« 「見られる側」から見るということ。『世界にひとつのプレイブック』 | トップページ | 知られざる「ご当地映画」の傑作たちに思いをはせてしまう 『ひかりのおと』 »

2013年2月24日 (日)

ドキュメンタリーの時代を始めさせた画期的傑作を見直す『阿賀に生きる』

『阿賀に生きる』於シネマ・ベティ

 この作品は、本来は、現状報告的意味合いを濃く持ったドキュメンタリーであるはずであった。だが、最終的に編集された素材は、まるで、そのドキュメンタリーのスピンオフ的カットを集めたもののようなものであり、そこが、この作品を始めとして、ドキュメンタリー映画、というものの存在目的のあらたなる物、として考え始められ、その考えは現在も主流になりつつある。

それは、撮影された素材が、想定外の部分の強烈な興味を及ぼすものである場合、路線変更も当然、ということである。

この映画には「あれ、今、撮ってたん?」という反応のカットが多くある。つまり、映されている人々は、おそらく、本編として使われるのであろう、公的な硬い余所行きの反応のシーンが、この前後にあり、その後の、いわば撮影途中の一服の時間のたわいない会話や表情を反応している時、なのである。

また、この映画の人間としての器の大きさは、最終的にこれらの、地元の人々の素の表情が発表されることを許可されている、ということで、多くの、被写体にこれからなる人々は、この映画をまず見てほしい、とでもいいたい大切さを秘めている。

『阿賀に生きる』以降、ドキュメンタリーは、事象よりも、人間そのものにフォーカスされる割合が高くなってきた。すると、素の人間は、ドラマの演じられた人間より面白いことがわかってくる。『阿賀に生きる』は、日本の映画ファンの中で、そのドラマ性を見る目を肥えさせ、ドラマを作る側にとって、さらに厳しさを要求される状況がより増した、という効果があるのではないだろうか。そして、ドキュメンタリーの台頭へももちろん。 

パンフは32ページ。ニュープリント上映に際しての、改めての編集。初公開当時からの、佐藤真監督の言葉、撮影の小林茂氏の、この20年間のこと。

山根貞男、高見優(劇伴作曲家の方と同名だが別人の方です)、大熊孝・田嶋いづみ、各氏が、当時と20年後をあわせて考察し、最首悟氏の92年当時の原稿も掲載。逆に新鮮なのは、唯一、公開当時リアルタイムでの経験者ではない、現在30歳の荻野亮氏の批評である。20年前に作られた記録映画を、若きいち批評家が、純粋に映画として、考察する。それは、まるでトリュフォーやゴダールを論じるかのように。その方法も、この映画の位置を確かめるために、大事であろうと思う。

|

« 「見られる側」から見るということ。『世界にひとつのプレイブック』 | トップページ | 知られざる「ご当地映画」の傑作たちに思いをはせてしまう 『ひかりのおと』 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92257/56834732

この記事へのトラックバック一覧です: ドキュメンタリーの時代を始めさせた画期的傑作を見直す『阿賀に生きる』:

« 「見られる側」から見るということ。『世界にひとつのプレイブック』 | トップページ | 知られざる「ご当地映画」の傑作たちに思いをはせてしまう 『ひかりのおと』 »