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2013年4月30日 (火)

サウンドも遊んでほしかったかな『ハッシュパピー バスタブ島の少女』

『ハッシュパピー バスタブ島の少女』於・ヒューマントラストシネマ有楽町
 
可愛らしい島の名前に象徴されるように、それが明示される瞬間はないけれど、完全に「ある少女が空想した、自分に似た女の子の物語」であろうかと想像した。すべてが秘密基地的な世界の生活、日常的に同居する人間と、雑多な動物たち。そして、それは、今まで私たちが見たことのある動物かどうかはあまり意味を持たない。
少女の空想版『ヴィレッジ』を一瞬思う。自分たちが近づかない法がよいと警戒する「現代社会」的な世界。かわいらしいマッドマックス的なことも考えるが、おそらく、これは近未来ではなく、時代としては今の物語である。
もちろんツバルのような問題と直結しても考えるが、いずれもはきっかけにすぎず、それらのもろもろを思わせるものがさまざまにくっついた世界である。
ヴィジュアル的には、『かいじゅうたちのいるところ』を思い出させたりするが、怪獣との違いは、音楽だ。かいじゅうは音楽も「僕たちの世界で作られた音楽」の想像であったかと思うが、『ハッシュパピー』の音楽は、あくまでスコア然として、例えばトイピアノや想像がむずかしい楽器の音色で、という感じではなく、シンセとオケのしっかりとした大人の想像物である。例えば、大きな動物の牙で作ったんだ、というような楽器が登場して、演奏するシーンも少しあって、その延長線上的な不思議な音色でスコアを奏でる、という感じとか。
 
パンフレット。確かに、いらぬ解説はいらぬ、とばかり、結構シンプルな構成になっている。監督はじめ、スタッフ、キャストは何者?という興味のために必要な資料ではありましょう。6歳のクワヴェンジャネ・ウォレスちゃんへのインタビューが面白い。
原稿は、松江哲明監督と、佐藤友紀氏。贅沢をいえば、この映画の発想の原点となっている戯曲家ルーシー・アリバーという人について、資料がほしいかな。

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2013年4月29日 (月)

マジックを見せられるような不思議な時間感覚『ジャッキー・コーガン』

『ジャッキー・コーガン』於・みゆき座
 
映画というか芸術・作品を鑑賞するに当たって、それぞれ独自の「時間の流れ方」というものが存在する、とは思っていて、映画で、それを初めて痛感したのは『美しき諍い女』で、次に『ユリイカ』でそれを多大に感じたものだ。この2つは、結局最終的に圧倒的な上映時間を有する作品なので、当然といえば当然なのだが『ジャッキー・コーガン』は、それとよく似た「時間の流れ」を感じた。
状況を設定された上で、おもに二人の男たちによって、まるで延々と際限なく語られる結論のない会話。それは聴いているうちに、どこからか、会話の内容というよりも、リズムを楽しんでいるような感覚に移っていく。カメラも、かもし出す空気も、シーンが始まるや、「さあ、長丁場ですよ、リラックスしていきましょう」感があるのである。
一応、フィルムノワール的なものなので、ヴァイオレンスもあるが、後半にそれらは集約され、中盤のそれは、雰囲気を乱さぬようとばかりの工夫がこらされる。
ということで、さあ、と本腰を見る側は入れるかな、と思ったら、エンドクレジットになってびっくり。ということで、結果、この不思議なまったり感の時間の流れに支配された、物語のミステリアスさは皆無で、そこではないところにポイントがある不思議な映画だった、と感慨にふける次第である。なんだこれは、という怒りではない。むしろ、見事なマジックを見せられたあとのようである。
音楽も、恐ろしくシブい選曲でまとめられ、一応オリジナル箇所はありつつも、ピアノの追加と音響的な追加をマーク・ストレイテンフェルドが行っている(MUSIC BYというクレジットではない)。スペシャル・サンクスにハル・ウィルナーの名があった。どう関わっているのかは不明。
 
パンフレット。この作品の最もかなめなテイストの意味を、映画にも海外ミステリにも造詣の深い滝本誠氏が、さすがに読みつくしている者ならではの文章で、この物語の魅力のあり所を解説。立教大学教授・アメリカ研究の生井英考氏は、作中、しげく挿入されるオバマとマケインの2008年の選挙演説の意味を説く。ドミニク監督のスタッフ・プロフィール内のコメントも、役に立つ。そして、森直人氏はブラピ論なのだが、俳優論ではなく、ジョニー・テップ、トム・クルーズと合わせて、それぞれの俳優人生プランの比較を考える。確かに、ある意味、難解な映画であろう、本作は、解説はかなり有効であります。

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シュワ復活、というより群像劇アクション人間ドラマ『ラスト・スタンド』

『ラスト・スタンド』於・丸の内ピカデリー 
 
まず、シュワルツェネッガーをメインに据えるとして、かなりの群像劇である。セリフは少ないながら、作りこまれたキャラクターは、役者たちが与えられた役柄を相当それぞれの中で膨らませて、それぞれが主人公として成立させるも可能なレベルまで作りこんでいるように思えた。が、この作品は、そんな人物設定を基礎におきつつも、徹底的にテンポで見せるアクション・ムービーである。力技というより、銃撃戦ひとつの中にも緻密なプロットが練られていて、さながら、銃撃戦の中でストーリーも進展させるという離れ業をやってのけている感じもある。なので、相当長い、町での銃撃戦が冗長ではもちろんない。
そこにもってきて、カーチェイスもふんだんにみせますよ設定なので、まるで2部構成で、ここでもドラマもしっかり見せる。
そして、目だったのは、アクション映画ながら、女性の役どころの比重が多いことだ。もちろん、この映画は、西部劇へのオマージュは根本のひとつにあるだろうが、そこから進展しているのは、女性の役割の進め方だ。
コメディ的味付けは、舞台が平時は、あまりにも何も起らない町だったことの象徴で、おそらく、この平和さ加減の描写はリアルで、町中を地獄にはしないところが、現代的なのであろう。
途中の描写は、韓国の監督ならではの非情なヴァイオレンスかと思わせる箇所がいくつもある。が、そこはハリウッド流に最終的には落ち着かせるわけで、そこは、見る側の中で、そのオチはいらないと判断すれば、中間の残酷さは味わったままでよいだろう。
いずれにせよ「シュワちゃん復活アクション」の仮面をかぶった、群像劇としてのアクション人間ドラマの傑作だと思う。
 
パンフレット。ワルノリなほどに濃厚。従来の記事のほかに、「逃走経路マップ」、「登場人物相関図」「登場する銃器・クルマ」をほとんど図鑑状態で、シュワルツェネッガーのフィルモグラフィには、なんと一作ごとにコメントがつき、キム・ジウン監督のフィルモグラフィも同様の詳細さに、ミルクマン斉藤氏による監督論、ジウン監督との仕事経験のある白竜氏へのインタビュー。しかし、音楽のMOWGについては、クレジットすらなく、残念。

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2013年4月28日 (日)

高峰秀子の豊潤な無表情を楽しむ『放浪記』『浮雲』

『放浪記』『浮雲』於 新文芸坐 
 
高峰秀子の豊かな無表情を味わう。無表情のシーンの比重の多さから、激しく変化した際の醍醐味の迫真感がただならないものになる。笑う、微笑む、という場面も記憶に残らないほどになく(私には)、必ずしも、女優の魅力は笑顔にあるわけでもないことを確認する。
特に『放浪記』における高峰秀子の存在ぶり、しぐさは、その後の桃井かおりを思い起こさずにいられなかった。桃井側の演技のヒントになっているのかいなかは分からないが、もし、ヒントにしていたら、そのキャラクターのオマージュ方法はきっと面白いだろうな、と思う。
『放浪記』と『浮雲』は、当然ながら監督・役者・原作をほぼ同じくするため、類似性は多いのだが、まるで前者をパワーアップさせたのが後者といわんばかりだが、前者の、実話であるという言い訳が興味を裏打ちするのと対照に、フィクションであるがために、存分に波乱万丈に、悲劇感を増幅させる、ある意味、ワルノリな物語の展開の速さと後半の盛り上げの急速さは、それぞれの場合のドラマの語り方の臨機応変さが学べて心地よい。
『浮雲』の音楽が、ドラマの発端が東南アジアであるきっかけはあるものの、舞台を東京に移してさえも、エキゾなムードをもったメロディを使い続けるのは、やはり主人公、とくにヒロインの心情は、まだ東南アジアの地にある、ということなのだろうか。

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2013年4月21日 (日)

贅沢な鉄道映像と、単純反復化された「日本の地方的退廃美」のある提示『母の唄がきこえる』

『母の唄がきこえる』於・ユーロスペース

 この映画は、言わば、一見、ふるさとを懐かしむご当地映画で、地元のお年寄りが見ても、違和感はない体裁を保っている。が、考えれば考えるほど、映画的実験をともなっている作品のような気がしてくる。
 数分始まっての、単純なイメージに削ぎ落としたものの反復という意味合いにおいて、ヴェルナー・シュレイター的なコラージュを想起したのだが、まさかとは思っていた。が、映画を通して、再考するたびに、やはり「キーワード化されたイメージ」の執拗なまでの反復は、「同じことを2度語るのと、3度語るのとでは、意味合いが異なってくる。おそらく、反復は多いほど、イメージの複雑化は実際に感じられるようになる」ことを実践しているかのように思われる。なので、「電車ごっこ」や「玉子焼き」や「自転車」「手紙」といった、象徴化された小道具は、それ自体は、リアリティはもたなくてよくて、「電車ごっこ的な思い出」「玉子焼き的家族を取り巻く状況」全てを代表して語る仮想道具として存在している。例えばシュレイター『薔薇の王国』のようなそれっぽい様式美を醸すわけではないけれども、この信州のローカル線を巡る「様式美」は立派に存在していて、そこからは、一歩もぶれずに、その様式美を踏襲する。定規で直線を引くような実直さは、グリーナウェイ映画におけるふれない退廃美にも似ているような気がする。たしかに「今はなき家族」や「廃線」は、日本のローカルな地での「退廃美」のあるひとつの形かもしれない。
 登場人物たちが、直接のセリフ以外で能弁な点は、日本のマジメな昔かたぎの人間たちを描くには、自然な方法であると思う。無口だが、その心理情景は、あまりにも饒舌である。その饒舌さを取り除くと、のりしろのすごく多い、手がかりの少ないイマジネーションを働かす、また別の鑑賞方法をとることになるが、心情が述べられることによって、もちろん、そこに隠されたさまざまな深い意味はあるとしても、すぐに物語世界に親しむきっかけはもてることになっている。(ここでも、デュラス『アガタ』的なものも感じたりは一応、するわけではあるけれども。それは容易なイマジネーションとは違う位置にあるものだ)
 反復の絵がほとんどおそらく出ていずに、贅沢に映像が盛り込まれたのは、ローカル線そのものを撮った部分である。この作品は、ローカル線側の方がむしろ主役であり、記録映画的非一般性に閉じ込めてしまわないように補足されたのが、人間ドラマであるように思われる。
 

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悲しいのではなくかっこいい男女の物語『君と歩く世界』

 『君と歩く世界』於・新宿ピカデリー

  これは、物語というよりは、真剣に生きる大人の男女たちをじっくり追いかけた、そんな映画である。日本での宣伝で見られる、一見、不幸に見舞われる女を守り抜く男的なあらすじは、結局は、物語の一角をしめるものではあるけれど、女に降りかかる不幸も、自分だけ悲しんでいるわけでは全くなくて、登場人物たちそれぞれみんなに事件は降りかかっている。物語の傍観者でいられる人物はいなくて、それぞれのおかれた大変な状況を緻密に描いている。
 物事がシンプルに見えるのは、演じられる、そしてフィクション上で起り続く事柄があまりにもナチュラルに計算されているからだろう。寸分なく周到に用意された進行によって、リアルすぎるドラマがナチュラルになっている。このふたりの関係具合も面白い。恋愛と意識するか、そんなことどうでもよいか、のせめぎあいが常にあり、その中で、あの携帯メールでの密かなやりとりが、キュートに見え、そこに、過酷な日常からの一瞬の逃避的感覚を確認できる。
 年齢制限がつくことになってしまうほどに一応描かれるベッドシーンの多少の多さは、肉体を頼りに生きる大人の男女の濃密なドラマであれば、エロを考えなくても自然と思うが、エロは、女が、男のストリートファイトの様子を見るうち、自身の居場所ではないと思う敬遠的戸惑いのまなざしから、あきらかに男への憧れ的なものに変化するカメラワークと演技のアクセントの箇所から、強く意識することになっていく。
 物凄く細かい心理変化のアンサンブルを見せて、トータルとしてのまろやかな強靭さが、この映画が「ラブストーリー」なんて、そんな優しいものだけではない何かなのだと思わせるものがある。

 パンフレット。最近の作品に珍しく、インタビュー掲載はない(プロダクション・ノート中での言及のみ)。コラムは、主役の女、男、共にその側から見た見解を載せる。ヒロインの描き方から見る考察を川口敦子氏が、映画史の中で類似するヒロイン像のある作品を探しつつ印象を述べる。対する男側からは大場正明氏が、映画で使用されるポップス&ロックのナンバーからのアプローチを試みる。

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2013年4月16日 (火)

過剰演技というリアル『ももいろそらを』

『ももいろそらを』於・シネマ・ジャック&ベティ 
 
『ももいろそらを』という、このオーバーアクションで貫かれた映画がドキュメンタリーのように見えるというのは、あたかも逆の逆をいって真実、とでもいいたい 攻め方である。
主人公の女の子3人と男の子1人は、おそらく、自分がルックスがよいことを知って意識して、生活している。女の子3人は、スクールカーストでいえば、最上位の子達であろうと思う。「見られている」ことを意識して生活してきたことはしみついて、生活を、舞台のように演技をつけて暮らしている。女の子3人の性格的役割分担は、実際、自分がその性分というよりも、いつの間にか、自分はこのポジション、と「キャラ」を意識したのちに、「そのキャラだったら、今、どんな行動をするだろう」という想像にもとづいた「即興演技」である。
 この映画が、即興演技のものか、じっくりと書き込まれた脚本を入念にリハーサルを重ねたものなのか、どちらなのかはわからない。ただ、結果、見えてくる彼女たちのしぐさ、ものいいは「へたなオーバーアクション的演技」というリアルさをもつものである。
 そう、彼女たちの日常は「決して上手じゃない演技」によって組み立てられ、また、それを受ける側も「演技だとはわかっているが、演技と思わなかった演技」を行って、みんなが傷つかないように、そして、自分は、少し、輝いているのだと思うために、時間をやりすごす。
 物語は「演技をする」ことが深く関わるプロットをもっている。この作品を演じた若き女優たちは、「演技をする演技、をする演技」のようなふるまいを残して、「どこにでもいる女の子(しかしスクールカースト上位の)」を感じつける。
表層の「皮」の部分を見つめる物語で、内面には、怖くて、触れることはできない。痛みを知る物語ではなく、心地よい空気を楽しむ映画なのだから、そのくすぐったさは、それでいいと思う。というか、それこそが味である。
 
パンフレットはポストカード大の綴じられていない紙をケースにいれたもの。主要キャストと監督とプロデューサーののプロフィール、簡単なインタビューが文章として掲載されている。他者によるコラムはなし。

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通り過ぎる興味対象『コズモポリス』

『コズモポリス』(以前に試写(ショウゲート試写室)にて) 
 
物語は、特に実験的な作品であれば、起承転結は全く考えなくていい、とは思っているが、思うに『コズモポリス』は、承の途中から転の途中までを画面に映し出しているような物語。また、クローネンバーグ映画は、ひとつの主だった設定はありつつも、主人公という目を通して、その時々のクローネンバーグ自身が興味を持つ対象が、まるで展覧会を歩いてみて回るように通り過ぎていく、物語そのものとは直接関わらない部分が、逆に重要と思うのだが、今回は、クルマに乗って、主人公が目的地に向って移動するという、さらなる明確な比喩があるため、物語を放棄してもよいかな、感は、先に感じ取ることができる。
主人公のキャラクターというかいでたちが、『アメリカン・ヒストリーX』のクリスチャン・ベイルも思い出したりする。

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2013年4月14日 (日)

模範的超オールスター女囚物語。「刺される原節子」はレアか『女囚と共に』

『女囚と共に』於・神保町シアター 
 
超模範的物語の映画であろうことは覚悟していたが、必ずしも、そうは終わらない展開を見せる。後半の原節子が、自身を無くしていく過程が興味深い。目を伏せる表情が後半の多数を占め、ドラマ全体としては、ハッピーなイベントをひとつもっては来るが、けっして、物語すべての好転でもなんでもなく、その「好転でもなんでもない」感は、映画の中で登場人物たちも意識している。むしろ、悪化しているのかもしれない問題提議をとりあえず行って終わる、という感じでもある。映画中何度も登場する、回廊を真ん中に据えて、両側から女囚たちの大声・叫びが反響するカット。この光景が「日常」であることに乾いた現状提示が見える。時には、超正攻法の作品を確認することも、自身の中では、それはそれで刺激的でもあった。

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衝動的な映画全体論『ホーリー・モーターズ』

『ホーリー・モーターズ』於・ユーロスペース
 
3キャラクター目あたりから、感じ取ることができたが、これは、「擬人化された<映画>と男の一日に喩えられた<映画史>」ですね。映画的なキャラクター、シーンが次々となぞらえられていき、そんな「男」「女」がたくさんいることがわかる。もちろん、「映画シーン」はいくつもある。そこで、描かれる事柄も沢山ある。運転手は、プロデューサーか。
とすると、今までのカラックス作品よりも、かなりポップで明解な作品だったように思えてくる。ラストのあのシーンがあることで、ポップを通り越して、かわいらしく見えてきてしまうし。
その「映画史」をデジタルで撮っているわけなので、フィルムに向けての葬儀的意味合いもあるきがするが、墓に備えられた花を食い漁る行為は、映画少年にとっては、ストレートな感情表現かもしれない。
最後に「帰る」「家」は、現代の「映画」への乾いた諦観といったところだろうか。
とすると「ホーリー・モーターズ」は「世界の映画シーン」の具現化だ。
 
パンフレット。ストーリーが具体化したものではないので、シーン毎の説明になっている。コラムは門間雄介氏が、カラックスの過去作から本作のヒントを探ろうとする、ミュージシャン・曽我部恵一氏は詩のように、印象を書く。続く西嶋憲生氏の解説が相当すごい分析で、クイズの答え合わせと化している。つづくケラリーノ・サンドロヴィッチ氏は、演技と絡めて考えをめぐらせる。最後に来日時のかなり詳細な、カラックスへのインタビュー。映画自体も抽象的で、質問も抽象的なので、映画を見る前に読むのも可能ではないか。
そして、静止画そのものも絵画そのものなカラックス映画は、一枚の場面写真ごとに、何かを感じさせられる。

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2013年4月 9日 (火)

続編を見たいと思うのは○か×か『暗闇から手をのばせ』

『暗闇から手をのばせ』於・ユーロスペース
 
おもわせぶりなタイトルや、ポスター・ヴィジュアルで身構えるのだが、映画が始まり、ヒロインの歩く姿を映す時間が、ある一定以上の長さであることを感じ取ったあたりから、この映画の見方を変えたほうがいい心持を自覚する。
物語に登場するのは、ナチュラルに自分の心を開かない人たち。ヒロインもそうである。そして、それは、最後の最後でも、決して開いているわけではない。ある言葉を口に出した後のしまった感がリアルである。
登場人物たちは、ナチュラルにこばみ、抵抗し、遠ざかろうとする。
ひょっとしたら、もっともフラットに、この中の事件とおりあいをつけているのは「店長」である。物語は、何組かの「男性客」対「デリヘル嬢」の心のやりとりを見せるのだが、「男性客」たちのその存在が、ひとつのカテゴライズされていることが不思議に思えてきて、単に「自分の弱さを意識した者同士の対話」なのではないのか、と思う。
気になったシーンというか展開は、ヒロインがやや心を通わせることになる少年の家に出向いて、ある行動に出るシーンだが、その行動に出るに至る心の動きが感じ取れる部分は映されない。この心の動きは、見るもののイメージにゆだねられている。ここは、激しい動きであろうから、見せない、というところに、品のよさを感じてしまう。そのシーンと、店長が町を眺めながら概論的グチを語るシーン。このふたつにおそらく、テーマを凝縮したものがある。このぐらいの具体的説明はいいと思う。他には、おそらくドキュメンタリーの取材で得られた現状のエッセンスが、登場人物たちのセリフや行動の詳細にまとめられている。彼らのひとりひとりの行動は、何気ない日常が少しだけ破られる瞬間なわけだが、そこで、ものすごい量の、彼らのメッセージが託されている気がする。 
転校生の音楽の使用は、広い観客の理解への大きな助力となっていると思う。この「商業映画的わかりやすさ」は、観客を制限しないスタンスとして、学ぶべきものがある。
 
この問題は、存在することは否定されなければならないゆえ、ヒロインはメタファー的意味合いでは、継続することを願ってはいけないのだろうが、この「沙織」と「店長」と「むきあわざるをえない問題」の物語は、この物語をパイロット版として、シリーズとして見たいような錯覚を感じる。
 
パンフレットは、監督のイントロダクションでこの映画の誕生の経緯が説明され、ヒロイン小泉麻耶と監督の対談が、それを補完するが、問題意識への心配りと、「映画」であるための技法へのこだわりのバランスの取られかたが伝わってきて興味深い。ダルデンヌへの意識は、なるほど以外の何ものでもない。そしてDJキングジョー氏が、グラビアアイドルとしての小泉麻耶を熱い原稿で応援し、主要キャストの詳しいプロフィール。以上のコンパクトな内容だが、すみずみまでが解説されたムダの全くない濃い理想的パンフレットだ。

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2013年4月 8日 (月)

あるゲームスコアの記録のように見える『カレ・ブラン』

『カレ・ブラン』於・シアター・イメージフォーラム
 
いまや『時計じかけのオレンジ』を見ても『CUBE』を見てもそう思ってしまうのか知れないが、『カレ・ブラン』は、SFというより、シチュエーション・ホラー的なアイデアを組み込んだ
現代芸術的なゲームブックの様相と感じた。多くの情報をあえて削ぎ落として、設定されている世界の一風景。数々の人間の、コマのようにシンプル化されての末路の数々。そして、主人公たちまでも。未来を舞台にした立体的ボードゲームの、あるひとつのゲームスコアの軌跡。同じ舞台設定の中で、さまざまなパターンが考えられそうである。
そして、落伍者とされる瞬間。このやりとりは、世界の社会のよく似た問題をあまりにもシンプルにすればこうなる、という、ノートの一行。社会格差からいじめの問題から、あらゆる「対立」の話から。単純化すればつまりはこれだ、というのは、楽観的ではない想像世界を描くと、どうしても、こうならざるを得ないだろう。もしくは、「人間の教訓には全くならなくて、あくまで、根底を流れる思想も含めて、大きな遊戯」として捉えたら、新しい物語は作れるだろうが、それは「そんな物語を語って何の意味があるのか」と問われることを覚悟でのものである。そして、『カレ・ブラン』の思想は、そんな遊びのものではなく、存在価値・思考する価値は容易に認められるものである。
そんな優等生的思想をぼやかしてくれるのは、現代美術的舞台装置であって、たまたまストーリーのようなものもある実験映画として鑑賞する方が自分にとっては、辛気臭くないかもしれないと思う。
 
パンフレットは、まず、海外の批評家のコメントがずらり。
監督インタビューはたずねられる物事のすべては答えずに進むので、刺激がある。聞き手も、かなり、論点をまとめあげていてさすが。原稿は、真魚八重子氏の「作品解剖」。ネタバレであることを先に書き、ひたすらに作品内に登場する膨大な記号をパズルを解くように考察。そして署名はないが、「ディストピアSF 文学とその映画化の歴史」という原稿では、ほぼリスト化されたものに、ちょっとした補足をつけたもの。そして音楽評論家・行川和彦氏の「作品研究」は、表現に凝って、必ずしも、平易な作品論ではなく、氏の肩書きから想像するに、ロック雑誌での批評的な見解である。真魚氏の原稿が比較的感情を抑えたものであるために、映画のテイストを残すために、ロック的感覚で捉えた一文の補足はこの映画はどう見られるか、の最大公約数の推測の手助けになる。

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映画的快感の多さに社会問題的真摯さを思わず忘れる『海と大陸』

『海と大陸』於・岩波ホール
 
イタリア映画祭にも最近、行っていなかったこともあって、濃密な人間ドラマを真摯に描く現代イタリア映画らしいストーリーをもった作品を久々に見た。もちろん、映画として、それは理想であるべきだろうから、グチでは決してないのだが、一見、この物語は、シリアスに社会問題を訴えている。観客に考えさせる題材をもっている。が、この映画、舞台が、あまりにも美しい、観光を収入の重要な位置にもつ島を舞台にしている、ということもあり、ことごとく、画面がとにかくあまりにも美しいのだ。そして、それは海の青を基調にして、配分される色の問題であるとか、難民の肌の色と海の色、部屋の壁の色とのコントラストとか、船からの大挙しての飛び込み(このシークエンスが物語の中にちゃんとあるのだとは思わなかった)「映画的な快感」が多い。出産シーンあたりから目だって来る、カメラの横移動の、この移動スピードのエロティックさであるとか、感覚でうっとりさせてしまう部分が多く、ぼーっとしていると、そうか、この物語は、それがテーマのひとつであったのだ、と改めて気づかされるところで映画は終わる。この映画の終わり方は、物語の収束への責任は放棄している気がするが、ここで終わる、ということが、「実は問題はそこではなかった」感を気づかせているともいえる。もしくは、ここが「法よりも大切なものがある」主張をはっきりとさせるのだ。
 
岩波ホール独特のパンフレット。
随筆は、まず写真家の石川直樹氏の「神保町の街角から」。過去に岩波ホールで上映された『シリアの花嫁』と『海と大陸』をあわせ、『海と大陸』の重要なテーマのひとつを世界標準的な社会問題として考える。そして椎名誠氏、早乙女愛氏の印象論。
ところで、監督のエマヌエーレ・クリアレーゼって、シャルロット・ゲンズブールの『新世界』の人だったのか。

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