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2013年5月 9日 (木)

積極的に関係しあわない登場人物 『アフガン発・貨物200便』

『アフガン発・貨物200便』於シアター・イメージフォーラム
 
 前日の『私も幸せがほしい』と合わせて、この監督の作品のかもし出す強烈なものは何だろう、と思って、それは、おそらく、確信犯的な朴訥さである。今回の作品も、映画全体が終わってみれば、この上もないショッキングな大事件を描いていることになるのだが、大事件感があまりにもないのである。
 『アフガン発』に限って考えれば、さほど壮大なスケールの全貌、ではないのだが、関わった登場人物たちそれぞれから見た状況があまりにも各々異なることが分かり、おそらく、誰も、自分にいったい何が起ったのか、知らされないままに終わっているのである。この感覚は、なにゆえに出てくるのか、と考え、おそらく、登場人物たちはみな、「なぜ」を考えない人間たちである、ということが考えられる。とてつもないことが起っていつつも、なぜか、巻き込まれる物事に抗わずに進んでいく。今回で言えば、唯一、小屋の年配女性の行動は抵抗になるが、推理ゆえじゃなくて、衝動ゆえの行動のように見える。この衝動ゆえの抵抗は、『私も幸せがほしい』の全裸になっても歩き続けた女性にも通ずるものがある。
 ショッキングさを感じない点は、決して、映画手法的な「ため」を行っていない、ということもある。自然に進むが様に進んでいる。映画の中の事件の多くは、「観客」のために演出された事件であるがため、時間の進み方は自在にゆがめられ、物事にアクセントがつけられるのが普通なのだが、この作品には、その演出的時間の歪ませが多分ないのである。そして、人物の言動の全体的なやや不快さもあるかもしれない。まるで、全員が自業自得なので、全体を俯瞰して冷徹な笑いでも含みながら見るしかない方向へと、観客は誘導されるのではないか。
 なので、映画が終わるや否や、別に、眠っていた、という意味ではなく、不思議な精神誘導をされていた感じがあるため「あれあれあれ、自分は今、何を見ていたんだ」感に襲われるのである。
 
 そして、そう、飲酒量である。ベッドに縛り付けられた娘までもが、グビグビ飲んでいるじゃないか。

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