情が発表されることを許可されている、ということで、多くの、被写体にこれからなる人々は、この映画をまず見てほしい、とでもいいたい大切さを秘めている。

『阿賀に生きる』以降、ドキュメンタリーは、事象よりも、人間そのものにフォーカスされる割合が高くなってきた。すると、素の人間は、ドラマの演じられた人間より面白いことがわかってくる。『阿賀に生きる』は、日本の映画ファンの中で、そのドラマ性を見る目を肥えさせ、ドラマを作る側にとって、さらに厳しさを要求される状況がより増した、という効果があるのではないだろうか。そして、ドキュメンタリーの台頭へももちろん。 

パンフは32ページ。ニュープリント上映に際しての、改めての編集。初公開当時からの、佐藤真監督の言葉、撮影の小林茂氏の、この20年間のこと。

山根貞男、高見優(劇伴作曲家の方と同名だが別人の方です)、大熊孝・田嶋いづみ、各氏が、当時と20年後をあわせて考察し、最首悟氏の92年当時の原稿も掲載。逆に新鮮なのは、唯一、公開当時リアルタイムでの経験者ではない、現在30歳の荻野亮氏の批評である。20年前に作られた記録映画を、若きいち批評家が、純粋に映画として、考察する。それは、まるでトリュフォーやゴダールを論じるかのように。その方法も、この映画の位置を確かめるために、大事であろうと思う。

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「見られる側」から見るということ。『世界にひとつのプレイブック』

「見られる側」から見るということ。『世界にひとつのプレイブック』

於・TOHOシネマズ川崎

先の『マーサあるいはマーシー・メイ』と共通項があるな、と思ったのは、いずれもが、「社会の危険人物的弱者」を見る目でせっしているような気がする立場の人間「がわ」から描いているドラマである、ということだ。この「がわ」から描いたことによって、見えてくるものを描いている。前者は、それをホラーやサスペンスと片付けてはいけないと思うし、後者は、コメディと片付けてはいけないものを持っている。

思ったのは、ハリウッド全盛期は、スターたちも果敢にこういった自身の人生の困難に立ち向っている人々をよく演じていて、だが、彼らが出ているという実績ゆえに、実は壮絶な物語であることはあまり知られずに「スター主演の名作」と覚えられている作品が多い、という事情である。それに照らし合わせれば、あきらかに、今、美男美女スターであるブラッドリー・クーパーとジェニファー・ローレンスがそういったキャラクターを演じるというのは、無理があるといえばあり(それはエリザベス・オルセンもしかり)、つまりは、往年のスター映画の風格がある、という話である。

 映画としてみるべき物語にするために、か重要な要素となるダンスのシーンは、スターたちの美しい容姿を楽しませるハリウッドらしい娯楽的な要素を提示し、それは、がなりたてているだけに見えて、声もセクシーなふたりをより楽しんでいただく見世物(聴かせ物)になっている。

 やはり、特筆は、この事象は、いつもの新聞ゴシック的に捉えれば、暴力ストーカーな元亭主の驚愕のその後であるところを、この「亭主」側から見た場合にいろんなものが見えてくる、ということだ。

 ここ最近、さまざまな事件の、「起こす側」の人間の過去が報道でも語られるようになっている。それは「起こす側」を糾弾するものではなくて、その人間をして「起こさせないようにはできなかったか」「起こした人間も、起こす前に、幸福を感じさせる方向に持っていけなかったか」ということを、宗教的なものではなくて、あくまで相互理解の方法を考える一手として歩み始めているのではないか、と解釈していて、この作品も、そのきっかけにできるはずでは、と思わずにいられない。

  パンフレットは、単館体裁の小型ではなく、チェーン公開体裁の大判。監督・主演のインタビューは、褒め殺し合戦。コラムは、町山智浩氏が、監督自身の状況とダブらせて書いているが、自分は、この状況は知らずに見て、楽しめるかどうかに徹したほうがよいと思う。デイヴィッド・O・ラッセルという監督に興味を持たせる意味はあるが、そんな興味はゴシップてきにじゃなくて、あくまで、良作を残しているからかどうかで判断したい。 

 そして、音楽ですが、以前にも書いた理由もあって、要するに、和訳を字幕字化するには、相当さまざまなハードルがあるらしく、多くの使用される名曲は、英語を知らないと、ダブルミーニング的なところはわからない。だからこそ、既成曲が使われるとき、その曲が選ばれる意味を説明する解説が、日本では必要になり、パンフでの音楽解説は意味を持つ。渡辺亨氏の解説は、読む価値がある。

 渡辺氏も言及しているとおり、おそらく、エンドクレジットでかかる位置から考えても、アラバマ・シェイクスのナンバーが、本作の主題歌として狙ったものだろうと思われる。が、どうなんだろう。自分は、他曲のインパクトに圧されて、この曲は、記憶にないのだ。やはり、この物語で、主題歌狙いだったら、メロディをたたせたバラードだろうと思うのは、往年のタッチを記憶しすぎか。書かれていない事項としては、オリジナル・スコアはダニー・エルフマンだが、はっきりいって、エルフマンらしくない。同じような曲調を過去作で思い出そうとしたが見つからない。それよりも、やはりラッセルの過去作で組んだカーター・バーウェルやジョン・ブライオンの音色そっくりなのだ。知らずに聴けば、絶対、どちらかだと思うと思う。そして、気になったのは、60年代後半から70年代前半の雰囲気に反応している、既成曲の選曲。スーパーバイザーは、スーザン・ジェイコブズ。『ショート・カッツ』『カンサス・シティ』といったあたりからキャリアのあるベテランで、本作の趣味に通じそうな最近作だとOUR IDIOT BROTHERJACK GOES BOATINGCATFISH『サンシャイン・クリーニング』『リトル・ミス・サンシャイン』などがあるが、要するに、日本未公開作品が多い。おそらく、アメリカの庶民の日常に根ざしたかすかなドラマのものが多く、日本で紹介されづらいということなのだろう。今回の作品も、これをチェーン公開するようにしたギャガもさすがにすごくて『最強のふたり』を経て、そのスジ的に進化しているのかな、とも思ったのではありますが。

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語らない、という表現の圧倒。おそらく2013年個人的ベストに食い込む『マーサ、あるいはマーシー・メイ』

『マーサ、あるいはマーシー・メイ』於・シネマート新宿

 この物語を貫く、他の作品と違うのは、徹底した設定である。それは、一切、説明をしないということ。主人公マーサの、現在と思しき場面と、過去と思しき場面が交錯し、しかも、多くの、この時間軸交錯映画のテクニックとして存在する、場面場面を明確にするひとつのカギとなるもの(画像であったり、人物の年齢そのものであったり)があるものなのだが、そのはっきりとしたものがほとんどない。そして、現在と過去の舞台も酷似していて、かすかに服装の色と、主人公の呼び名で推測するしかない。表情は、それを読み解くことによって、観客はストーリーを推測する手がかりとするが、結局は、大きな物語のかけらだけを見せられただけかもしれない、とちょっと途方もないかも、と思ったりする。

 未来世紀ブラジルじゃないが、ここで想像したのは、実は現在と思しき場面こそが、空想の将来で、過去と思われるものが現在、という解釈もありえるな、という予測。

 音楽は、スコア的で旋律的なものは、終盤で、ピアノのメロディが流れるのみ。音響設計に注意を払われている映画で、ちょっとゴダール的なサウンドデザインという気もする。

  ラストは、それそのものはショッキングではなく、予測は始めからついていることなのだが、まさかここで終わるとは、というところで終わる。まるで未完のまま提出された作品のようである。が、この終わり方こそが、この絶望感をループさせてものすごい。映画の心理効果をわかって楽しめている研究家的なワザと思える。

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2013年2月19日 (火)

やはり、なぜ今なのかがわからない『ヒンデンブルグ 第三帝国の陰謀』

『ヒンデンブルグ 第三帝国の陰謀』於・チネチッタ

  まさしくザ・娯楽映画といわんばかりの映画である。ある程度、予想はしていたものの、パニック映画というよりも、コンパクトにまとめたスパイ・サスペンスである。空に浮かんだ密室で、謎を解くミステリー風味をたっぷり出すので、途中部分は、まさに探偵映画の様相。本来、見せ場であるはずの爆発シーンは、CGを全開させるだけなので、特筆箇所はない。

 『アルゴ』とは逆で、史実として曲げられない惨事は確実なので、その、クライマックスのある点は、周知、という点が、こういった史実をモチーフにした映画にはあるので、史実をフックにしたフィクションというのは、ゲームとして面白いのかもしれない。

 娯楽映画として、割り切らないとやってられないのは、若い主人公ふたりの存在である。彼らの心理描写は、いくらなんでもリアルじゃなさすぎる。

  パンフレットは、シックなデザイン。明治大学教授・ドイツ文化史の瀬川裕司氏の、(あくまで最近の)映画におけるナチ論、「ツェッペリン飛行船」著者の柘植久慶氏が、ヒンデンブルグ号と飛行船について。そして作家・田中芳樹氏の、メカ寄りの印象論。

  日本では、史実の大事故をモチーフにした作品は、真正面から、その事件に取り組む姿勢以外は、やはり難しいのでしょうね。

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2013年2月16日 (土)

それまでの悲劇がラストでナンセンス喜劇に逆転する『競輪上人行状記』と『大当り百発百中』

『競輪上人行状記』と『大当り百発百中』於・新文芸坐

(特集・名優・小沢昭一さんを偲ぶ) 

小沢昭一特集の初日にふさわしい、この人ならではのキャラクターで楽しませる2ツノタイプの典型的好編。

『大当り百発百中』は、ヤクザにとらわれてから逃げるシチュエーションの執拗なまでのループが、短編を無理やり一時間越えまでもっていかせるやや単調な部分があるも、こまかくサービスカットを入れることで、見るものの「時間を楽しくつぶさせる」感がある。 

鬼気迫るのが『競輪上人行状記』で、プログラムピクチャーのひとつとして量産される中で、このような作品が出るのは、天才かつ職人の集団がなせるワザと思わざるを得ない。あまりにも波乱万丈で、かつおのおのに強烈に複雑でシリアスな状況を背負う登場人物たちを、リアルを逸脱しない範囲で、ドラマの説明もなされ、かつ、細かいユーモアもはさみつつスピーディに展開し、かつ、めまぐるしい展開の中にも、じっくり考えさせる時間もしっかり用意してある。物語のおとしどころはどうするのか、と思いきや、ラストに、すべてを集約させて、それまでの悲劇をも、ナンセンス喜劇への序章のごとく逆転させる。シリアスとコメディの間を行き来するドラマの緊張感を保たせる黛敏郎の音楽のアイデアもぬきんでている。こんな作品、今、作られていたら、まちがいなくベストテン上位だろう。タイトルの敷居のあまりにも低さが油断させるのか。

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2013年2月15日 (金)

よい意味での、オレ様映画の試行錯誤『アウトロー』

『アウトロー』於・新宿ピカデリー 

『アウトロー』が考えさせるのは、さまざまなスターたちの「オレ様映画」の試行錯誤についての話である。新しい才能に目を向けさせるために、自分が一肌脱ぐ的スターは、ジョニー・デップが以前には目立ったが、ブラッド・ピットも、考えるところがあるようになってきた。ディカプリオは、まだ、自分をどう輝かせてくれるか、の作り手を必死に探しているように見える。

彼らより、少し前からスターなのがトム・クルーズだ。トム・クルーズのオレ様映画にははっきりした特徴があって、それは、その作品のメインビジュアルが、必ずトム自身の顔のどアップであったということだ。『ミッション・インポッシブル』や『マイノリティ・レポート』の頃である。この頃は、どの映画もこの感じなので、いったい、どんな映画なのかさっぱりわからないオレ様ぶりであった。

方向性が変わったのは、助演的に出演するという珍しい参加ぶりをみせた『マグノリア』あたりからだ。今回の『アウトロー』のビジュアルは、以前のタイプに戻っている感じだが、作品自体は、監督の作家性とトム映画としてどう決着させるかの間で、迷いながら進んでいる。前半は、淡々と物語を語るために進めていくと、これが女弁護士を主役としたミステリーになっている。まるで、いかんいかんとばかり、不自然に出番を増やし、物語を強引に自分の方向に持っていくような後半が、その後に待っている。

ただ、気をつけるべきは、カーチェイスはあるが、基本的には、派手な演出は控えている。あまりに強いトム・クルーズはまあいるけれど、あくまで物語の主役は、ミステリーそのもののほうである。

ブライアン・シンガー一派といってもいいクリストファー・マッカリー監督作だけに、音楽面も、劇伴チックなスコア以外の、映画から逸脱しそうなポップスやロックなどは流さないので、音の面も、全くはしゃがない。この、全体を覆う落ち着いた雰囲気は、派手な大作を仕切る、そんな監督ではなく、ドラマ派の若手と仕事をしたい、というところがあるような気がし、そして、マッカリーとは相当、気の会うところがあったのであろう。

パンフには、トム・クルーズのインタビュー、小西未来氏、野島孝一氏のそれぞれのコラムがあるが、ともにトム・クルーズ論で、内容がダブる

クリストファー・マッカリーのインタビュー、文芸評論家の池上冬樹氏の原作解説。

そしてプロダクション・ノート。

まあ、公式資料中のインタビューは、ただのほめあいに終始してしまう危険性があり、このパンフ掲載のインタビューは、かなり、その典型例。あまりにメジャーな作品での解説は、確かに、突っ込んだ論は書きづらい。

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2013年2月14日 (木)

いきがるダメ男を照らす日差しを、柔らかくアルメンドロスが捉える『コックファイター』

『コックファイター』於イメージフォーラム 

70年代の映画の中で、何パーセントかを占めていた映画の、あの雰囲気。常に外からの日差しが差し込む空間の中で、男たちと、そんな男たちに似合うワイルドな女がたむろう画面。この感じが、まあ、74年製作の低予算映画だから『コックファイター』にはフルにある。ストーリーは、ある程度、ゲームのルール的に存在するが、見ているほうも、細かいことはどうでもよくて、強がっているが、あまりに情けない男たちのトホホ加減を見て楽しむ。

 何から何まで、このストーリーならば、こう展開してほしいどうりの展開で進み、ラストも、序盤で、これはこう終わるな、と誰もがわかる形で終わって、べつにシリーズものじゃないのに、水戸黄門のような、安心して見切れる作品。

 意外にも、闘鶏のシーンがかなりしっかりあり、ルールもそこそこわかるぐらいはしっかり映す。なので、ダラダラ男のダメダメ・ロードムーヴィだけではなく、闘鶏映画にもなっている。

 それにしても、この年代の、俳優たちのつらがまえの豪華さ。大作で脇を固めるシブいところを集めて、存在感で見せる感じ。アルメンドロスのカメラも、わざわざ呼んで、この映画か、的な失礼な贅沢さっぽいところが、そこがいいし、もう、なんか、柔らかい光を意識するカットとなった時に「わー、アルメンドロスの光や光や」と内心思ってしまって、自分の内心がうるさくて仕方がない。

 パンフレットは800円だが、超詳しい。プロダクション・ノート的解説を遠山純生氏が。

監督インタビューと撮影日誌。スタッフ・キャストのフィルモグラフィも細部にわたり、全76ページ。すべて遠山氏が執筆し、他者のコラムは一切なし、は潔くかっこいい。とにかく、資料性もコミで、相当濃い内容なので、もう他者のぬるいコラムはページのムダだといわんばかりだ。

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2013年2月11日 (月)

日常の中のドキドキした瞬間でさざなみを作る『あんにょんキムチ』『カレーライスの女たち』

『あんにょんキムチ』『カレーライスの女たち』

於オーディトリウム渋谷

 

松江哲明という監督は、今までにないタイプの監督である。何しろ、始めに、自身を見せている。これが飾りけなしなのか、イランの巧妙な監督たちのように演出が施されているのか、それは疑えなくもないといえばないが、もし、それほどまでに巧妙であれば、自身こそ、奥崎謙三的天性の役者ということになり、それは違うように思われるので、プライベートを見せるところから監督人生を始める、という、なかなか真似のできない荒業から入っているのかな、という気はする。

『あんにょんキムチ』は、なんといっても、あの短い時間の中に、自身のルーツの旅を違和感なく編集しきっているのがすごい。ラストっぽいラストにしっかり盛り上がっていって、決してヌーヴェルヴァーグのようなスカシ方じゃなくて、万人が見て面白い娯楽映画になっているのがすごい。

『カレーライスの女たち』は、20代の女性たちの私生活にお邪魔し、素に近い表情を撮影させるという、なんともうらやましすぎる作品。彼女たちを日常の中の小さな、そして親密なイベントに誘うものが「カレーライスを作ってほしい」というリクエストは秀逸。料理ほど、日常の中のイベントはない。そして、カレーライスほど、誰でも、一応、作れなくはなく、かつ、個性が出るメニューもない。そして、映画の中で、レシピがわかってしまうほどに詳細に手順が写された作品も自分には初めてだ。

料理といっても、ルーから作るわけじゃなくて、市販を溶かすだけ(やや、香辛料あらたに足した人もいましたが)なので、違いが見えるのは、むしろ、食材に何を選ぶか、だったが。

そして、しっかり、いずれも映しているが、「翌朝」の状況が肝だったりするわけで。

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激しくエロティックなラヴストーリーが、あまりにも静かな画面に隠される『アガタ』

『アガタ』於オーディトリウム渋谷

(特集:「演劇」と映画館の「親密さ」)

始め、もっと抽象的な、詩の朗読と動くイメージが延々続く、まさしくアーティスティックな「映画」なのだと思っていて、さあ、それでも、今日は、そういう感じのものも取り込む気満々ですから、さあ、どうぞ! と思っていたら、途中から、この、抽象的な、愛の詩と思えていたものが、どんどん具体的なストーリーをもってくる。そして、そのストーリーの主人公ではないか、と思われる男女も風景の中に溶け込むように映し出されて、そのたたずむ彼らをイメージだけさせて、詩と思わせた台本?で語られていく、かなりドロドロした愛憎劇は、観客さんたちにイメージしてもらいましょう、という、かなりハードな物語を、ボーッと見せるという離れ技。

ただし、睡魔を導かせるさざなみ他の効果音や、ブラームスのピアノ曲、そして朗読そのものは、意識して単調に語られるため、まず「おきていないといけない」という苦行が待っているわけではあるが。

この手法は、つまりは朗読劇を映画化したものであって、それで、今回の特集上映に組み込まれているのだろう。

パンフは販売されていました。これは、相当解説を必要とするフィルムだろうから、ありがたい。梅本洋一氏がまず、ドキュメンタリー「デュラス、映画を撮る」が、この作品のメイキングだったことに気づき、照らし合わせる。

ところで、この映画、なんと、日本初公開は2003年で、10年前なのか。ちょっと驚き。

仏文学者の田中倫郎氏はデュラス自身の姿と、本作の登場人物や背景との類似を考察する。

演出家・渡邊守章氏は、舞台版の『アガタ』から、構成について考える。

詩人・吉田加南子氏と、榎戸耕史氏の対談は、デュラス映画について、あれこれ。

御園生涼子氏は、デュラスのフィルモグラフィーを解析する文章。

そして、詳細なフィルモグラフィ自体があって、

筒井武文氏によるビュル・オジェ論。と、物凄いボリュームのパンフレット。もはや、ちょっとした新書。分厚くはない一見普通のパンフなので、油断します。

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ラストの、踊るクレジットたちは必見!『ムーンライズ・キングダム』

『ムーンライズ・キングダム』於シネマライズ 

ウェス・アンダーソン映画の特徴のひとつは、登場人物たちのあまりにも少年少女の「ごっこ」のように単純化されたものの中に見出せるおかしみであり、世界を箱庭化してしまうところにあったと思う。が、今回は、主人公たちを少年少女側に重きを置くことによって、今までのアンダーソンらしさは薄まり、自分のように、わかっちゃいるがやや拒否感のあった、アンチな側にも見やすい?が、それゆえ、ちょっと寂しさも関してしまうところはある。

そこで、対比する大人世界のほうだが、例えば、フランセス・マクドーマンドとブルース・ウィリスの会話のテンポなどは、いわば「普通」で、その部分だけ切り取れば、アンダーソン映画の一シーンとは判別しにくい。

エンドクレジットはすばらしい。このアイデアは、ありそうでなかった。エンドクレジットが、文字通り、踊っている! クレジットに文字の意味だけで向き合うと、見落としがちの部分で、自分も、しばらくたってから気がついた。ある意味、このエンドクレジットは、席が立てない。こんな、席の立たせなさせ方は初めてだ。

そして、クレジットでの、デスプラ氏の音楽と称して、さまざまな楽器のアンサンブルを解説していく箇所があるが、そこで「トライアングル」までも、主役とする箇所、に、あらたなアンダーソンらしさを感じ取る。 

パンフレット。キャスト、スタッフのプロフィールは詳細。プロダクション・ノートもかなり詳しいが、これは本国の宣伝用インタビュー集を翻訳したものであろう。コラムは、小柳帝氏が、アンダーソンとフランスの関係を説いているが、かなり強引。核心を語るものでは全くない。

ちなみに、デスプラのフィーチャーはもちろんなのだが、アンダーソン映画のサントラは、まず全体の音楽監督的な位置で、オリジナル部分も含んでのマーク・マザーズボーと、既成曲選曲としてのランドール・ポスターという忘れてはならないふたりがまずいて、そのふたりの指示のもと、オリジナル部分をデスプラが録音しているのである。

そして、もうあらすじを書いているだけの芝山幹郎氏の原稿がある。

ところで、やっぱり、ウエス・アンダーソンは、なぜ、評価されつづけるのかが、やはりわからない。スターたちに愛される理由も、わからない。他の監督には作れない映画だとは思うが、作れないんじゃなくて、作らない映画なんじゃないか、と思うのだ。

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2013年2月 9日 (土)

破滅というシチュエーションを遊ぶ『ブリーダー』

『ブリーダー』

於ユーロスペース

(トーキョー ノーザンライツ フェスティバル 2013)

 

これほどまでに、ひたすらに趣味性爆発な作品とは思っていず、不意打ち。まるで、ある程度、巨匠として認知されてから、趣味の小品をひとつ作ってみました、として存在する作品なら納得いくが、いきなり、これはなかなかの度胸。

もう、これは、破滅という状況を遊んでいる。レフンの『ドライヴ』に共通するバイオレンスに対するキメと、独特の恥ずかしいまでの少年っぽいロマンティックさ。それを今回は、80年代ポップス的(ニュー・ロマンティック?)音で彩る。

噴出す映画愛は、タランティーノと比較対照になるわけだけれども、レフンの映画愛は、やや不器用で、より王道で、タランティーノよりは明解だと思う。この作品でも、はしばしに現れる、度をすぎていることはわかってワルノリしていく加速度は、タランティーノの一揆吹き出しじゃなくて、ホースのいろんなところが少しずつ破けて、そこここから水が洩れている感じ。ダサさも、シャイさの裏返しだろうし。

あと、感じたのは、やはり、この監督、「ホラー以外のジャンルをホラーではお約束な手法で描く」のは、徹底すべきじゃないかな、と思いました。

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悲しい女性ドラマとして見ましたが。『チャイルドコール 呼声』

『チャイルドコール 呼声』於ユーロスペース

(トーキョー ノーザンライツ フェスティバル2013)

 

ほぼ全編ノウミ・ラパスの一人芝居作品。この、一人芝居視点ぶりは、あまりに過剰じゃないか、とみていて思うのだが、後から考えると、これはある意味フェアな手法ではあるし、そこから描くのが、このプロットだと、最もトリッキーではない方法なのだろうと思う。イメージとして新しいと感じたのは、要所要所に出てきてしまうという、謎の「湖」の存在。ベクトルは正反対なのだが、タルコフスキー『ノスタルジア』を思い出さずに入られなかったりして。

もちろん、配給宣伝は、この映画を理解しやすいカテゴリーとして、サイコスリラーと呼ぶのだろうけれど、不安定な精神状態に追い込まれてしまった女性の主観的ドラマ以外のものはもたないと思う。

この映画の監督の考える位置的なものが見えたのは、エンドクレジットで知るのだが、音楽がフェルナンド・ヴェラスケスなのである。ノルウェー映画に、わざわざスペインの職人を招聘して依頼する頭には、やはり『永遠の子どもたち』のインパクトがあろう、と思う。そう、みているうち、「これは現代版『チェンジリング』的なものか」という香りがしたのも、そのあたりに共通点はあるだろう。ネタバレになりかねない括りだが、これらは、特集的にまとめてみたら、見えてくる「恐ろしさ以外」のものがあるだろうと思えてくる。

サントラは現時点でリリースなし。カルテットかムービースコア・メディアに期待かな。

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2013年2月 2日 (土)

役者の存在そのものが物語の大半を説明する『反逆のメロディー』

『反逆のメロディー』

於神保町シアター(日活100年の青春)

 

プログラム・ピクチャーのアクションものの醍醐味は、よくよく冷静に考えると巨編としてしっかり撮るのも可能なほどの壮大なストーリーを、大胆な省略を重ねて、破綻すれすれ、もしくは破綻気味までシェイプアップすることにある。

本作の物語も、デ・パルマが撮ったら、4時間ぐらいにしそうな壮大さだが、まるで名場面だけをつなげたダイジェストのようにシェイプアップしてしまう。

本作で感じるのは、物語のいろんなものを省略して見せてしまうための技量としての、役者ごとの雰囲気の出し方だ。いわゆる「存在感」というやつでしょうか。

クールを装いつつも、あまりにも、感情がダサいまでにほとばしる原田芳雄であったり、棒読みすれすれのセリフが、だが、そこにどうしようもない色気が出る梶芽衣子であるとか、役者まかせな部分が、いい意味で多分にある。

ヤクザものの転機として存在する映画らしいこの作品の面白い点の一つに、玉木宏樹による音楽があり、ラストの爆発の殴り込みでのリアルな劇伴以外は、本来、こういったシーンでは流れなかったクロスオーヴァー・ジャズなのだ。ヤクザ映画から、若者向けアクション映画への移行の意志は固い。往年のヤクザ映画ファンなら「こんなもの、ヤクザ映画じゃない」と怒らせたい、その感じがある。

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