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2013年3月18日 (月)

モリコーネとタランティーノの映画音楽についての見解の違いについて他 思うこと

かの「シネマトゥデイ」掲載の記事より考えること。つまりは、どちらがいい悪いじゃなくて、アプローチ方法の相違ということなのですが、何より、まずタランティーノの「映画作り」そのものが、オーソドックスな映画作りの発想と違うので、そこは理解できたとしても、「ものづくり」的な面で違和感はあるだろうと思う。
もちろん、売り出し中の作曲家もしくは、バリバリのあのスケジュールに慣れた放送作家的スケジュールでこなす作業が日常の作曲家なら、ギリギリの時間調整も当然かもしれない。が、誰も異を唱えない巨匠クラスの作曲家やアーティストと初見で話をもちかける場合などは、音楽じゃないが、有名な、幻冬舎の編集者の作家へ依頼する時の話とか、モリコーネだったらトルナトーレの時の話とか、エルマー・バーンスタインとトッド・ヘインズの話とか、やはり、時間を考えず、最終目的にはいきなり踏み込まずに、情熱をじっくり伝える過程はなければ、相手も話に信憑性を帯びさせてないと思う。
もちろん、タランティーノが、それまでに、モリコーネに対して、どういった熱意の伝え方を(間接的ではダメで)していたか、はわからないが。
また、タランティーノの映画における音楽は、もう「かつて、べつの意図で作られた音楽にもうひとつの意味を持たせる」ことの面白さであることは、疑いなくなってきている。問題は、その使われた曲の作者他当事者側が、「そんな使い方はしてほしくなかった」的な意向を少しもっていた可能性の場合だ。もちろん、互いに大人なので、あくまでビジネスで使用されていることに、いちいちかまっていられない、という人もいるだろうし、意外に、とりあげられることがうれしい人もいるだろうし、逆に、そんな使い方だったら許諾しない、と使えなかった曲も、おそらくあると思う。
タランティーノがすでにセレブであることから、そんな彼の映画で使用される、ということで驚く、という「使い方」以前の話のこともあるだろう。モリコーネの場合、タランティーノの常の映画使用音楽との対峙の仕方は知ってはいるようである。映画音楽、とくにスコアは、その映画の音楽として使われる以上の用途で広がっていくことは想定していないだろうから、単独楽曲があらたに引用されることとはまた意味を異ならせるのだ。
タランティーノがそうなれば、タランティーノじゃなくなってしまう、とは思うかもしれないが、トライしてみてほしいのは、しっかり、新たな正統派スコアのみを流す作品にする、とはっきり決めて、長い年月がかかることを承知で、モリコーネと何度も話し合いをもって、じっくり作る、そんな映画製作だ。
そして、たしかにタランティーノの映画は、いずれも暴力と流血の嵐だ。「誰も死なない物語」も、ひょっとしたら、タランティーノの課題にしてみてほしいひとつかもしれない。『フォー・ルームス』だったら、モリコーネも喜んでうけてくれたかも、と冗談でなく思う。

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