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2013年5月15日 (水)

視点の立体性、そして日常に共存する犯罪。『リアリティ』

『リアリティ』於・有楽町朝日ホール(イタリア映画祭2013/5月6日鑑賞) 

 物語は、至ってシンプルで、いわば、展開すらしない物語である。そして、そのきっかけ、顛末は、リアルといえばリアルである。解説などでは、この物語は「コメディ」だ、と説くが、その解釈がすでにあまりにも残酷なような気がする。
  この物語は、ある平凡な男がひとつの強迫観念にとらわれていく物語であるが、何とも知れない冷ややかさは、どこから出ているのだろうか、と考えて、それはこの男が主人公でありながら、決して、この男目線で語られていない、ということに気づく。つまり、この男を中心とした、周辺の人物たちが彼に向ける視線を蓄積して作られている物語なのである。そして、ラストは、ここで、一見、今度こそ彼の視点の様に見えて、そうではない冷ややかな神的視点であったことが分かる。  
 人間観察の映画であり、そこには情を入れることはない。音楽は、なぜデスプラなのか、と思っていたが、それまで組んでいたバンダ・オシリスであったりテオ・テアルドのサウンドでは、この音自体が突き放したような乾いて絶望的な美しさであるがために、とてつもなく悲劇的印象に作品は向ってしまうのではないか。そこで、抽象ではなく、具体的、そして深い意味を持ちつつも、表面としては豊かに明るいサウンドを作り出せるデスプラを呼んだのだろう。結果は、まるで、音楽のみは、男の主観にたっているという立体的な感覚を作り上げることになり、とてつもない心理的ハーモニーをもつ作品になった。 ガローネの冷徹で粘液質な、対象の捉え方は、さまざまなジャンルで、そのジャンルのもつイメージを覆すことになる。そして、この危険なアンニュイ感こそが、ガローネ作品の手触りである。  
 
  追記。物語設定で気になったのは、町の平凡?な市民が、生活のたしとして、詐欺に手を染めている、という状況である。ショッキングな事件や悲劇的現状として描くのではなく、日常の中に犯罪が共存している。この日常の中の犯罪、という描き方は何だ? この感じは、見すごすわけにはいかない。

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