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2013年2月24日 (日)

「見られる側」から見るということ。『世界にひとつのプレイブック』

「見られる側」から見るということ。『世界にひとつのプレイブック』

於・TOHOシネマズ川崎

先の『マーサあるいはマーシー・メイ』と共通項があるな、と思ったのは、いずれもが、「社会の危険人物的弱者」を見る目でせっしているような気がする立場の人間「がわ」から描いているドラマである、ということだ。この「がわ」から描いたことによって、見えてくるものを描いている。前者は、それをホラーやサスペンスと片付けてはいけないと思うし、後者は、コメディと片付けてはいけないものを持っている。

思ったのは、ハリウッド全盛期は、スターたちも果敢にこういった自身の人生の困難に立ち向っている人々をよく演じていて、だが、彼らが出ているという実績ゆえに、実は壮絶な物語であることはあまり知られずに「スター主演の名作」と覚えられている作品が多い、という事情である。それに照らし合わせれば、あきらかに、今、美男美女スターであるブラッドリー・クーパーとジェニファー・ローレンスがそういったキャラクターを演じるというのは、無理があるといえばあり(それはエリザベス・オルセンもしかり)、つまりは、往年のスター映画の風格がある、という話である。

 映画としてみるべき物語にするために、か重要な要素となるダンスのシーンは、スターたちの美しい容姿を楽しませるハリウッドらしい娯楽的な要素を提示し、それは、がなりたてているだけに見えて、声もセクシーなふたりをより楽しんでいただく見世物(聴かせ物)になっている。

 やはり、特筆は、この事象は、いつもの新聞ゴシック的に捉えれば、暴力ストーカーな元亭主の驚愕のその後であるところを、この「亭主」側から見た場合にいろんなものが見えてくる、ということだ。

 ここ最近、さまざまな事件の、「起こす側」の人間の過去が報道でも語られるようになっている。それは「起こす側」を糾弾するものではなくて、その人間をして「起こさせないようにはできなかったか」「起こした人間も、起こす前に、幸福を感じさせる方向に持っていけなかったか」ということを、宗教的なものではなくて、あくまで相互理解の方法を考える一手として歩み始めているのではないか、と解釈していて、この作品も、そのきっかけにできるはずでは、と思わずにいられない。

  パンフレットは、単館体裁の小型ではなく、チェーン公開体裁の大判。監督・主演のインタビューは、褒め殺し合戦。コラムは、町山智浩氏が、監督自身の状況とダブらせて書いているが、自分は、この状況は知らずに見て、楽しめるかどうかに徹したほうがよいと思う。デイヴィッド・O・ラッセルという監督に興味を持たせる意味はあるが、そんな興味はゴシップてきにじゃなくて、あくまで、良作を残しているからかどうかで判断したい。 

 そして、音楽ですが、以前にも書いた理由もあって、要するに、和訳を字幕字化するには、相当さまざまなハードルがあるらしく、多くの使用される名曲は、英語を知らないと、ダブルミーニング的なところはわからない。だからこそ、既成曲が使われるとき、その曲が選ばれる意味を説明する解説が、日本では必要になり、パンフでの音楽解説は意味を持つ。渡辺亨氏の解説は、読む価値がある。

 渡辺氏も言及しているとおり、おそらく、エンドクレジットでかかる位置から考えても、アラバマ・シェイクスのナンバーが、本作の主題歌として狙ったものだろうと思われる。が、どうなんだろう。自分は、他曲のインパクトに圧されて、この曲は、記憶にないのだ。やはり、この物語で、主題歌狙いだったら、メロディをたたせたバラードだろうと思うのは、往年のタッチを記憶しすぎか。書かれていない事項としては、オリジナル・スコアはダニー・エルフマンだが、はっきりいって、エルフマンらしくない。同じような曲調を過去作で思い出そうとしたが見つからない。それよりも、やはりラッセルの過去作で組んだカーター・バーウェルやジョン・ブライオンの音色そっくりなのだ。知らずに聴けば、絶対、どちらかだと思うと思う。そして、気になったのは、60年代後半から70年代前半の雰囲気に反応している、既成曲の選曲。スーパーバイザーは、スーザン・ジェイコブズ。『ショート・カッツ』『カンサス・シティ』といったあたりからキャリアのあるベテランで、本作の趣味に通じそうな最近作だとOUR IDIOT BROTHERJACK GOES BOATINGCATFISH『サンシャイン・クリーニング』『リトル・ミス・サンシャイン』などがあるが、要するに、日本未公開作品が多い。おそらく、アメリカの庶民の日常に根ざしたかすかなドラマのものが多く、日本で紹介されづらいということなのだろう。今回の作品も、これをチェーン公開するようにしたギャガもさすがにすごくて『最強のふたり』を経て、そのスジ的に進化しているのかな、とも思ったのではありますが。

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