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2013年3月 2日 (土)

自分の中のストーリーテリング感が変わる『絞死刑』 下ろし先のわからないコブシ的な『飼育』

『絞死刑』『飼育』於・シネマヴェーラ渋谷
『絞死刑』は、当初、あまりにも淡々と進むセミドキュメンタリーなのかのように進んでいく。実は、この始まり方自体が、あとあとへの展開のためのギャグだったりすることはのちにわかる。うろたえるがゆえに、実際、考えこそすれ、口にはしないであろう、幼稚な本音を露見させることになっていく様は、完全にコントであり、おそらく、この展開をモトネタにしているお笑い芸人も絶対いるに違いない。
シーンを重ねるにつれ、ワルノリする展開は、もはやスラップスティックで、あげくには原型を保たないほどのデフォルメへとさえ一旦進む。このストーリーテリング術がアリなのだと悟ったら、多くの「つまらない物語」は、容易に魅力的に変化させられるのかもしれない、とも思う。
『飼育』は、芸達者の集団劇を俯瞰かつ長回しでおさめ、かつ、あまりにも暗い照明がリアリティをもたせ、セリフの完全聞き取りはなかなか困難な映画だが、セリフに容赦なく大音量で重なる豪雨の音であったり、多くの登場人物の一斉のセリフ回しですべてを聞き取れないシークエンスであったり、見ること、感じ取ることに集中させようとする意地悪なリアルがすごい。
しかし、そこで語られるセリフは、すべてあまりにも醜いものであることを考えると、聞き取れないことによって、観客は不快さをカバーされているのかもしれない。
陳腐な感想ではあろうと思うが、物語の骨格だけをすくいとると、現在までの人間の、おそらく「社会」という集合体に常に発生する問題が描かれている。それは、否定したくともしきれるものではなく、逆に、醜いが、醜いと知りつつ受け入れざるをえないものなのか、というやりきれなさを浮かべさせるものである。拳を振り上げても、その拳の行く先がわからない、というような。
『スウィート・ヒアアフター』をも思い出した。

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