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2013年5月21日 (火)

非ファンタジー的ファンタジー『日陽はしづかに発酵し…』

『日陽はしづかに発酵し…』於・早稲田松竹(5月12日鑑賞)
 
 中央アジアを舞台にした映画をまだそれほど本数ぜんぜん見ていないわけだけれども、とてつもなく特殊な表情をもつ景観である。中央アジアといえば、ずっと宙をさまよい続けているような不思議なカメラワークが印象に残った『ルナ・パパ』という映画があったが、あれは、完全にスウィートなファンタジーだった。なので、この土地を舞台にすると、自然とカメラワークはユニークになる、というのは考えつつも、今回は、捉えられる世界は、ユートピアでは全くない。
 この映画の物語の中では、不可思議なことが次々に起っているが、それらは、とにかく熱く不毛な地の中で耐えるように生き延びている身にとっては、だから何、ぐらいの、不可思議さに意味を与える気を起こさない。激しい抵抗ではなく、おそらくこちらが正しいのではないかぐらいの怪しげな確信で、生き延びるための行動らしきものを起こしているが、それも、どうしてという根源的な問いになると、絶望的にならざるをえない。
 そう、この映画の中で起る不可解な物事について、観ていた自分は、気づきながらも、旺盛な好奇心につながることを感じなかった。どこか、それは起っても不思議ではないことを語られているだけ、と感じていたからだと思う。SFやファンタジーは不思議と認知して初めて味覚が確かめられるので、まるで風邪を引いたときの舌の感覚のようになっている。ファンタジーをファンタジー然としては語らないこと。この感覚は、興味深い。

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