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2013年5月16日 (木)

ムーン・リバーへの抵抗と憧れ『オデット』

『オデット』於・池袋新文芸坐(ジョアン・ペドロ・ロドリゲス レトロスペクティヴ)
5月11日鑑賞 
 
 ヨーロッパの映画は、時に往年のハリウッドを夢見て、ヨーロピアン・ポップスは、アメリカのジャズや商業ポップにうっとりしたりするが、それは、それが実際に傑作かどうかということではなく、抗いがたい強い力のように思える。その中で育ってしまったのだから、という宿命か。この作品の中で大きく敬意を払われる『ティファニーで朝食を』も、傑作かどうかということを超えた、ファン以上の抗えないもののようである。
 冒頭で、命を落とす、彼がカギである青年はテクノアレンジしたムーン・リバーを聴いている。それはちょっと、まるでムーン・リバーという麻薬を少しずつ抜こうとする作業の様でもある。
 ヒロインの役割を果たすオデットは、まるで、体をペドロとルイの愛に乗っ取られたかのようである。というのも、結局、架空のペドロの愛人、そしてペドロ本人を知らずに演じてしまうことになるこの女性は、冒頭で見せる心の空虚感しか、彼女本人の素が見えないのだ。それだけ空虚だったからこそ、乗っ取られたというべきか。
 そういえば、「愛しすぎるがあまり、その対象本人になろうとする」という行為は、ありそうでいて、あまり、物語として取り入れられたことはないような気がする。ファンとアイドルという関係では日本の竹内義和の『パーフェクト・ブルー』を思い出すことができるが、カップルとしての恋愛の物語においては、それは自然のようでいて、自然ではないのだろう。
 出来上がる絵柄は全然違うけれども、ラストはやはりタルコフスキー『ノスタルジア』と同じくする世界、とつい思い起こす。そして、そこに流れる、本家のバージョンのムーン・リバーは、まるでムーン・リバー(ティファニーで朝食を)を犯しているかのようでもある。ムーン・リバーという、エロティックさからは距離を持った美しさという様式美だからこそ、その濃厚さとは対極を成すあまりにも濃い情愛の物語は、ムーンリバーの微かさ加減に、そういいつつも敗北宣言とあこがれを表してしまっている。
 
 パンフレットは「ジョアン・ペドロ・ロドリゲス レトロスペクティヴ」としてのものが発売。

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