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2013年3月21日 (木)

焦燥と対する、あらゆる「甘いポップな記号的映像」『スプリング・ブレイカーズ』

『スプリング・ブレイカーズ』於・シネマート六本木(試写/ロードショー公開は6/15からシネマライズ他にて) 
 
ハーモニー・コリンのほかのすべての映画同様に、行き場のない「退屈感」この場から逃れたい感覚が、今回は、女子を中心に展開する。前半は、彼女たちの心象風景とも言うべき、「楽しくて仕方がない」(と自分に言い聞かせる)シーンが、不自然な配色を伴って現れ、甘いエレクトロ音楽が常に流れ続ける。
「エイリアン」君が現れてからは、彼の心象風景もとけこんでくるが、それらは、いずれも「ここを地獄とは思いたくない」強い拒否反応が残像を選んでいく。
多くのカットや、セリフともポエムともつかぬ、家族への手紙、伝言は、エンドレスに登場し、この映画自体が詩であろうとする。しかも、シャイさを隠すかのように、派手なエレクトロを流していくのである。
決してネガティヴではなく、特徴として感じたのは、女の子それぞれの個性をなるべく出さない表現をとっていること。ビキニの女の子たちは、記号化している。エイリアン君も、女の子たちが自分のものになったと錯覚しているときも、決して女の子たちそれぞれの個性の話をせず、人数の話しかしない。そういうものだ、ということなのだが、では、なぜ、そうなるのか。
主役の女優たちは、「親が『KIDS』のファン」らしい。なので、親のOKも容易にとれるわけだが、親の許諾つきで主演する作品が、この内容である。表層で見ていない、といえば、クールだろう。退屈な青年たちのポップな焦燥が、60年代的でも70年代的でもなく、ゼロ年代的に描いているだけなのだ。
『スプリング・ブレイカーズ』の、他の映画にはない表現。それは、やはりあまりにもカラフルな色彩と空疎な心情の落差だろう。

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