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2013年4月21日 (日)

贅沢な鉄道映像と、単純反復化された「日本の地方的退廃美」のある提示『母の唄がきこえる』

『母の唄がきこえる』於・ユーロスペース

 この映画は、言わば、一見、ふるさとを懐かしむご当地映画で、地元のお年寄りが見ても、違和感はない体裁を保っている。が、考えれば考えるほど、映画的実験をともなっている作品のような気がしてくる。
 数分始まっての、単純なイメージに削ぎ落としたものの反復という意味合いにおいて、ヴェルナー・シュレイター的なコラージュを想起したのだが、まさかとは思っていた。が、映画を通して、再考するたびに、やはり「キーワード化されたイメージ」の執拗なまでの反復は、「同じことを2度語るのと、3度語るのとでは、意味合いが異なってくる。おそらく、反復は多いほど、イメージの複雑化は実際に感じられるようになる」ことを実践しているかのように思われる。なので、「電車ごっこ」や「玉子焼き」や「自転車」「手紙」といった、象徴化された小道具は、それ自体は、リアリティはもたなくてよくて、「電車ごっこ的な思い出」「玉子焼き的家族を取り巻く状況」全てを代表して語る仮想道具として存在している。例えばシュレイター『薔薇の王国』のようなそれっぽい様式美を醸すわけではないけれども、この信州のローカル線を巡る「様式美」は立派に存在していて、そこからは、一歩もぶれずに、その様式美を踏襲する。定規で直線を引くような実直さは、グリーナウェイ映画におけるふれない退廃美にも似ているような気がする。たしかに「今はなき家族」や「廃線」は、日本のローカルな地での「退廃美」のあるひとつの形かもしれない。
 登場人物たちが、直接のセリフ以外で能弁な点は、日本のマジメな昔かたぎの人間たちを描くには、自然な方法であると思う。無口だが、その心理情景は、あまりにも饒舌である。その饒舌さを取り除くと、のりしろのすごく多い、手がかりの少ないイマジネーションを働かす、また別の鑑賞方法をとることになるが、心情が述べられることによって、もちろん、そこに隠されたさまざまな深い意味はあるとしても、すぐに物語世界に親しむきっかけはもてることになっている。(ここでも、デュラス『アガタ』的なものも感じたりは一応、するわけではあるけれども。それは容易なイマジネーションとは違う位置にあるものだ)
 反復の絵がほとんどおそらく出ていずに、贅沢に映像が盛り込まれたのは、ローカル線そのものを撮った部分である。この作品は、ローカル線側の方がむしろ主役であり、記録映画的非一般性に閉じ込めてしまわないように補足されたのが、人間ドラマであるように思われる。
 

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