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2013年5月26日 (日)

割り当てられているキャラクターを演じ続けること『女であること』

『女であること』於・神保町シアター(文豪と映画 川端康成「恋ごころ」の情景)鑑賞5/19
 
 原節子の映画をまだまだ見ていないので、この映画における、その、らしさらしくなさはわからないが、自分が抱いていたイメージは、「性善説を信じる」的な性格が柱にあるものを思っていたので、『女であること』における「すべてお見通し」的な、ややダーティな面も見せる性格は新鮮だった。
 また、この映画における、原節子と久我美子、そして香川京子の関連性が、先日見た『女囚と共に』とまるまる重なる。この3人のベーシックなところの性格付けは、ほぼ同様であったのだろうか、そして、この3人であれば、必然的にこういう描き方になる、ということなのだろうか。
 森雅之の演じる、あまりにも頼りなく、それも女性関係にだらしないが、上品ではある、というそのキャラクターも、同様で、いろんな作品がすべて繋がっていく。この「ある程度、暗黙の了解的キャラクター」が個々成立しているために、さまざまな説明描写を省略することができる、というのはあるのだろうな、とは思った。なので「都度、全く違う役どころに挑戦したい」という野心的な魂の俳優たちの発言も分かるが、「常にある程度、固定したキャラクターを引き受ける」という態度も、決して無意味なものではないのだ、ということがわかる。
 「あの子、あなたに接吻したんでしょ。誰にでもする子なのよ。私も接吻されましたよ」旨の原節子のセリフは、なかなかダイナミックでありました。

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