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2013年5月30日 (木)

日常が冒険である彼女たちにとって、これは冒険映画である『三姉妹 雲南 の子』

『三姉妹 雲南の子』於・シアター・イメージ・フォーラム(鑑賞5月26日) 
 
 現地で何年も共に生活をして、大量に映像を取りためて、そこから厳選した映像、なのだろうと思っていたら、違うらしい。しかし、大量な映像からだろうとやはり思っていたのは、カット割が意外に多いということだ。なので、叙事詩的な作品だが、絵画的な美しさが重要性を持つ。強い風の音は、動画的空間の、連続性の美しさも感じさせるが、それよりも絵の美しさだ。
 時間から取り残されたような村だが、少女たちの着ているパーカーなどから、それは現在の出来事なのだ、ということを実感する。というのは、50年代以前の日本映画を見れば、物質的には何もない世界に暮らす人々の姿を垣間見ることができる作品はあるが、現在、今の瞬間も、この生活をしている人々がいる、と考えると特別な思いがしてくる。
 描かれる空間のインパクトを感じたい場合に、余計なドラマがないのはありがたい。少女たちの日常だけで、十分、見る側にとって、ダイナミックなイベントに満ちていて、事件なんて起らなくていい。
 この感覚は、先日見た『蜂蜜』とほぼ理由を同じくする。ともに主人公は子供たちだが、それはなぜかと考えるに、子供を介した方が、日常の些細なことを驚きの事象としてとらえるに当たって、違和感がなくなるからだろう。
 
 パンフレットは、ワン・ビン監督のインタビューをメインに、国立民族学博物館外来研究員の伊藤悟氏が、この映画の撮影地である雲南の状況を解説、作品評は瀬々敬久監督と、作家の大野更紗氏、明治大学の丸川哲史教授。
 また、同時期開催のワン・ビン旧作上映のパンフも兼ね、後半は、『鉄西区』『鳳鳴ー中国の記憶』を掲載している。

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2013年5月29日 (水)

非・儀式的空間のゆるやかなドラマ『黒夜行路』

『黒夜行路』於・オーディトリウム渋谷(マレーシア映画の現在2013)5月26日鑑賞 
 
 思い返すほど、不思議な映画である。はじめ、絶対に油断する。すきだらけの映画だろうと思う。若い男女が、戯れつつ、会話を進めているのか進めていないのか、の調子のシーンが延々と長回しで撮られている。基本的には、この調子を貫いた映画だということがわかる。そして、この映画の物語の緊張を覆うムードが、ほかの物語にはない特殊なものなのだということがわかる。
 それは果たして、映画的なのか同なのか。まるで、ひとつ、物語のコマを進めようとしたら、「とりあえず、椅子のあるところに移動しよう」とばかり、テーブル、椅子のあるシーンに移動し、また、延々と怠惰な会話が始まる。そして、そこではヤバい内容の会話が次々繰り出されているのだが、だらりとしたあとの瞬発のバイオレンスというものもない。これはあえて避けているのだということを知らしめるために、暴力沙汰になるシーンを設けて、そこでも静けさを保持する。
 張り詰めた緊張感というのでもなく、ゆるやかに怠惰で、これは危険だ、とわかりつつもだらしない時間。この時間の流れ方に似ているのは、ジャームッシュ映画なのだが、あの世界のようにコメディでもオフビートでもない。大体、笑いではなく、むしろ、全体を覆うのは悲劇である。滅びの美学、でもいいたいところである。
 タランティーノやってみようかな、という瞬間がある。だが、やはり、俺たちには似合わないな、とばかり、無意味ながらも意味の凝縮した会話をすることもやめる。そういった、儀式的・様式美的なものとは相対する、「ハレ」と「ケ」でいえば、完全に「ケ」の時間なのである。

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2013年5月28日 (火)

2つの物語が交錯はしないということ『プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/ 宿命』

『プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命』於・ヒューマントラストシネマ有楽町
 
 思えば、シンプルな物語なのである。そして、物語の味の深さは、過ぎた時間の遠さにこそあるため、ある程度の上映時間が、物語のコクのためにこそ必要、そんな映画である。
 ストーリーテリングのワザに参りました的に思えたのは、ゴズリングのドラマとクーパーのドラマの語り方を極端に変えている、ということだ。それまでのこの、複数のドラマの連なりのような物語の場合、片方はモノクロで語るとか、ふたりのドラマを交錯させて、しかるべきところで合致させる、という手をとりそうだが(ソダーバーグやイニャリトゥ)時間軸的には、完全に分けて、そこはトリッキーにはしなかった。
 ゴズリングのドラマは、完全に視野を狭くしたドラマである。男の一途な情熱の爆発をたどるだけに、焦点はボケさせない。多面的にもしない。そこで、ゴズリングの、無言演技の見せ場となる。もう、このひとの仕草のオーラで見せる演技は、確かにカットするのが勿体無い域の感じがして、ただ、歩いているだけのシーンで、相当な濃厚なドラマを感じさせる。
 クーパーのドラマは、逆に実録ドラマ的に、事件を次々検証するかのテンポのよい進行で見せる。こちら側の方が、おそらく描いている年月や、社会的に起っている事柄の複雑さもあり、凝ったシンプルさを気取ると破綻しかねない。
 ゴズリング側の「間」とクーパー側の「間」は、ドラマ全体のテンポを形成していく。 
 『プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ』と『君と歩く世界』は、共にボン・イヴェールで終わるが、作品を包むムードも相通ずるものがある。
 
 音楽は、クラシカルな曲も流れるな、と思ったら、マイク・パットンのスコア以外に、アルヴォ・ペルトの曲を大量に使用しているようである。重要なところでモリコーネも使用。この感じは『きっとここが帰る場所』『ドライヴ』に似た音楽趣味。
 
 さて、パンフレットだが、前知識はあらためて必要としない作品のように思えるので、何が必要か。監督と主要キャストのインタビュー。作品評は宇野維正氏のもののみ。マイク・パットンと、想起するクリフ・マルチネスとの対比について書かれている。シアンフランスのインタビューの中には、マイク・パットンについても答えている。

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2013年5月27日 (月)

加賀まりこ加賀まりこした加賀まりこ『美しさと哀しみと』

『美しさと哀しみと』於・神保町シアター(川端康成特集)5月25日鑑賞
  
 これほどまで、形を楽しむ映画はなかった。役者はもちろん、全員、ハマリ役なわけで、中でも加賀まりこの「およしになって先生」感全開は、この感じの「およしになって」的な楽しみを新たに形作ったエポックメイキング的なものなのじゃないか、と思う。
 現代劇なのだけども、普段の会話からは逸脱した刺激的な単語が飛び交い、それを加賀まり子、八千草薫が口にする、という「いけない感じ」、単純化された仕草に、シンプルに画面の中に納まる感じなど、日本の古典芸能の形の応用であろうし、そのあまりにもの証拠に武満徹の音楽は和サイケとでもいいたい音色だ。
 八千草が書くという巨大で奇怪な絵画は、実際は池田満寿夫の筆によるもの。登場人物たちが、それぞれの場で争いあう姿は、踊りを舞っているかのようでもある。
 なので、ちょっと冷静になって、ハマってしまうと、刺激的なセリフが繰り出すたびに、笑い出しそうになる。この空間を、悲劇を正面から捉えて味わうのか、冷ややかに見るのか、その中間の心持で対するのが、もっとも観客としてイキなんじゃないか、なんて思う。
 
 余談。私が、初めて加賀まりこを知ったのは多分、花王愛の劇場での、笹沢左保原作の『突如として男が』(原作は『轢き逃げ家族』カッパノベルス)でのヒロイン役で、夫以外の男と時を過ごす妻。モロ、メロドラマ推理小説な物語なのだが、嫌いじゃなかった。当時、小学生だと思うが。

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2013年5月26日 (日)

饒舌な自然。『蜂蜜』

『蜂蜜』於・銀座テアトルシネマ(銀座テアトルシネマ・さよなら興行レイトショー)
5月19日鑑賞
 
 自然と会話/対話している映画といえる。
 主人公の少年をめぐる、対人間の「ドラマ」は、父との対話、そして学校での劣等感、ざっくりいえば、この2点であろうと思う。少年は、字が読めないわけだが、そんなことよりも大切なこと、といわんばかりに、自然との対話に時間がうんと割かれる。
 この映画の勝利はなんと言っても、緻密で深い自然をフィルムに収めることができたことで、ロケーションの物凄さと、奇跡的な光を捉える時間をおそらく辛抱強く待ったことからの、絵画的瞬間と強烈な音響である。いわば、この自然の崇高さの意味づけの具体化として、少年が存在する、といっていい。
 トルコ映画は<彼の映画に対する情熱は常に>ゆるまず・ギュネイでおなじみのユルマズ・ギュネイ作品以来だと思う。まあ、トルコ映画は、いずれも『蜂蜜』のような映画だ、ということでは全くないのだが。
 思ったのは、途中まで製作され、あまりにもの製作資金の超過が見込まれるあまり、中断となった、伝説の山本政志監督『南方熊楠』は、こんな映像をめざしていたのではないだろうか、ということだ。

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割り当てられているキャラクターを演じ続けること『女であること』

『女であること』於・神保町シアター(文豪と映画 川端康成「恋ごころ」の情景)鑑賞5/19
 
 原節子の映画をまだまだ見ていないので、この映画における、その、らしさらしくなさはわからないが、自分が抱いていたイメージは、「性善説を信じる」的な性格が柱にあるものを思っていたので、『女であること』における「すべてお見通し」的な、ややダーティな面も見せる性格は新鮮だった。
 また、この映画における、原節子と久我美子、そして香川京子の関連性が、先日見た『女囚と共に』とまるまる重なる。この3人のベーシックなところの性格付けは、ほぼ同様であったのだろうか、そして、この3人であれば、必然的にこういう描き方になる、ということなのだろうか。
 森雅之の演じる、あまりにも頼りなく、それも女性関係にだらしないが、上品ではある、というそのキャラクターも、同様で、いろんな作品がすべて繋がっていく。この「ある程度、暗黙の了解的キャラクター」が個々成立しているために、さまざまな説明描写を省略することができる、というのはあるのだろうな、とは思った。なので「都度、全く違う役どころに挑戦したい」という野心的な魂の俳優たちの発言も分かるが、「常にある程度、固定したキャラクターを引き受ける」という態度も、決して無意味なものではないのだ、ということがわかる。
 「あの子、あなたに接吻したんでしょ。誰にでもする子なのよ。私も接吻されましたよ」旨の原節子のセリフは、なかなかダイナミックでありました。

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2013年5月24日 (金)

あるホラー的空間を示す壮絶な手本的ラスト近く『浪華悲歌』

『浪華悲歌』於・シネマヴェーラ渋谷(溝口健二ふたたび)鑑賞5月18日
 
 濃厚な女性映画へのスタート地点に位置する溝口健二の世界。ひとりの女性が悲しい人生に矛先を変えられてしまう前の、父と子供3人(主人公含む)が生活する家の貧しさを表現するためとでもいうか、外観から捉える室内のシーン。もしくは、柱や壁など、常に視野にはそれを遮るものが存在する空間での食卓。それと相対するのが、主人公が、愛人として上司と行動をともにしている場で、上司である男の妻に発見されるシーンでの空間の広さ。
 ひとりの女性の悲しい顛末ではあるが、それは時代性というものもあろうが、やはり冷静な視線で語られる。色気のあるドラマという側面ではなく、その「この女性の場合」とでもいうべき現実的なストーリーが淡々と進行していく。
 ショッキングな事件が起る、というのでもない。というか、人々の日常にとってのひとつのショッキングな事件である、家族からの拒絶を突きつけられるシーンは、まさしく、ひとりの女性が無残に殺されるシーンを見せるのに匹敵する、どうしようもない怖さと悲しさがある。このラスト近くの数分間の映画的空間は、そう「人が殺される、ということ以外のホラー」の壮絶な手本であろうかと思う。 
 
 ここでホラーとは何か、なんて考える。必ずしも、人間の誰かが殺されなくても「絶望的なものとの戦い、そしてその勝利もしくは敗北」を描かれている場面はホラーなのでは、と思う。

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2013年5月23日 (木)

シンプルな愛憎談をクレバーかつお洒落な語り口で見せる『噂の女』

『噂の女』於・シネマヴェーラ渋谷(溝口健二ふたたび)鑑賞5月18日
 
  あまりにも、画面が饒舌である。繰り広げられる人間模様は、さほど入り組んだものではなく、母と娘、そして母の愛人、母に思いを寄せる男、この4人ぐらいが要である。一応、御茶屋が舞台とは言いながら、その業種に関わる悲喜こもごもについては、ここでは省略されている。もっぱら、母と娘の物語で、それも、母すなわち田中絹代の自在で愛らしい演技を楽しむものであろうと思う。
 ここでポイントは、空間の見せ方で、物語は、非常に閉じた、母娘の愛憎物語で、ドラマのほとんどは室内で展開するが、このそれぞれのシーンでの空間の奥行き・広がり、それを感じさせる効果音が、ものすごいスペクタクルさを作り上げる。和室の一室に座っているだけでも、その調度から壁などに至る複雑なこだわり、それは、もう、もし、これがカラーであったらどうであろうと、クラクラしてしまうばかりの豪華絢爛さを想像させる。それぞれの部屋の大きさの見せ方も不思議で、この画面内にこれだけが収まるからには、この部屋
のカメラの前の奥行きも相当なもの、と現実離れした空間の感じ方をする。
 黛敏郎の音楽も、テルミンと思しき音色の電子楽器を聞かせたりで、心温まる人情物語のそれでは全くない。京都の男女の色のいざこざを見せつつも、その見せ方は、まるで感情移入させまいと、必要以上に極端に冷静に描写している、といったらいいのだろうか。それは、ありきたりの物語を見つつも、ちょっとおしゃれな、一皮向けた作品の感覚を味合わせようというものか。
 オードリー・ヘップバーンよろしき久我美子のスタイルは、当時、スタイルに恵まれた女性は、きっとみんなこんな感じだったのだろうか、とは思わせる。オードリー久我のスタイルは、川島雄三『女であること』でも、ほとんど同じルックスで見ることができる。このオードリー久我の装いは、「東京色に染まった現代の女性」を端的にいちモデルとして説明している。確認すると、『噂の女』は54年で『ローマの休日』は53年なので、まさにブームのさなかの時なのだった。
 人間関係をも表す能・狂言を鑑賞するシーンでのカメラワークでの表現。室内での複雑なカメラワークを駆使しつつ、その画面のつながりが自然ではないことを観客にも気づかせるぐらいの極端さを出して、それを見せ場のひとつにするのは、デ・パルマ映画などで何度も味わったが、デパルマはきっと、溝口にあこがれてもいるのだな、というのは、こういうのを観ると感じる。

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2013年5月22日 (水)

緊迫シーンでのスコアとしてのブルース『アフリカ・パラダイス』

『アフリカ・パラダイス』於オーディトリウム渋谷(シネマ・アフリカ2013)鑑賞5月18日
 
  フランス・ベナン合作とあるので、これは、ベナンの観客に向けての映画なのだろうか。もちろん、この作品が、ベナン映画の中央なのか、異色作なのか不明なので、こういった映画が親しまれているのかどうかは分からない。
  一組の白人カップルの行方を追いつつ、彼らが出会う事件の顛末を謎を残すことなく、描かれる。まるで、実際のある事件の推理を人物関係のみ大幅に書き換えてトレースするかのような冷静さがあると思われる。
  数々の謀略の動機も、一見、稚拙なものばかりである。が、それは現実に行われていることも、単語を難解な単語に置き換えられるだけの違いであって、要するに、こういうことなのだ、という単純化のように思える。
  気になったのは、「白人には、こういった仕事しかない」と会話される、その職業についてのシーンがほとんどないことだ。メイドとして生活する女性側のドラマは、メロドラマよろしく結構、濃い目に描かれるが、男の、おそらく過酷であろうと思える労働は描かれない。
  白人カップルが主人公のため、世界を動かしている、と思われるアフリカ人の頭脳に関しても、単語の端々でわかるだけ。あくまで、ひとつの小話を語る上での設定である。
  音楽は、ワシス・ディオップのアフリカン・ブルース。アコースティックな弦楽器と、パーカッションと声のみでのブルースが、緊迫したシーンのスコアとして、すごくかっこよく機能することにほれぼれする。ラブシーンは、いきなり、メロメロのフランシス・レイ風に。

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2013年5月21日 (火)

非ファンタジー的ファンタジー『日陽はしづかに発酵し…』

『日陽はしづかに発酵し…』於・早稲田松竹(5月12日鑑賞)
 
 中央アジアを舞台にした映画をまだそれほど本数ぜんぜん見ていないわけだけれども、とてつもなく特殊な表情をもつ景観である。中央アジアといえば、ずっと宙をさまよい続けているような不思議なカメラワークが印象に残った『ルナ・パパ』という映画があったが、あれは、完全にスウィートなファンタジーだった。なので、この土地を舞台にすると、自然とカメラワークはユニークになる、というのは考えつつも、今回は、捉えられる世界は、ユートピアでは全くない。
 この映画の物語の中では、不可思議なことが次々に起っているが、それらは、とにかく熱く不毛な地の中で耐えるように生き延びている身にとっては、だから何、ぐらいの、不可思議さに意味を与える気を起こさない。激しい抵抗ではなく、おそらくこちらが正しいのではないかぐらいの怪しげな確信で、生き延びるための行動らしきものを起こしているが、それも、どうしてという根源的な問いになると、絶望的にならざるをえない。
 そう、この映画の中で起る不可解な物事について、観ていた自分は、気づきながらも、旺盛な好奇心につながることを感じなかった。どこか、それは起っても不思議ではないことを語られているだけ、と感じていたからだと思う。SFやファンタジーは不思議と認知して初めて味覚が確かめられるので、まるで風邪を引いたときの舌の感覚のようになっている。ファンタジーをファンタジー然としては語らないこと。この感覚は、興味深い。

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2013年5月20日 (月)

まるで寡作作家のような夢の映像『静かなる一頁』

『静かなる一頁』於・早稲田松竹(鑑賞5月12日)
 
 とてつもなく観念的な作品を体験するのは、久しぶりと思われ、ここ最近は、睡魔と闘いながらすごす映画はなかったのだが、これはさすがに闘う時となった。
 画面には、静かながら刺激的な美しい画面が次々登場しているのだが、それを共有出来ないもどかしさ。おそらく、これは、この映画の持つリズム(カメラの動き、セリフの速度、音量、そして常にBGM的に聴こえ続ける水の音。まるで退廃した未来の水上都市を舞台に観念的悲劇を淡々と語る感じ。
 そして、脱色されたかのように、美しい無色彩の画面。
 ものすごい多作のソクーロフの系譜の中で、観念のパノラマ的な作品に没頭していた頃のエッセンスが凝縮した作品。いかにも、製作に長期間かかっていそうな作りなのだが、この規模の作品を年1本あたりのペースで発表しているから凄い。
 
 オールナイトで90年代のソクーロフ特集なんてやったら、完走者はどのぐらいいるのだろうか。そして、「藝術鑑賞」がこれほど肉体的行為であるとは、とも思ったりする。

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2013年5月19日 (日)

既成ジャンルのふりをして、しばらくして崩す。『紅い夜明け』『火は上がり、火は鎮まる』『羊飼い』『追憶のマカオ』

『紅い夜明け』『火は上がり、火は鎮まる』『羊飼い』『追憶のマカオ』
於・池袋新文芸坐(ジョアン・ペドロメロドリゲス レトロスペクティヴ)
鑑賞5月12日早朝
 
 続いて鑑賞した残りを一気に。
 『紅い夜明け』は、フィクションが挿入されなくとも、十分にインパクトの強い映像体験が延々と成されるわけだけれども、ともすれば、見過ごすかもしれない一瞬の異物が、それまで観てきた映像の意味合いを一転させてしまうのか、なんて思うが、そこまでは行かない生のドキュメント映像の強さが勝つ。
 『火は上がり、火は鎮まる』は町の大火と自身のプライベートのかすかな心の動きの対比。同時に語られる、映されることがモラルのラインに抵触するかのような題材の組み合わせ、というのはこだわられるところなのであろうなぁ。
 『羊飼い』は、強烈な色彩構成は控えめな作品で、いわば、生活とともにある、職業というより生業のようなイメージをもっていた「羊飼い」が、そうではないのだ、ということが、なぜか、悲しいが滑稽に思えてしまった。
 そして『追憶のマカオ』。ノスタルジックかつ冷静なドキュメンタリー作品になってもよい映像に、あえて荒唐無稽なサスペンス・アクションというフィクション要素が加わる。別に規則性をかぎとろうと言うのではないが、既成ジャンルについての照れというか疑問というか、あえて実験してみる姿勢が常にあるのじゃないだろうか。なので、しばらくは、既成ジャンルのセオリー的様相を見せて油断させて、崩しにかかる。『追憶のマカオ』は、特に、作り手が彼らだったから許されているが、前知識ゼロで独立して鑑賞すれば、不完全燃焼アクションもののひとつとして理解されかねない危険性が十分にあると思う。

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2013年5月18日 (土)

大いなるネタバレから物語の遊び方まで『男として死ぬ』

『男として死ぬ』於・池袋新文芸坐(ジョアン・ペドロ・ロドリゲス レトロスペクティヴ)
5月12日(5/11深夜)鑑賞
 
 女性になることについて悩み生きる中年男と、そんな父を嫌っているようで、実は深いところで理解しているような息子のやりとりを軸に、とりまく人間関係の優しいドラマを土台に、物語が破綻しない範囲で、さまざまな表現術の実験へと旅をする。という意味のずらしが、ルイス・ブニュエル映画を思わせたりする。
 かっちりと濃厚でスリリングな物語を持った『オデット』の興奮とは別に、創作された人間関係を味わう物語で、精巧なプロットではなくロードムーヴィー的な自由さの上にある。その意味では、精巧なプロットになるはずの物語を作った上でそれを壮大に放棄して、興味を別にもっていくというアルモドバル作品の感触とは似ているようで違う(アルモドバル作品のアプローチがそもそも、マネのできないアクロバティックなストーリーテリングなので)。
 また、面白い点といえば、いわば、タイトル(原題直訳の邦題)がネタバレを宣言していて、その作りは取っていないが、まるで、ラストがファーストシーンで語られて、そこに向って物語がすすんで行く話法に似ている。そして、そこにプラスされる物語が、新たな感動も呼び起こして、複雑な構造としてのドラマを楽しむことができる。さかのぼるドラマと進むドラマを並行して味わう、そんな感じである。
 シーンで言えば、やはり森で迷う、物語としてはなくても成立するシークエンスだが、あの部分の存在が、この物語の存在理由を感覚的に最も説明する、そんな感じで、映画作家魂がほとばしり出ている。あんなシーンの挿入は、ストーリーテラーとしては、おそらく魅力で、さまざまな物語の中で、「物語に影響は与えないが、エッセンスをより強めさせるシーン」の想像は、物語遊びとして面白そうだな、とも思うし、いわば、自分の中で、自分を評論・解析する箇所を設ける、ということで、バキバキの娯楽映画などで、そんなシーンを挿
入する想像は、スピンオフ的にも、面白いだろう。

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2013年5月16日 (木)

ムーン・リバーへの抵抗と憧れ『オデット』

『オデット』於・池袋新文芸坐(ジョアン・ペドロ・ロドリゲス レトロスペクティヴ)
5月11日鑑賞 
 
 ヨーロッパの映画は、時に往年のハリウッドを夢見て、ヨーロピアン・ポップスは、アメリカのジャズや商業ポップにうっとりしたりするが、それは、それが実際に傑作かどうかということではなく、抗いがたい強い力のように思える。その中で育ってしまったのだから、という宿命か。この作品の中で大きく敬意を払われる『ティファニーで朝食を』も、傑作かどうかということを超えた、ファン以上の抗えないもののようである。
 冒頭で、命を落とす、彼がカギである青年はテクノアレンジしたムーン・リバーを聴いている。それはちょっと、まるでムーン・リバーという麻薬を少しずつ抜こうとする作業の様でもある。
 ヒロインの役割を果たすオデットは、まるで、体をペドロとルイの愛に乗っ取られたかのようである。というのも、結局、架空のペドロの愛人、そしてペドロ本人を知らずに演じてしまうことになるこの女性は、冒頭で見せる心の空虚感しか、彼女本人の素が見えないのだ。それだけ空虚だったからこそ、乗っ取られたというべきか。
 そういえば、「愛しすぎるがあまり、その対象本人になろうとする」という行為は、ありそうでいて、あまり、物語として取り入れられたことはないような気がする。ファンとアイドルという関係では日本の竹内義和の『パーフェクト・ブルー』を思い出すことができるが、カップルとしての恋愛の物語においては、それは自然のようでいて、自然ではないのだろう。
 出来上がる絵柄は全然違うけれども、ラストはやはりタルコフスキー『ノスタルジア』と同じくする世界、とつい思い起こす。そして、そこに流れる、本家のバージョンのムーン・リバーは、まるでムーン・リバー(ティファニーで朝食を)を犯しているかのようでもある。ムーン・リバーという、エロティックさからは距離を持った美しさという様式美だからこそ、その濃厚さとは対極を成すあまりにも濃い情愛の物語は、ムーンリバーの微かさ加減に、そういいつつも敗北宣言とあこがれを表してしまっている。
 
 パンフレットは「ジョアン・ペドロ・ロドリゲス レトロスペクティヴ」としてのものが発売。

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2013年5月15日 (水)

視点の立体性、そして日常に共存する犯罪。『リアリティ』

『リアリティ』於・有楽町朝日ホール(イタリア映画祭2013/5月6日鑑賞) 

 物語は、至ってシンプルで、いわば、展開すらしない物語である。そして、そのきっかけ、顛末は、リアルといえばリアルである。解説などでは、この物語は「コメディ」だ、と説くが、その解釈がすでにあまりにも残酷なような気がする。
  この物語は、ある平凡な男がひとつの強迫観念にとらわれていく物語であるが、何とも知れない冷ややかさは、どこから出ているのだろうか、と考えて、それはこの男が主人公でありながら、決して、この男目線で語られていない、ということに気づく。つまり、この男を中心とした、周辺の人物たちが彼に向ける視線を蓄積して作られている物語なのである。そして、ラストは、ここで、一見、今度こそ彼の視点の様に見えて、そうではない冷ややかな神的視点であったことが分かる。  
 人間観察の映画であり、そこには情を入れることはない。音楽は、なぜデスプラなのか、と思っていたが、それまで組んでいたバンダ・オシリスであったりテオ・テアルドのサウンドでは、この音自体が突き放したような乾いて絶望的な美しさであるがために、とてつもなく悲劇的印象に作品は向ってしまうのではないか。そこで、抽象ではなく、具体的、そして深い意味を持ちつつも、表面としては豊かに明るいサウンドを作り出せるデスプラを呼んだのだろう。結果は、まるで、音楽のみは、男の主観にたっているという立体的な感覚を作り上げることになり、とてつもない心理的ハーモニーをもつ作品になった。 ガローネの冷徹で粘液質な、対象の捉え方は、さまざまなジャンルで、そのジャンルのもつイメージを覆すことになる。そして、この危険なアンニュイ感こそが、ガローネ作品の手触りである。  
 
  追記。物語設定で気になったのは、町の平凡?な市民が、生活のたしとして、詐欺に手を染めている、という状況である。ショッキングな事件や悲劇的現状として描くのではなく、日常の中に犯罪が共存している。この日常の中の犯罪、という描き方は何だ? この感じは、見すごすわけにはいかない。

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2013年5月13日 (月)

音楽はデイヴィッド・シルヴィアンなのである『シャーリー リアリティのビジョン』

『シャーリー リアリティのビジョン』
於・新宿パークタワーホール(イメージフォーラム・フェスティバル2013)
 
 いわゆる「実験映画」なるものを機会を設けて観る、という行動をとったのは、多分、20年ぶりぐらいではないかと思う。自分にとっては、「実験映画」といえば伊藤高志『spacy』でありパトリック・ボカノウスキーの『天使』である。ため、あくまで映像の実験であって、具体的な社会性と直接つながる、という発想は今までなかった。
 『シャーリー』は、この取り決めからは外れてはいけない規則を自分の中に持っている。それは「エドワード・ホッパーの絵画の中の世界である」ということである。絵画をモチーフにした劇映画はいくつかあるが、それらは、その絵画をめぐる秘話みたいなものであって、『シャーリー』が根本的に異なるのは、ホッパー自身の物語とは、直接的に接点は持たず、絵画の構図の中で生きるシャーリーという架空の女性の物語である、ということだ。
 徹底した人口的な世界は、フェリーニ『そして船が行く』やラース・フォン・トリアーやピーター・グリーナウェイの諸作にも、それに似た発想はあるけれども、『シャーリー』の現代史的なものとの密接さはハンパではない。こういったアート・フィルムは、物語はあっても、観念的に終始する印象があるが、これは、正確な年代に則っての、時代の状況と正確に調整しようとする、アーティストというよりも学者的なものがそこにある。
 ホッパーの中の女性はシャーリーと名乗り、波乱の人生を生き、時代のラジオ・ニュースや、なんと彼の存在自体が現代音楽のようなデイヴィッド・シルヴィアンがアコースティックなバックで歌ってくれる。(音楽担当は、クリスチャン・フェネスと共同名義)

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まるで戦場の方程式のような『恐怖と欲望』

『恐怖と欲望』於・オーディトリウム渋谷(5/5鑑賞) 
 
 自分の記憶の中では、こんな設定は初めてなのだが、というのは、登場人物が、自分たちは架空の世界の中の人間である、ということを自覚している、というところから始まる、ということである。
 そこで、この映画の中で行われることはある意味、普遍性がある、ということを告げる。つまり、戦争に至ったそれぞれの状況は関係なく、戦争というものは結局こうなのだ、ということである。なので、敵地に不時着してしまったある小隊(という設定)の行動を観察する。そこには結局、絶望であったり、女性を人間とみなさない扱いであったり(製作年代の話もあることだろう)、個人的には何の感情を持っているわけではないのに、殺し殺される運命であることを享受せざるをえない冷静さであったりである。
 これらは、箱庭的に展開するわけだけれども、ゲームの興奮では全くない。音楽も、戦争映画というよりもホラーに使用されるスタイルを踏襲している。
 考えれば、壮大な戦争映画の中の1エピソードとして組み込まれそうな時間数であり、コンパクトさで、習作的なものなのであろう、と確認することができる。
 
 特別上映的な上映ということもあってか、パンフレットに準ずるものは発行されていない様子。

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2013年5月10日 (金)

ヤマ場の「集中」は『ペーパーチェイス』を思い出した『舟を編む』

『舟を編む』於・川崎チネチッタ 
 
 徹底した、日常系映画である。日々は過ぎ、それに伴う諸事は起るけれども、特筆すべき、物語となるべき事件は起らない。日常系は、アニメでは、主流のうちのひとつになって久しいわけだが、実写の「映画」では、なかなかまだ、なじむための模索がなされている途中段階で、アニメの日常系が先にジャンルとして確立されえたのは、舞台の独自性を持たせられるか、とキャラクターの個性は、実写よりも、より際立たせることができる、その2点があると思うのだが、映画『舟を編む』は、その2点をクリアーしていると思われる。舞台の魅力ある特異性は、映画の舞台としては、なじみがうすい、華やかではない部署の編集部の姿がとにかく強い。そして、キャラクターは、ここは工夫がなされたと思うが、多くが、「似合わなさそう」と「でも意外に面白いかも」のすれすれの配役がなされていると思う。とすると、ここには、日ごろの「なじみの俳優」である点に甘えている部分がかなりあることになるが、それはそうだろう。
 辞書編纂という、一見、他の職業にない異色さが前面に出るかと思えば、それよりも人間関係メインなので、この部分は、もともと小説ゆえに楽しめる箇所なのかもしれない、と考える。気になったのは、私生活を描く人間と描かない人間が極端で、オダギリジョー側は、助演側ながらかなり描きこみ、また伊佐山ひろ子や小林薫の部分は、それが魅力とばかり、謎の部分を多くしている。
 日常的な物語の中で、何をクライマックスとしてもってくるかで、ヤマとなる大掛かりな最終確認作業をもってくるわけだが、そこでの、「集中」を表すための描写。あの「一心不乱にそのこと以外は考えない状態になってます」描写は、『ペーパーチェイス』を思い出させる。
 映画の初めから終りまで、決して性格を変えることがない松田龍平の演技は斬新な気がする。今までの映画作りだと、シャイさが少しとれる形になってしまいがちだが、あまりにもシャイなその性格をそのまま映画は肯定し、広義での「がんばれ」を決して言っていない。この感覚こそが、日常映画が普通になっていく可能性の兆しと思えた。
 
 パンフがものすごい。127ページ!
  ところで、松竹は、最近、急に、パンフ編集にハッパをかけているようである。その昔、松竹系のパンフは、東宝系に比べてあまりにもそっけなかったことを思うと、猛省が今、なされているのだと思う。そして気づくのは、編集者の個性だろうか。アクション系パンフで、注目されつつある中居雄太氏のように、そこで自覚を持たせているのかと斬新である。『舟を編む』パンフ編集は、宮部さくや、高山理樹両氏。主要スタッフ・キャストのインタビュー(それぞれ最低1ページ以上使っている)、コラムは角田光代氏の、原作も含めての印象論、門間雄介氏が時代背景、辞書編集者三方の鼎談、映画評論家・藤井仁子氏のこちらも印象論、撮影日誌、黒住光、中原昌也氏の対談。音楽の渡邊崇氏は、ロング・インタビューがないのだが、それに近いものが、サントラのライナーにあるので、そちらを参照のほど、ということだろう。そして、シナリオ採録、そして、すばらしいのが、最後に、ほぼひとセリフ、ひと出番しかないあたりの脇役の俳優諸氏のプロフィール(写真つき)があり、これこそ斬新で、折角分厚いパンフが可能ならばやるべきページであったろうと思う。パンフ大賞がもしあるとすれば、余裕でノミネートの労作。

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2013年5月 9日 (木)

積極的に関係しあわない登場人物 『アフガン発・貨物200便』

『アフガン発・貨物200便』於シアター・イメージフォーラム
 
 前日の『私も幸せがほしい』と合わせて、この監督の作品のかもし出す強烈なものは何だろう、と思って、それは、おそらく、確信犯的な朴訥さである。今回の作品も、映画全体が終わってみれば、この上もないショッキングな大事件を描いていることになるのだが、大事件感があまりにもないのである。
 『アフガン発』に限って考えれば、さほど壮大なスケールの全貌、ではないのだが、関わった登場人物たちそれぞれから見た状況があまりにも各々異なることが分かり、おそらく、誰も、自分にいったい何が起ったのか、知らされないままに終わっているのである。この感覚は、なにゆえに出てくるのか、と考え、おそらく、登場人物たちはみな、「なぜ」を考えない人間たちである、ということが考えられる。とてつもないことが起っていつつも、なぜか、巻き込まれる物事に抗わずに進んでいく。今回で言えば、唯一、小屋の年配女性の行動は抵抗になるが、推理ゆえじゃなくて、衝動ゆえの行動のように見える。この衝動ゆえの抵抗は、『私も幸せがほしい』の全裸になっても歩き続けた女性にも通ずるものがある。
 ショッキングさを感じない点は、決して、映画手法的な「ため」を行っていない、ということもある。自然に進むが様に進んでいる。映画の中の事件の多くは、「観客」のために演出された事件であるがため、時間の進み方は自在にゆがめられ、物事にアクセントがつけられるのが普通なのだが、この作品には、その演出的時間の歪ませが多分ないのである。そして、人物の言動の全体的なやや不快さもあるかもしれない。まるで、全員が自業自得なので、全体を俯瞰して冷徹な笑いでも含みながら見るしかない方向へと、観客は誘導されるのではないか。
 なので、映画が終わるや否や、別に、眠っていた、という意味ではなく、不思議な精神誘導をされていた感じがあるため「あれあれあれ、自分は今、何を見ていたんだ」感に襲われるのである。
 
 そして、そう、飲酒量である。ベッドに縛り付けられた娘までもが、グビグビ飲んでいるじゃないか。

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2013年5月 7日 (火)

映画的な醍醐味と距離を取る反骨さ『天使の分け前』

『天使の分け前』於・銀座テアトルシネマ
 
 ケン・ローチの作品といえば、シリアスに考えさせる作風になれているものだから、当初、更正しようと地味にがんばる主人公に、お前なんかダメだ的な邪魔が次々入る序盤は、おなじみの展開で、このテンションが持続しつつ、主人公がマジメに精進する物語なのか、となんとなく考える。いつものケン・ローチならば、そうであろう。そして、なんらかのトラブルが予期せずあって、結局は、主人公は幸福を手に入れることができずに終わる、という形。結果的に、この映画はハッピーエンドのヒューマン・コメディの様相を呈して終わっているが、それは綻びではなく、おそらく、仕掛けとして、引っかかるものがある。
 おおげさにいえば、この物語は、フィルムノワールじゃないかとさえ思える。主人公たちは、いわばフェアじゃない手段で成功を手にするが、このアンフェアさは、必要悪というのも小さい、「じゃあ、フェアで突破する手段はあるのか」というもっともな問いがある。人生をかけつつも、些細で地味な駆け引きは、映画作品のスペクタクルにはおおよそ似合わない絵のないものであるが、その「映画的躍動からは距離を置いた地味というアンチ」がここにはある。『フルモンティ』『キンキー・ブーツ』的な一般うけ的お下劣息抜きな展開も見せて、決して、思考の間をじっくりと置かせるアートにもしない。そして、面白いのは、この映画における主人公の勝利は、敵を打ち負かすことでも、スターになることでもなく、「職を得る」というパーソナル極まりない、すごくひっそりとしたものである。
 人々には、わからないうちに、かすめとり、空気のように消えた少量の命の水こそが、天使の分け前である、というダブルミーニングは、そのたとえを主人公が知ったときから、彼のひそかな大作戦が始まる、といううますぎる趣向でもある。ローチならではの「地味さ」をこそじっくり楽しんで味わう不思議な作品である。
 
 パンフレットは、監督のインタビュー、イギリス映画といえば、の大森さわこ氏の印象論、そして、興味深いのがキャストのインタビュー。そして、スコッチウイスキーについての簡単な知識と、架空のウイスキーのありうる可能性についてウイスキー評論家の土屋守氏が「モルトミル蒸留所」を解説。歴史に根ざし、フィクションをどこに膨らませたか、が理解できる。

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2013年5月 6日 (月)

個性を封印し、飲酒しまくる登場人物たち『私も幸せがほしい』

『私も幸せがほしい』於シアター・イメージフォーラム(イメージフォーラム・フェスティバル2013) 
 
 一見、タルコフスキー『ストーカー』を思い出すが、あくまで、こちらは、その地にたどり着くまでの物語。物語といっても、それがリアルといえばリアルなのが、登場人物たちが、素性が分からず、かといって、たずねあうこともなく、つい、自分について吐露してしまうこともなく(一箇所、主人公らしき男が唄らしきものを歌うところだけか)、なので、道中は男3人女1人となるが、この女性だけは、男たちと違う行動をとることになるが、男3人は、区別がつかないというか、映画自体が、区別をつけようとする努力を全くしないかのようである。それが特徴で配役されたかのような具現化された「平凡な男たち」が、幸福の地に向う。道中の風景にしても、華やかさはもちろんないが、荒涼として絵になることを歌うこともない。
 バックの音楽は、男が作ったかのような、フォーク・ロック的な、歌詞のついた歌。これもずっとよどんだ怒りのような調子の歌がずっと強弱つけずに予告なく時折流れる、といった調子。これが、本当のリアルさかもしれないのは、これが全く違和感を感じず、むしろ、オフビート・コメディ的なおかしみを持っていることである。
 そして、要注意は、登場人物たちの飲酒である。この物語では、クルマに乗ってから、ハンドルを握っている男(彼も、ハンドルを握るまでは、ビールを飲んでいたはず)をのぞく3人は、ひたすらに回しのみしている。途中も、食堂跡とおぼしきところからまずい?ウォッカを拝借している。
 登場人物たちの生活内での飲食というものは、語られるものは語られるが、そうでないものは、極端に語られていない気がするので、実は、このぐらいの飲酒量が存在しているドラマはあるのかもしれないとは思う。だが、ここまでり飲酒の描写は、ハンパではなく、「映画内人物たちの飲食」については、日ごろからも注意すべきなのかもしれない、なんて思ったりする。しかし、この映画の飲酒はそれ自体ホラー並だ。

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瞬時のケータイ情報の重要性の描きこみが凄い『ウイ・アンド・アイ』

『ウイ・アンド・アイ』於・シアター・イメージフォーラム 
 自らの作風、というよりも、取材を重ねての、取材の対象(ハイスクールの学生たち)の空気にリスペクトしたタッチでの映像化。この意気込みは、先日の園子温の『希望の国』を思い出す。徹底して、自己の作家性的なものは、まず排除しよう、という試みだ。だが、今回の題材においては、ミシェル・ゴンドリーという、現代のポップ・カルチャーの中心にいるアーティストであったから、まず、取材が可能(ティーンの子達が、心を開くとかそういうこと)だったんじゃないか、なので、やはり、これはゴンドリーだったからこそ可能だった企画なのだろう、とは思っていた。
 ヒップホップ的なリズムをそのまま映画のリズムに持ち込む、あまりにもの今の職人らしさは言うまでもないと思うが、びっくりしたのは、今、進行するリアルな画像と、彼らの会話を補足するが如く、ものすごく自然にケータイの動画画像が頻繁に挿入される、その自然らしさである。
 今の、とくにケータイが当たり前世代の会話をリアルに描こうとしたら、ケータイの画面上で行われていることも描かないといけない。ケータイに瞬時に現れるさまざまな事象によって、会話がどんどんスライドしていくからだ。会話をせずとも、多くの人間がその情報・思想を無言のうちに共有していく過程の重要性は、東浩紀『一般意志2.0』を読んだときに感銘を受けて以来、感じ続けているが、『ウイ・アンド・アイ』の登場人物の彼らの感情の寄り添っていく様は、表情では素直に出さずに茶化してしまう彼らのケータイの中での情報交換がつなげていく。この「きっかけ」がとにかく瞬時ということをちゃんとゴンドリーは分かって、大ごとじゃない様に進めていく。しかし、ラストは、ちゃんと大ごととして、それを提示する。
 
 パンフレットは製作されていないようで、プロフィール・メインのプレスと、フランス語版のインタビュー・ブックが販売されていた。

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2013年5月 5日 (日)

「恐怖」以外の「美学」を探している『死霊のはらわた』

『死霊のはらわた』於・ソニーピクチャーズ試写室(鑑賞日4月23日)
 
 もはや、すでに極めている作品のリメイクとなると、そこに尾ひれをつける、ということをするしかないのかな、と詳細な心理設定については思う。その登場人物の関係設定などの複雑さドラマ性から、ロケ・バニョスの、ピノ・ドナジオばりの美しいフレーズも創作しての堂々としたプロの作曲家の仕事然としたしっかりとしたオーケストラ・スコアが重なることとなり、アイデア勝負の小品には戻れないのだ、という寂しさはあったりする。
 「怖さ」については「痛みの共感」であり「ビジュアルとしての嫌悪感」であり「その執拗さ」でやはり構成されているので、新味はないと思う。味わうべきは、血であり雨でありシャワーの熱湯であり、の「液体」の落ちる様流れる様のある種の美しさであろうか。「恐怖を味わい中」ははっきりわかりつつ「それ以外のもの」を探し、神経を集中させるある演出の周辺にあるもの、の引き出しの多さ勝負なのだろうと思う。

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ハードボイルド様式美に酔いまくる『勝負は夜つけろ』

『勝負は夜つけろ』於・シネマヴェーラ渋谷(特集上映:復活!!久保菜穂子)
 
 絵に描いたような「どハードボイルド」な一作だが、生島治郎が原作(『傷痕の街』)とあらば、教科書的ハードボイルドも納得する。ハードボイルドといえば、自分は、登場人物たちの心理描写をかぎりなく排して、行動や、推察のみを描くものとイメージしていたが、この作品などを見ると、かっこつけて見せれば見せるほど実はそうじゃないウエットな感じがでまくっている。というか、本作だと、田宮のナレーション抜きでもおそらく理解可能なのだが、入れることによってのヤブヘビ感が出ていて、憎めないところである。
 推理小説としてはどうか、といえば、もともと登場人物が非常に限られたプロットなので、自ずとパターンは狭まるわけで、ミステリーはあくまで味付けにすぎず、やはり、このジャンルの様式美を味わい倒すためのアクセサリーとしてプロットは存在する。
 田宮が久保とクラブで会うときに、ダンサーが後ろで踊っている図をバックに、ふたりの姿が映されるショットあたりは、この映画がどこを目指すかをビシッときめていて、ここまで徹底すれば、文句のつけようもない。 
 ところで、生島治郎作品といって、自分個人的には、愛読したものが思い当たらない。妻だった小泉喜美子の『ダイナマイト円舞曲』は読んだ記憶がある。
 『追いつめる』は読んだような気がするが、内容は思い出せない。
 ハードボイルドというジャンルが当時、どちらかというと苦手で敬遠していた感じがする。当時から、様式美というより、破格な物が好きで、ハードボイルド的なものでは草野唯雄が好きだった。『もう一人の乗客』は名作だった。
 生島治郎は、それよりも確か水曜10時の『科学捜査官』のあと番組として始まった『特捜記者』の原作のひとり(生島治郎・佐野洋・三好徹・結城昌治・五木寛之)としてのインパクトが『非情のライセンス』よりも、ある。

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2013年5月 4日 (土)

シリアスドラマの中で繰り出される娯楽テク『骨までしゃぶる』

『骨までしゃぶる』於シネマヴェーラ渋谷(特集上映:復活!!久保菜穂子)
 
この世界を舞台にした日本映画は多くあるという知識はありながらも、それらの作品にリアルタイムでは接する機会がなかったこともあって、「くるわ」を舞台にした映画を見たのは、記憶でははじめてである。貧しい村の生まれで、器量よしだったために、売りに出されて、遊郭で人生を費やし、そこから抜け出すまでのある娘の物語で、これ以上ないほど、そしてそれぞれの長さを測って作られたかのごとく、限られた時間内で、その世界の簡単なパノラマも見せつつ、大団円にもちこみ、疑問は残さずに終える。娯楽映画である。
このジャンルの映画の特徴なのか、この作品の独自性なのかは不明だが、ストレートに描くと暗鬱な悲劇にならざるをえないからだろうか、とくにこれは喜劇ですよ、という主張は出さずに、ドタバタ喜劇的な演出が、ところどころで挿入される。決して、それは笑いを誘うものとして用意されるのでも、自然な画面作りの中でそれが登場するため、シラけさせずに観客をリラックスもしくは集中をはぐらかす作用を持たせているのだろうと思う。

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2013年5月 1日 (水)

ドラマではなく状況の幸福な空気を感じ取る『ペタルダンス』

『ペタルダンス』於・新宿武蔵野館
 
状況的には、『tokyo.sora』に似ているのだけれども、この映画の欲するところは違って、ある瞬間瞬間を見せたくて、見逃したくないために、その瞬間をとりまく状況をすべておさめた、そんな感じの映画である。
設定としての「ドラマ」はあるのだけれども、その「ドラマ」の上で、ひたすらたたずむ4人の女性たち。この女性たちがたたずんでいる間の、緻密な演技とも、即興ともとれる動きをおさめている。
このタイプの作品は、なんと言っても是枝監督の『ディスタンス』が自分の中では燦然と輝いている。あの映画のただならない空気とは、ちょっとちがって、やはり決して明るい空気の世界ではないとはいえ、希望を見出そう側の明るさが、『ペタルダンス』にはある。
まるで、大長編のラストシーンのみを独立させたみたいなこの作品は、だから、本当は、多くの物語の中で、このぐらいの理想さでもって描いてみてほしいものでもある。この時間の流れ方は、実際の「ドラマ」としては「リアル」であろうし、「何かがつかめたかどうかも分からない」結果も、リアルである。そして、そのリアルさは、例えば、自分にも、こんな感じの時間の感じ取り方をした記憶があったろうな、と思ったりもする。それは、男女問わず、人数問わず、海辺かどうかのロケーションも問わず。
石川監督の、特に『好きだ、』と『ペタルダンス』で気づいたのが、極力、画面の中で、色彩の強弱を作らないようにしようとしているな、ということで、冷ややかな建造物と、人工的なものがない浜辺の、そしてクルマの色も地味なこの感じは、全体を通しての「優しさ」なのだろうとは思う。余計な刺激を与えたくない、というような。
とすると、菅野よう子音楽は、ことのほか、カラフルなのであった。菅野よう子音楽にカラフルさを抑えろ、と要求すること自体に無理はあるのだろうけれども。
 
パンフレット。映画自体が詩みたいな映画なので、どの原稿も、それっぽくなってくる。まさに詩みたいな、冒頭の石川監督の文章が、もうかなり語っていて、結構、前知識的なものは存在せずとも、と思う作品に、近衛はな氏の原稿、相田冬二氏による監督インタビュー(演技論的に楽しめる)と、菅野よう子氏のインタビュー、と、感覚の作品でありながら、その感覚を細かく解説することも可能なのだな、と思わせる結果になっていて、それ自体が、ちょっとした文学を読んだような心持にもなる。

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