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2013年3月31日 (日)

停滞するテーマ『球形の荒野』

『球形の荒野』(松本清張と美しき女優たち) 於・神保町シアター
  
竹脇無我も島田陽子も芦田伸介も、いずれも、彼らの出演が動機で映画を見ていい役者でありながら、この作品では、突き動かされるものを感じないのは、役者のいずれもが、意外性をほとんどもたないということだ。大滝、藤岡両名優氏の役柄はカギとなるが、主役ではない。
物語自体は、興味の尽きない全体像なのである。が、謎は、かなり早くに解明させてしまい、残りのあいまいさが回収されないことも含めて、解明自体は進行しない時間があまりにも長い。とすると、解明ではない部分がテーマであるはずなのだが、登場人物たちの苦悩も、一向に化学反応を起こさない。佐藤勝の、少しロックテイストも入ったスコアをつい聴いてしまうが、のちの火曜サスペンス的な舞台設定でのシーンの数々は、なぜか、映像美で見せるという意図もなさそうに思われる。何かが、思考中のままで完成させざるを得なかった一本という印象。

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心地よい喜劇的時間の流れ『銀座化粧』

『銀座化粧』(映画でよみがえる昭和 銀幕の銀座 懐かしの風景とスターたち)
於・銀座シネパトス
  
まだまだ自分には、見慣れていない時代の作品であるから、物語というよりも、そのテンポであるとか雰囲気を楽しむことにする。
あまりにも貴重な、銀座という街の風景の数々に、役者たちのちょっとした仕草や言い回しの中に含まれる喜劇らしさは、もうミリ単位の正確な職人芸を見るようで、いちいちみほれる。たとえば、タバコを薦められ、うっかり手を伸ばしかけてすぐにやめる仕草のような箇所に。簡単ながら、意味を濃縮したセリフがナチュラルに語られる間に、瞬間瞬間挿入される街の風景。ただし、この恐ろしいほどにナチュラルに流れる物語には、おそらく、気の遠くなるほどの取り直し、リハーサルがあることよなあ、なんて、心地よさの影にあるものも感じずにいられない。
成瀬の「間」であるとか田中絹代の「間」とか、そして、それはたとえば川島雄三の「間」とどう違うか、なんてことも思い、先ごろから思う、映画の時代による「間」の推移を感じたりもする。

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2013年3月30日 (土)

ドラマ、よりもここちよく力強く魅力的な日常『グッバイ・ファーストラブ』

『グッバイ・ファーストラブ』(フレンチ・フィメール・ニュー・ウェーヴ/於シアター・イメージフォーラム)
 
しばらく、この映画は、どこに帰着する物語なのか、そもそも物語は語られるのか、と不安げであった。互いに愛し合う若いカップルの幸せなイチャイチャ生活が、一見、延々と見せられるわけであるが、そこからのこの女性のドラマが、ほとんど、誰も何も語らず、事件らしい事件もない日常カットのすばやい進展で、女性の実際に複雑な心情風景な状況を説明していく。少しずつ、彼女たちの状況はどんどん複雑になるのだが、それでもドラマは起らずに終わる。ラストのラストでメタファー的なものをもってきて、人生とは、みたいな終結となる。
おそらく、決して珍しくない女性の数年の日常は、感動なんて、簡単な言葉ですませるものでもない。ましてやドラマなんて簡単な単語でもない、といっているかのようでもある。
音楽は、不思議な趣味。フランシス・レイ的なものを流しても違和感ないのだが、ここでは、ここ、という場面でのみ、スコアらしいものではなく、フォーク的なヴォーカル・ナンバーが挿入される。それも、本当に、目立たない感じで。ラストは、目立たせるが、あれは、全くもって大きな意味があるからだ。
 
言い忘れたが、この作品、本当に、ベッドシーンが多いのだが、痛快なのは、ベッドシーンではあるが「行為」のシーンはほぼ一切なく、すごく平易で簡易な単語だけで済ませられて終わる、ということだ。そのことそのものへのこだわりのなさを端的に表現するために、非常に効果的ではあったろうと思う。結果、全くエロティックな映画だとは思えていないので。
 
パンフレットは「フレンチ・フィメール・ニューウェーヴ」でまとめて出ている。
64ページで分厚いが、写真が多い。それぞれの作品の解説と、監督の解説とインタビューが丁寧で、かなり勉強になる。キャストが過去作品の作品名提示のみ、そして他スタッフについて一切言及なし、はかなり残念。コラムは『グッバイ・ファーストラブ』は、文筆家・五所純子、『スカイラブ』はミュージシャンの猫沢エミ、『ベルヴィル・トーキョー』はアンスティテュ・フランセ日本の坂本安美各氏のそれぞれ印象論。まあ、現代フランス映画は、紹介のされ方がまばらな気がするので、どこをどこまで解説すればよいのか、雲をつかむような話、の感じがしないでもない。

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宣戦布告コンビとの再会、そしてパリの名画座へのうらやましさ『ベルヴィル・トーキョー』

『ベルヴィル・トーキョー』(フレンチ・フィメール・ニュー・ウェーヴ/於シアター・イメージフォーラム)
 
『わたしたちの宣戦布告』同様、彼らは、カップルの役であるため、ダブらせて見てしまうことは避けられないが、どうも、作り手は、その辺の宿命も計算に入れているようである。
どうしても、この作品の場合、気にしないわけにいかないのは、主人公たちの職場なのであるが、名画座の現場って、フランスはこんな感じなのか? と、ちょっとうらやましく思えて仕方がない。
また、監督は、むしろシリアス・ドラマ的に考えているようなのだが、シーンの始め方であったり、次のシーンへの移り方のテンポが、ジャームッシュやロメールを思わせて、シリアスなはずなのに、愛らしく、ちょっとコメディ的香りさえしてしまうのはなんだろう。
そこに、川の水面のきらめきであったり、夕暮のシーンの少々ロングなカットは、映画自体がいわゆる「ドヤ顔」をしているように見えてくる。撮影にレナート・ベルタ。もちろん、美しすぎる画面の時々は、偶然では全くなく、かつ、せっかくのショットを切りたくない感がありありとある。そして、おしゃれすぎるメロディのひねりが、ちょっと映画音楽からは距離を置いてしまうベルトラン・ブルガラのサウンド。嫌いではないですが。
 
そして、パンフ内の監督のインタビューを読む限りでは、パリの名画座の現場は実際にあの感じのようである。ラスト近くで、映画館から、フィルム缶を次々運び出すシーンがあるが、あれこそが、フィルムの記憶を焼き付けておくための一場面であったりするのだろう。
しかし、そんな今回の上映は、デジタル上映なのでありましたね。

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2013年3月24日 (日)

オールドファッションなスタイルで作られた、大人のPTA映画 『ザ・マスター』

『ザ・マスター』於・TOHOシネマズ・シャンテ1
  
『マグノリア』『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』に感じられた、画面が迫ってくる感覚は起らず、映画の行間で感じさせた前作の凄みも今回は使わず、整理した物語を粛々と進行させるスタイルに受け取れたが、役者たちのテンションは、半端ではなく、非常に演劇的な鑑賞感。かつ、前作までのような爆発点も作らず、主人公の心理の推移を楽しむものである。
まるで心理トリックを見るような洗脳のスマートな一部始終を見せるかのような箇所は、ちょっとゲームそのものへの興味ばかりに気をとられがちになる。ホフマンのカリスマなトップならではのすべてが演技(演技を演技する二重構造)ないかがわしさに恐ろしさがあるが、エイミー・アダムスの、実は実質影で動かしているのは、こっちじゃないのか的な凄みも、ポスト・エミリー・ワトソン的すごみを感じる。
ジョニー・グリーンウッドの音楽は、序盤は、流れ続けるが、全体を通して流れ続けるわけではなく、ドラマが深くなるにつれ、出番を少なくするのは、前作同様。
   
パンフレットは監督・主役たちのインタビューとかなり詳細のプロダクション・ノート。
外部原稿は村尾泰郎氏が本作の音楽全体について書いているが、グリーンウッドの映画音楽仕事についての記述が少ないのが残念。また、50年代当時の雰囲気を伝える既成曲は、オリジナル・アーティストについての記載がないが、これは字数制約ゆえのことでしょう。逆に、初期PTA作品については、簡易にすませてよかったのではないか。
河原晶子氏は、主役ふたりについて書いているが、俳優論ではなく、劇中の登場人物に絞った印象論といったらいいのか。ただし、書かれている内容は、キャストと監督のインタビュー内容と重複する。
北小路隆志氏は、監督論。芝山幹郎氏も同じく監督論。
ここで思うに50年代という年代についての論や、50年代から70年代ぐらいまでにあった、アルコール依存症ほか、精神的に弱みをもった主人公の作品の系譜的なものがあれば、面白かったのだが、題材から鑑賞動機に入った観客の助けになる論は掲載されずに終わっている。

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後半のワイルドさが驚き『黄色い風土』

『黄色い風土』於・神保町シアター(松本清張と美しき女優たち)
  
『黄色い風土』は、巨編ともいえる長さの長編を90分にまとめるため、かなりめまぐるしく展開し、ともすれば、人物関係がわかりにくくなる。数々の殺人事件も、主人公が警察の人間ではない、ということもあり、初め以外は、すべて伝聞で済まされていくので、今、何人殺されているのか、ということもわかりにくくなったりする。初盤から、考えてみればすぐ狙われても不思議はない行動をしているのにひたすらミステリー部分のみで進ませ、終盤で急に東映らしくなる。ラストのあのシーン展開は、前半の上品さからは想像できない。こちらは、サスペンス映画劇伴の王道的スコア。
佐久間良子のキャラクターは、まるで、彼女の存在がなければ、ただ殺伐なミステリーになってしまうので、華を添えるために(まさに)登場しているそのものの美しさで、定期的に登場して、不思議な存在である。

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男女のドロドロは清張発ではない『黒の奔流』

『黒の奔流』於・神保町シアター(松本清張と美しき女優たち)
  
『黒の奔流』は、一応、『種族同盟』が原作になっているが、大枠のアイデアが同じなだけで、それ以外は、映画のオリジナルといっていい。いかにも清張もの、と思えてしまう、男女愛欲、しかも悪女系というのは映画で作られた部分であり、かつ、そちらが主流になっていく。主役の山崎努は、もう、この人の個性のためにあるような役なので、原作に沿ったものではないことがわかると納得する。いきなりのポップな劇伴に、明解な編集と構成は、これぞ娯楽ミステリー映画で、つきぬけていて心地よい。映画的にするために改編され、そのメイン動機と思えるエロの部分の演出が、なかなかに昭和エロしていかがわしく面白い。
弁護士の助手兼元愛人役の谷口香が、いかにもで助演女優賞もの。

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2013年3月21日 (木)

焦燥と対する、あらゆる「甘いポップな記号的映像」『スプリング・ブレイカーズ』

『スプリング・ブレイカーズ』於・シネマート六本木(試写/ロードショー公開は6/15からシネマライズ他にて) 
 
ハーモニー・コリンのほかのすべての映画同様に、行き場のない「退屈感」この場から逃れたい感覚が、今回は、女子を中心に展開する。前半は、彼女たちの心象風景とも言うべき、「楽しくて仕方がない」(と自分に言い聞かせる)シーンが、不自然な配色を伴って現れ、甘いエレクトロ音楽が常に流れ続ける。
「エイリアン」君が現れてからは、彼の心象風景もとけこんでくるが、それらは、いずれも「ここを地獄とは思いたくない」強い拒否反応が残像を選んでいく。
多くのカットや、セリフともポエムともつかぬ、家族への手紙、伝言は、エンドレスに登場し、この映画自体が詩であろうとする。しかも、シャイさを隠すかのように、派手なエレクトロを流していくのである。
決してネガティヴではなく、特徴として感じたのは、女の子それぞれの個性をなるべく出さない表現をとっていること。ビキニの女の子たちは、記号化している。エイリアン君も、女の子たちが自分のものになったと錯覚しているときも、決して女の子たちそれぞれの個性の話をせず、人数の話しかしない。そういうものだ、ということなのだが、では、なぜ、そうなるのか。
主役の女優たちは、「親が『KIDS』のファン」らしい。なので、親のOKも容易にとれるわけだが、親の許諾つきで主演する作品が、この内容である。表層で見ていない、といえば、クールだろう。退屈な青年たちのポップな焦燥が、60年代的でも70年代的でもなく、ゼロ年代的に描いているだけなのだ。
『スプリング・ブレイカーズ』の、他の映画にはない表現。それは、やはりあまりにもカラフルな色彩と空疎な心情の落差だろう。

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人間の弱さについての普遍的な論考『汚れなき祈り』

『汚れなき祈り』於・ヒューマントラストシネマ有楽町
ムンジウ監督の新作であること以外、ほとんど、前知識を持たず、また、カンヌの上映レポートで「恋のライバルは神?」みたいな、ある種コメディを想起してしまう文調での紹介を目にしていたものだから、最後の最後まで、どこへ向っていくのかは、全くもってしらなかった。
この映画のほぼラストシーンで、最後に関わってくるある職業の人たちの会話が意味深い。あの会話によって、会話で話される事実と映画の物語で行われていた「聖なる事件」が、全くほぼ同次元のこと(あの職業の人たちにとっては、それ以下の関心事)であろうということが感じ取れる。そして、その時代背景も。
その意味で、シャマランの『ヴィレッジ』をやはり思い起こしてしまう。が、むしろ『ヴィレッジ』が悲しい滑稽さをもって描かれたのに反して、こちらは、明確な怒りをもって描かれていると思う。
前作と違い、カットわりは最小限にとどめて、じっくりとシーンの演出に凝ったスタイルは同じながら、そこでの動きは緻密で濃密で、人物たちの表情はミニマムに徹する分、アクションでドラマや心情を説明させるので、シーンごとの情報量のあり方は、前作とは180度違うといってもいいかもしれない。
ムンジウ監督の、でも、多くの人間に伝えたい優しさの現われか、刺激的なカットは、皆無を徹底する。なので、衝撃的事件を描きながらも、衝撃的シーンはなく、かつ、感情の大きな動きの表現も、細心の注意が払われている。
テーマとして感じたのは、「あきらかに悪と思われる行動を、「自分ではなく、絶対的他者の責任の上で行わざるを得ない」という理由付けに自分を追い込んで、もしくは逃げ込んで、悪とわかっている行動を行う、という人間の心情の分析だろうか。ここで、観るものを考えさせるのは、主役たちの行動というよりは、主役たちをとりまく人間たちの行動であり、その「その他の者たち」感は、すなわち、私にはねかえってくる、ということだ。
パンフレット。初めて、表紙で「THEATER PROGRAM」と自分は何なのかを表している一冊を観た。この作品も、説明は排しているので、「STORY」は役立つかもしれない。プロフィールは、この作品が、あくまで、ムンジウ・チームともいうべきスタッフで作れていることを確認できる。コラムは、映画評論家・大場正明氏の印象論、著名人たちのコメント、主演女優ふたりへのインタビュー(質問が、あまりにもひどいので、読まないほうがいいかもしれない)、正教会について、そしてモデルとなった事件と類似した事件の紹介などの原稿、最後に国立民族学博物館・民族文化研究部・准教授の新免光比呂(しんめんみつひろ)氏が、この映画で説明が必要と思われる描写について、詳細に解説しており、この長文で、この映画の解説すべてととってもよいと思う。が、この作品こそ、宗教上の特徴の話の垣根を払って、人間の精神のどこに弱さがあるのか、という普遍さを感じ取ることの方が、観る者のあるべき態度ではないだろうか、なんて自分では思ってしまう。

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2013年3月18日 (月)

モリコーネとタランティーノの映画音楽についての見解の違いについて他 思うこと

かの「シネマトゥデイ」掲載の記事より考えること。つまりは、どちらがいい悪いじゃなくて、アプローチ方法の相違ということなのですが、何より、まずタランティーノの「映画作り」そのものが、オーソドックスな映画作りの発想と違うので、そこは理解できたとしても、「ものづくり」的な面で違和感はあるだろうと思う。
もちろん、売り出し中の作曲家もしくは、バリバリのあのスケジュールに慣れた放送作家的スケジュールでこなす作業が日常の作曲家なら、ギリギリの時間調整も当然かもしれない。が、誰も異を唱えない巨匠クラスの作曲家やアーティストと初見で話をもちかける場合などは、音楽じゃないが、有名な、幻冬舎の編集者の作家へ依頼する時の話とか、モリコーネだったらトルナトーレの時の話とか、エルマー・バーンスタインとトッド・ヘインズの話とか、やはり、時間を考えず、最終目的にはいきなり踏み込まずに、情熱をじっくり伝える過程はなければ、相手も話に信憑性を帯びさせてないと思う。
もちろん、タランティーノが、それまでに、モリコーネに対して、どういった熱意の伝え方を(間接的ではダメで)していたか、はわからないが。
また、タランティーノの映画における音楽は、もう「かつて、べつの意図で作られた音楽にもうひとつの意味を持たせる」ことの面白さであることは、疑いなくなってきている。問題は、その使われた曲の作者他当事者側が、「そんな使い方はしてほしくなかった」的な意向を少しもっていた可能性の場合だ。もちろん、互いに大人なので、あくまでビジネスで使用されていることに、いちいちかまっていられない、という人もいるだろうし、意外に、とりあげられることがうれしい人もいるだろうし、逆に、そんな使い方だったら許諾しない、と使えなかった曲も、おそらくあると思う。
タランティーノがすでにセレブであることから、そんな彼の映画で使用される、ということで驚く、という「使い方」以前の話のこともあるだろう。モリコーネの場合、タランティーノの常の映画使用音楽との対峙の仕方は知ってはいるようである。映画音楽、とくにスコアは、その映画の音楽として使われる以上の用途で広がっていくことは想定していないだろうから、単独楽曲があらたに引用されることとはまた意味を異ならせるのだ。
タランティーノがそうなれば、タランティーノじゃなくなってしまう、とは思うかもしれないが、トライしてみてほしいのは、しっかり、新たな正統派スコアのみを流す作品にする、とはっきり決めて、長い年月がかかることを承知で、モリコーネと何度も話し合いをもって、じっくり作る、そんな映画製作だ。
そして、たしかにタランティーノの映画は、いずれも暴力と流血の嵐だ。「誰も死なない物語」も、ひょっとしたら、タランティーノの課題にしてみてほしいひとつかもしれない。『フォー・ルームス』だったら、モリコーネも喜んでうけてくれたかも、と冗談でなく思う。

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2013年3月17日 (日)

ドキュメンタリーの作り手ならではの描き方『シャドー・ダンサー』

『シャドー・ダンサー』於・シネスイッチ銀座
これも、セリフも少なく、説明はあまりされない映画で、かつ、ドラマの重要な部分の表現として、直接見るのではなく、偶然見えている、偶然聴こえてくる、そして、それも、できれば見たくも聴きたくもないのに、見えてしまう、聴こえてしまう、という感覚である。なので、登場人物たちは、みんな目をそらしながら、静かに感情的に語る。「できれば、そんな関係になりたくない親しい関係なのに、お互いを疑いあわなければいけない不幸さ」、これは、もともとは、自分たちが幸福になるために始めた行動のはずなのに、結果、最悪な方向に逆転してしまっている。
ジェームズ・マーシュはここのところ、ドキュメンタリーに興味の焦点を合わせていたが、この題材は、ドキュメンタリーではあまりに困難で危険な題材なため、フィクションで語るのはいたしかたないだろう。
パンフレット内の解説は、法政大学名誉教授の鈴木良平氏によるIRA史の解説、映画評論家・土屋好生氏の印象論。監督と原作者、主要キャストへのインタビューとプロダクション・ノートが丁寧なので、それらで補完されるが、おそらく基にした資料が同じなのか、インタビュー内容と、プロダクション・ノートの内容が、かなり重複している。
また、冊子内では、ディコン・ハインクリフェは2作目とあるが、『プロジェクト・ニム』も彼なので、実際は3作目。また、荒涼とした感覚を薄い色彩で見せる撮影と、ドキュメンタリー感を髣髴とさせる編集について言及されていないが、撮影のロブ・ハーディは、"BOY A"や"BLITZ"『おじいさんと草原の小学校』など。ハーディの代表作としては、この『BOY A』が必見の模様。編集はジンクス・ゴッドフリー。マーシュのドキュメンタリー作品も彼の手になる、まさしくドキュメンタリー・フィルムの編集者である。

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犯人側から描いたら相当面白いんじゃないか『黒い樹海』

『黒い樹海』於・神保町シアター
いろんな意味で娯楽映画娯楽映画した作品で、あくまでプログラムピクチャーとしてルーティンワークで作られる中での一作なのであろうなぁ、と思いつつも、肩の力を抜いて見ていられるサスペンス。もともとが「婦人倶楽部」に連載された作品とあって、清張作品としては珍しい雑誌社、新聞社と作家という、当時の「華やかな職業」を題材に、ちょっとした青春冒険ラブコメ的要素も入っている。そう、姉が謎の死を遂げ、その謎を解く、というプロットに関わらず、悲壮感はなく、事件に巻き込まれている自分の様を楽しんでいるとしか思えないヒロインが面白い。周りの人物も、性格付けをはっきりさせ、あらゆるものを簡略化し、謎解きよりも、パートナーとなる記者への興味に重点を持っていくのは、女性ターゲット作品ならではの嗜好だろう。
すでに4回ドラマ化もされている。この物語だと、特にトリッキーな筋立てではないが、人物性格が見所なので、犯人側から、図らずも、破滅に向っていく成功者を描くのも相当面白そうな気がする。
この頃の現代劇での女優のしゃべり方のリズムとトーンは、独特のものがあって、女優のしゃべり方は、いつの時代から、大きく変遷したのか、時代を追って確認していってみたくなった。
本作品は、1960年作品。自分が物心ついた時には、銀幕から姿を消していたスター(しかも、共演者の多くは、その後の活躍をリアルタイムで知っている、という条件つき)への興味は現代史を見るように湧き、この叶順子も、物心どころか、自分が生まれる前に去っている人は、気になって仕方ない、ということもある。

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2013年3月10日 (日)

中庸的演技の説得力『夜の大捜査線』

『夜の大捜査線』於・早稲田松竹
主演のシドニー・ポワチエを中心に、人間の情や本音がぶつかりあうドラマであるはずなのに、感情をあまり外に出さずに淡々と進ませるまろやかさ。ハードボイルドとハートウォームとシリアスが交じり合い、それらを表現するに当たって、最終的に、みんながぶっきらぼうに絡み合う。この中庸的演技の、フィクションにおけるリアルさ、というのは、映画だけでなく、ポピュラー・ヴォーカルはもちろん、ロックにさえもいえることで、これは、映画や音楽が純粋に「商業娯楽」として理解されていたからこその割り切りから生まれたものなのか。それにしては、それはそれで、芸術性も持ちあわせているわけだけれども。
「一生懸命調べものをして執筆されるものよりも、実際にその場に行った者の何気ない文章の方が圧倒的に説得力が違う」、その事に通ずる感覚がそこにはあるように思えてならない。
クインシー・ジョーンズの音楽は、カントリーとジャズとソウルをごったまぜにするかのような、荒々しさと粋さを合わせる強烈なインパクト。

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変態音楽をもっとも効果的に印象付けるクレジットのワザ 『フレンチ・コネクション』

『フレンチ・コネクション』於・早稲田松竹
刑事アクションではあるが、それは、あくまで、走る、といった動作を中心とした、広い意味での「アクション」である。決して、格闘技的なシーンの比重をさすものでは全くなく、その意味での闘い的なシーンはほとんどない。そして、セリフも断片的なものがあるだけで、映される事象についての説明もほとんどされることなく、ドラマは進んでいく。「アクション俳優」というのは、まさしく「動きで演技する」才能のことを言うのだな、と実感する。
ドン・エリスの変態ジャズは、ラストに向って、ポパイがより狂気じみてくるのに呼応して、変態度を増して行き、その変態度が頂点に達したと思われる時に映画はエンドタイトルに入り、エンドタイトルの冒頭を飾るのが、音楽ドン・エリスの名前(メインタイトルのクレジットでは、音楽のクレジットは出ない)。音楽の比重は、前半ではほとんどなく、終盤に向って、一気に出番が増える。メインタイトルでコンポーザー表示があっても、確かに印象は残らないかもしれない。

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サレス&サンタオラーヤあたりで、劇映画化してアカデミー賞狙ってほしい 『100人の子供たちが列車を待っている』

『100人の子供たちが列車を待っている』於・下高井戸シネマ
多くの場合同様、タイトルのインパクトのみで見たかった作品(プラス、チリ発ドキュメンタリーで、これほどまでに名作扱いされるという状況には、ただならないものを感じる)ということで、ようやく見ることができたのだが、途中のリュミエールの話を女性教師が口にしたところで、タイトルの意味に気がついた。しかし、それがラストのクライマックスに引っ張る伏線だとまでは気がつかなかった。
ドキュメンタリーも、もちろん物語を組み立てるわけで、組み立てられるからには、クライマックスはある場合もあり、その方が、ドキュメントを見慣れていない人間にも見やすいものになるだろうし、メッセージは明確にすることができる。
しかし、物語の中心となる事柄を、最後まで見せずに引っ張って、そして見せるところではサラリと見せて、効果を表す方法は、ドキュメンタリーでは『ブエナビスタ・ソシアル・クラブ』がそうだろうか。そしてすぐに思いついたのは、アニメ『まなびストレート』や『らきすた』のオープニングと最終回の関係性である。劇映画でも思いついた、『スワロウテイル』はそれに当たるな。
それにしても、この作品の物語性、劇映画にすれば、余裕で、アカデミー賞狙える素材なのではないか、と思った。ウォルター・サレス監督&サンタオラーヤ音楽コンビあたりで。
それとも、女性監督の方がいいかな。

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ご清張、まことにありがとうございます。『共犯者』

『共犯者』於・神保町シアター(松本清張と美しき女優たち)
すべてというわけではないが、多くの松本清張もののストーリーのパターンは一見平和な日常を暮らす平凡な市民的成功者と、その人間のあまりにも暗い過去、である。『共犯者』も見事にその例に当てはまるもので、かつ、ひとつのパターンとしてさらにある「実はそうではなかった」「思い過ごしであった」のパターン。これを、この作品では、根上淳の表情いっぱいにいきわたる焦燥が物語りまくっている。
根上淳、船越英二、そして高松英郎。自分のリアルタイムではいずれも、年を重ねてからのいぶし銀演技しか知らなかった大俳優の、もっとも現役だった頃の男前スター存在感的な立ち居地で、彼らがそれぞれの影をもった普通人を演じる。
印象的なのは、この三人の男が、いずれも、固定した連れ合いの女性の存在があることで、その女優たちの存在が、今回の特集にこの作品が選ばれたゆえんだが、この作品では、女たちの影の企みは表には表されない。裏があったのかもしれない女や、結局、女たちの発言の中での謎の部分などがあるが、それらは解決されずに終わってしまう。
観客に第三者的冷静さを失わせない娯楽性を感じたのは、クライマックスだが、思い切り、外でのシーンでありながら、セットとわかる音響処理がなされている。
いずれにせよ、清張清張した展開が、サスペンスなのに、安らがせるのでありました。

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2013年3月 4日 (月)

美しすぎる風景が、逆説的に響いてくる『故郷よ』

『故郷よ』於・シネスイッチ銀座
この映画を見ていて、途中から『ニーチェの馬』を思い起こしてしまう。あの作品ほど、禁欲的な画面ではなく、むしろ、醜いものはあまりみせず、それゆえに余計に恐ろしい、というやりきれなさを感じさせながら、そのことを抜きにしていれば、美しい風景なことよ、という
美しければ美しいほど、絶望感が押し寄せる。そんな構造の中での、ヒロインの立ち居地である。自らをどう生かせばよいのか、答えは見つからない女性の、故郷と近郊都市のひたすらの行き来の日々。画面は芳醇であっても、そこに『ニーチェの馬』が描く残酷さを
重ねてしまう。
音楽は、ポーランドのジャズ・シーンで活躍するピアニストのレシェック・モジジェル。アコースティックなスタジオ・ライヴ的な音で聴ける哀しいメロディ基調のゆるやかなジャズは、久々にアート系作品で、サントラがほしい、と思わせるほど、おそらく、観客にかなり
強く訴えかける音であった。(サントラ発売なし。ダウンロード販売もない模様)
パンフレット。映画であることからの言及は、ミハル・ボガニム監督への詳細インタビューで読み取る。アンゲロプロスやタルコフスキーを意識しているのか。アンゲロプロス意識で驚いたのは、撮影がヨルゴス・アルヴァニティスが参加している、ということだ。
コラムは医師・作家の鎌田實、ふくしま会議理事の佐藤健太、NPO法人日本チェルノブイリ連帯基金事務局長の神谷さだ子、歌手の加藤登紀子(劇中で「百万本のバラ」が印象的に使用され、日本でこの曲といえば、この方のため)の各氏によるもの。
いずれも、映画というよりも、福島、チェルノブイリの問題を中心とした原稿。この作品で、映画論はしづらいか。ましてや、すでに見に来ている人たちに向っては。

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「映画ファン」が住む町の「ご当地映画」。『インターミッション』

『インターミッション』於・銀座シネパトス
シネパトスの特色のひとつは、劇場そのものがひとつの建物、というものでないために、古い映画館然とした外観をとれない、ということがある。その代役として、三原橋商店街の地下に降りる階段が何度もフィーチャーされるのだろう。そして、シネパトスはなんといってもロビーが狭いので、ロビーでのドラマはほぼ無理で(ひとつあるが)、結果、劇場内でのドラマになるが、なんという大学生活の部室感覚なことよ!この物語を外に全く出さずに中で完結するドラマ以上に膨らませないで、別のドラマに逃げるのは、破綻させないためにもクレバーであろうと思う。
まるで、部室的な劇場を取り巻く狭い世界は、ひとつの地方都市のようで、「映画ファンが住む町」というバーチャルにつながる町の「ご当地映画」といっていいと思う。そのご当地感とは、この映画館を知っているか知らないかで、入り込みようがあまりにも変わってくるだろうし、広がることは、そもそも放棄していて、それよりも中の人間たちを大切にしている作品である、ということである。
菅野祐悟の音楽は、やはり多くは『ニュー・シネマ・パラダイス』を思い起こし、それは間違いないと思うが、個人的には、東京国際映画祭がまだ文化村をメイン会場にしていた頃の、上映前に流れた東急グループの協賛CMでの岩代太郎の音楽を思い出した。いずれも、ノスタルジーであることに変わりはない。(敬称略)
そして、この映画は、特にシネパトスにとっては、ということだろうが男の映画ファンにとっての、という作品なのだな、と思わざるを得ないのは、出演者のチョイスであって、基本は、現在「今も元気にされているのか確認したい」昔のスターたちであり、メインは女優だ。男については、主役に『ヒミズ』『サイタマノラッパー3』という、こちらは今後の邦画のカギになるに決まっている作品の2人を同じ世界に連れてきた、というところがメッセージ。少し前ならば、クセのあるインディーズといえば、浅野、永瀬、ムラジュンだったと思うのだが、もちろん、時代は、刻々と移り変わる。
パンフはすべてが友情出演とでもいうべき、それぞれがネタをもったアクター諸氏なので、その俳優たちの人物説明でページを取るが、これは、ひょっとしたら、鑑賞前にチェックしておいてもよいかもしれない。そして、スタッフの解説が丁寧で、こちらも事前予習がよいかもしれない。

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2013年3月 2日 (土)

自分の中のストーリーテリング感が変わる『絞死刑』 下ろし先のわからないコブシ的な『飼育』

『絞死刑』『飼育』於・シネマヴェーラ渋谷
『絞死刑』は、当初、あまりにも淡々と進むセミドキュメンタリーなのかのように進んでいく。実は、この始まり方自体が、あとあとへの展開のためのギャグだったりすることはのちにわかる。うろたえるがゆえに、実際、考えこそすれ、口にはしないであろう、幼稚な本音を露見させることになっていく様は、完全にコントであり、おそらく、この展開をモトネタにしているお笑い芸人も絶対いるに違いない。
シーンを重ねるにつれ、ワルノリする展開は、もはやスラップスティックで、あげくには原型を保たないほどのデフォルメへとさえ一旦進む。このストーリーテリング術がアリなのだと悟ったら、多くの「つまらない物語」は、容易に魅力的に変化させられるのかもしれない、とも思う。
『飼育』は、芸達者の集団劇を俯瞰かつ長回しでおさめ、かつ、あまりにも暗い照明がリアリティをもたせ、セリフの完全聞き取りはなかなか困難な映画だが、セリフに容赦なく大音量で重なる豪雨の音であったり、多くの登場人物の一斉のセリフ回しですべてを聞き取れないシークエンスであったり、見ること、感じ取ることに集中させようとする意地悪なリアルがすごい。
しかし、そこで語られるセリフは、すべてあまりにも醜いものであることを考えると、聞き取れないことによって、観客は不快さをカバーされているのかもしれない。
陳腐な感想ではあろうと思うが、物語の骨格だけをすくいとると、現在までの人間の、おそらく「社会」という集合体に常に発生する問題が描かれている。それは、否定したくともしきれるものではなく、逆に、醜いが、醜いと知りつつ受け入れざるをえないものなのか、というやりきれなさを浮かべさせるものである。拳を振り上げても、その拳の行く先がわからない、というような。
『スウィート・ヒアアフター』をも思い出した。

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