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2013年6月30日 (日)

スペクタクルだが、観るのは細やかな心情表現『インポッシブル』

『インポッシブル』於・新宿武蔵野館(鑑賞6/24)

 ものすごいディザスター映画のように見えて、この物語が全く違うのは、この映画は、一家族の数日を描くものである、というハッキリした姿勢があるからで、巨大な背景がありつつも、強烈な一点集中で見せる。なので、スペクタクルであることはあるのだが、物語は、この家族5人のメンタルにのみ存在するのである。
 出来事のみを反芻してみると、ラストにたどり付くまでの道筋は整然としているし、そこに、いわば驚くべき事実、真相というものがあるわけではない。
 ものすごい絶望感を共感させるためか、の初めの、その瞬間の描写はおそらく生々しい。感覚が一旦停止してしまうが如くの無音ブラックの世界。巻き込まれたときの、容赦ない音響の数々。今回の物語の映画化の動機ならではに許される手法であるべきだと思うし、だからこそ以上に、今後も、いろんな「災害映画」がもし作られるとしても、その動機にしろ描き方にしろ、この動機ゆえにこう描く、という理由付けははっきりさせないと、映画としてのよりどころは失っていくだろうとは思う。
 後半、希望が見えた時点からのベラスケスのメロディは、モリコーネというより、ちょっとオルトラーニを思わせた。美しいメロディだが、そこは真摯に向き合って、間違いない仕事ではあると思う。
 もうひとつ、バヨナ監督について。『永遠の子どもたち』そして『インポッシブル』の2作について、おそらく多くが共通項を見出してしまうであろう、母と子の物語。そして、この「母性」が、子供全体に及んでいることを意識しているところ(他人の子供の幸福をも祈る意味)まできっちりとおよばせているところ。

 パンフレット。削りたくなかった、といわんばかりに、少ないページ数の中に、ぎりぎりの余白も取り払っての文字要素。まず、スタッフ、キャストのフィルモグラフィーは詳細を極め、特に現代スペイン映画のスタッフで固められた部分は、日ごろあまり接しない部分なので詳細はありがたい。インタビューは主演3人、監督。そしてプロダクション・ノートだが、いずれもなかなかの文字数。
 コラムは、三方。宇野維正氏(映画ジャーナリスト)が、監督よりの作品論、杉谷伸子氏(映画評論家)が俳優よりの作品論、大場正明氏(映画評論家)が描き方についての論考になっている。
 さて、三方の、現実の事象の論考ではなく、あくまで映画論が掲載されるのは、これはこれでありと思うが、ふと、思ったのが、もちろん、観ていない映画のパンフレットを読むことにも意味はあるが、パンフレットは、まだその楽しみ方は一般化していない(映画館以外の入手ルートも少ない)ので、補足知識が必要な場合に、それについて書かれるのは、もっちも初めの理由と思うが、それ以上に、「この映画はすばらしい」ということを理論武装したのみの原稿が並ぶことに疑問を覚えずに入られない。というのは、例えば、それは、すでに購入したCDについているライナーノーツの内容も同じなのだが、「この映画を見て、感動した人たちの、次のステップ」はどこかに明解に知らされるべきなのじゃないだろうか、でないと、その読者にどれほどまでの意味をもつものだろうか、ということだ。もちろん、いい映画にも、いろんな見方があるので、例えば今回の作品であれば、大場氏の論は「こういう見方もある」論で、これは、はっきりとしているが、「そんな映画は、例えば、これも」と進みたいところで、ちゃんと大場氏の論は、次に提示される作品がある。これは、映画パンフレットの中での映画論の理想の形ではないか。と。

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原題と邦題は視点が逆?『ファインド・アウト』

『ファインド・アウト』於・新宿武蔵野館(鑑賞6/24)

 この映画を良質サスペンスぐらいの考えで見ることには抵抗があって、というのも、この映画の全貌を最終的に思い起こす限り、どこがポイントかというと「被害者でしかない自分が、信じてもらえないばかりか、犯罪者扱いされる」というところにあり、それがスパイものとかではなく、変質者に襲われた被害者の話、というところの恐ろしさである。眉唾になってしまうのは、ヒロインが、行く先々でその都度、違う嘘をついて急場をすり抜けていくことで、これが「ドンデン返しありミステリー」と勘違いさせてしまう、いらないワザのような気がしないでもない。
 この「真相」については意外な展開にはならない(「真相」以外には、意外な展開がある)この物語は、現実性も帯びている。例えば、日本でも、さまざまな、警察に訴えていても・・・という事件は報道されているし、それは氷山の一角のような気はするし、そうなると、この作品のヒロインのような対峙法しかなくなってくるのじゃないか、という、現実への皮肉をこめた提示のように見えてくるのだ。
 偶然、アマンダ・セイフライドが超メジャーになったために公開の運びとなったのだろうと思うが、未公開DVDスルーにならなくてよかった作品だとは思う。
 
 タイトルについて。原題の「Gone」は「行方不明」ぐらいの意味合いと思う。もちろん、いろんな意味を含む、といいたくて、シンプルなタイトルにしているのだろうけれど、ひねった解釈はないと思う。邦題の「ファインド・アウト」は真相を知る(見つける)など、結果の話なので、いかにもドンデン返しミステリーですよタイトルになってしまっている気がする。まあ、そうしてでも見せたい、という心意気はアリかもしれないが。

 パンフレットは、プロダクション・ノート中心、インタビューも、それぞれを褒め称えるだけのパターン。コラムはよしひろまさみち氏(映画ライター)のアマンダ・セイフライドに焦点を当てるのかと思いきや、作品の印象論で、セイフライドの俳優論でもない。

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2013年6月28日 (金)

ドラマ性を拒否する女たちのクールさ『晩菊』

『晩菊』於・神保町シアター(松竹三羽烏 華麗なる映画人生)

  「その後の物語」感の強い物語である。物語の輪郭がわかるや、思い浮かんだのは『スウィート・ヒアアフター』であり『トスカの接吻』である。
 かつて、お座敷を華やがせた女性たちが、引退して、現在を生きている。昔の話に花が咲くと、生き生きするのはもちろんだが、この映画に登場する女性たちにひきつけられるのは、そんな状況において、ちょっとしたグチはいいつつも、現在の生活も楽しんでいる様が見て取れるからである。
 多くのドラマならば、そこでしめっぽくなってもおかしくない、子供たちとの別れや、だらしなくなった昔の男の現在を見るにつれても、それさえも「楽しかった過去をありがとう」とでもいうべき心持で対している。
 華やいだ生活は過ぎた時代のため、彼女たちは、自分たちがことを荒げても不思議でない事象をさらりと受け流す。なので、心地よく、粋な時間が流れていくかのように、映画は進む。
 男たちのだらしなさは、女たちの引き立て役だろうし、そんな状況を演じるのも、楽しかろう。
 何も起らない日常のスケッチのようで、そうではなく、考えぬかれたエネルギーによって、ドラマは未然にふさがれているのだ。ドラマが起らないことの心地よさがよしとするならば、「心地よくないドラマ」こそがストーリーテラーに最もあってはならないことなんだろう、と粋に諭されている気さえする。

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2013年6月27日 (木)

原節子の周りには、いつも似た人間関係がある。『めし』

『めし』
於・神保町シアター(特集・松竹三羽烏 華麗なる映画人生) 鑑賞6月23日

  心地よく安定した幸福感と思いつつ、それは、いつしか壊れるかもしれない、という理由なき不安は、おそらく、一組の男女からのみ成り立っている「家庭」のシンプルゆえに、いかようにも深くもぐりこませられるドラマ性を作ることが可能で、それ、つまりドラマは、原節子が不安げな表情を土台に、それを隠すかのような、少しひきつった微笑みを見せることで、それはお約束事のように、回転し始める。
 原節子というキャラクターは、微笑んでいるが、心の中は、きっと・・・・というような箇所が最もど真ん中である。彼女の周りには、優しく優柔不断な連れ添いの男、そして、その男にもある種のそぶりを見せて奔放に楽しむ少女といってもいい娘がいる。この三人の人間関係が、原節子ドラマのパターンであろうか、と思う。ドラマによっては、その要素は、バリエーションを見せるが、原節子自身がぶれることはない。
 最も日常的なのだろうな、と思われるのは、このヒロインが、夫との生活以外に、少し心をはせてみて、どうなるかを実行しかけるくだりでも、決して、一線は踏み越えずに、それは、少し、ほんの少し危険な雰囲気を香らせて終わるということ。
 今となっては、時代背景なども、異空間的に、リアルタイムの空気を知らない人間には、楽しんでしまうのだが、公開当時は、あくまで現代劇で、いわば、ある一組の夫婦の、ちょっとさざなみが立ったかもしれない期間の、物語ともいえないスケッチだ。

 ある時代までの映画におけるスター俳優たちについて思うのは、次から次へと撮られる作品への自分の存在の刻み方だが、それまでの自分がまとってきたイメージを100%応用して、観客に語りかけている。『めし』のヒロインも、それまでの原節子が演じてきた役どころでイメージされる性格が、そのまま、この映画のヒロインのバックボーンに、ムードとしてはスライドさせるのだ。膨大な数の物語を演じていた役者たちならではに許された手法だったのだろう、と思う。

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2013年6月25日 (火)

エリカとイズミの存在理由『クソすばらしいこの世界』『かしこい狗は吠えずに笑う』

『かしこい狗は吠えずに笑う』(6/23鑑賞 オーディトリウム渋谷)、
『クソすばらしいこの世界』(6/22鑑賞 ポレポレ東中野)

『かしこい狗は吠えずに笑う』は「狗」、『クソすばらしいこの世界』は「世界」と略します。

 さて、「狗」と「世界」の明らかな類似点は、ラストシーンにある。ある種ホラーのお約束的収束方法の、襲われた側の襲う側への一見同化は、この2つの作品の落としどころに困ってしまった観客には、ある意味、安らげさせられる表現である。
 「世界」の大きな特徴は2つあって、まずひとつは、主人公が、一見ひとりではないにも関わらず「孤独」である状況であり、その次が、あの「転校生」状態で発生してしまう殺人鬼化したエリカの存在である。
 この後半エリカと同じ効果を物語りに起こさせるもの、「狗」ではイズミがその役割を担う。「世界」は、まわりが何もない荒涼とした世界という具体的な舞台であるのに対し、「狗」は、平凡な町のひと風景ではあるが、完全ないじめられっことして存在させられている自分は、頼りになるものが何もないものを感じる状況も、荒涼な砂漠である。
 この「エリカ」と「イズミ」は、「襲う」側と「襲われる側」を行き来している。そして、それゆえに状況を理解しようというのではなく、どちら側にもいない自分に破綻を起こしている。
 そして「狗」も「世界」もヒロインは、つまり、怒りを爆発させたあとに一線を踏み越えてしまった感じを起こす。そう、アジュンも美沙も、もともと楽しい状況として描いていないので、物語的には、地獄からひとり脱出する、その感覚だが、狂気を経験したあとの、「もう昔の自分には戻れない自分」を感じている。その部分を時間をかけて描いていることで「ホラーの型を借りた女の子の心理のロードムービー」的なものを大きく感じることができる。
 ラストは、「世界」では極限状況で聴こえていた「メロディ」がトラウマ化したもの、そして「後半エリカ」とシンパシーを感じたかもしれない、心にポッカリあいた穴のようなものの象徴とでも言おうか。「狗」は、「イズミ」が辿った狂気の道筋に美沙も立っているのかもしれない、という、あくまでやはりある意味現実的な状況も踏まえた物語ゆえのメッセージとしての普遍性(彼女たちは、特別では決してない、ということ)を感じさせるか。
 もうひとつ気になったのは「世界」がとどめをしっかり映画の中で描いているが、「狗」は描かない、という物語方だ。「狗」は回想劇なので、あえて描かずに語る、という進め方が可能なので、ホラー感を最終的に印象付けさせないために、そこは直接描かない、という風に考えてみる。
 いずれにせよ、衝撃的な部分をもつ映画は、巧妙に、その影に隠れた感覚をあいまいにしかねない。が、ホラーではないタイトルを2本の映画がもったことで、注意を逸らされずに済んでいる、自分は、そう感じた。

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2013年6月24日 (月)

シャイさゆえの接写というのも考えられるが『顔役』

『顔役』於・シネマヴェーラ渋谷(特集・勝新太郎)鑑賞6月22日

 本当に、全体像が全く分からないレベルの接写につぐ接写。物語だけを冷静に思い起こすと、結構、静かな室内劇および静かな演技の箇所も多い。が、そんなシーンのはずが、手持ちカメラで、ものすごい接写の状態で、カメラは動きまくるので、画面が否応なく、ものすごい躍動感を作ることになる。思ったのは、この必要以上?の躍動感は、登場人物たちの心理の高揚感との一体を具体的に観客に起こさせるのではないかな、と思う。巨悪への挑戦的な部分との接触は『にせ刑事』とも似るが、そのアプローチの方法が、山本薩夫と勝新太郎の視点の違いなのだろうなぁ。
 音楽が村井邦彦で、異常にポップ&グルーヴィ。ちょっと『太陽にほえろ』的なものも感じる。ジャズファンクと刑事、というのは、クインシーやラロ・シフリンのファッションの流れから来るものなのでしょうね。

 ところで、感じたのが、勝新太郎がいかにもベビーフェイスということで、それを、いかにも海千山千面した役者たちが固めて、バランスが取れている、という感じなのだろう。

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2013年6月23日 (日)

ジャンル越えプロットにど派手ビッグバンド・ジャズ『にせ刑事』

『にせ刑事』
於・シネマヴェーラ渋谷(特集 勝新太郎)

  勝新&山本薩夫らしからぬ人情コメディなのか、という導入から、あれよあれよと物語は転がっていくかのようである。次第に、10分前とはすっかりジャンルが変化している、かのように畳み掛けていくが、最終的には、いかにも山本薩夫なテイストに落ち着かせていく。
 ビッグバンド調で、派手に鳴らしまくって、機嫌をあおる音楽は、日暮雅信。『ガッツジュン』『シルバー仮面』『ウルトラマンタロウ』などの劇伴で知られ、映画は、本作以降、ヤクザもの中心に仕事を見せている。のちにジャズ関連の教則本なども出しておられる。そして、そんな氏ならではのシネジャズである。
 そしてエンディング。「これから始まるぞ」(本当に、その感じ。)という颯爽とした感じで男たちの顔をアップで押さえるが、それは勝新の顔ではない。これが、スター映画でありながらのニヒルさでここちよい。

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2013年6月18日 (火)

あまりにも異色な「ミステリー」。『音楽』

『音楽』
於・ラピュタ阿佐ヶ谷(映画プロデューサー藤井浩明大いなる軌跡)
鑑賞6月16日

  相当妖しい結論に達していくものだと思っていたが、なんと、理路整然としたものよ。題材が、あまりにも異色だが、ちゃんと「ミステリー」になっているのである。「犯人は誰か」ではなく、「私はなぜ感じないのか」についてのミステリーである。ヘタしたら「知るかそんなもん」的な問題だけれども、さすがは70年代ATGならではの奇妙な愛欲話に発展していく。
 この映画をミステリーのはこにきっちりと入れる役目を果たしたのが、探偵役もとい精神科医師の細川俊之である。細川俊之も、この人自身の強烈なキャラクターを作り上げて、そこからブレない人だが、本作では、その細川ワールドが全開する。落ち着いた状態で興奮して声を張り上げる、という、まるで竹中直人の泣きながら笑う人のような名人芸である。
 後半の謎解きにおける彼は、あたかも、女の妄想の中にも立ち入っていくような存在となり、想像の舞台の中に裁判官たちが同席する大島渚『絞死刑』のイメージと重なってくる。
 エロさを音でも表現したいとばかり、喩えられる「ハサミ」の存在も、面白い。実際に上手い比喩かどうかではなく、聴覚のエロさをここで補っているのだろう。
 ATGの映画は、ともすれば、もし映画(スクリーン)を主役とすれば、こんな映画(マジメな大げさな、バッドジョーク)を、すました顔で見ている観客たちをこそあざ笑いたいがために存在するのじゃないか、と思えるひねくれっぷりで、さすがである。

 ところで、森次晃嗣の出演で、ウルトラ・チーム(怪奇も含む)って、スタッフもキャストも、濃い大人の映画の人たちが重なっているので、そのイメージが、再びウルトラを見直すときに、不思議な重厚さを納得してしまうのじゃないか、と思っている。

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2013年6月17日 (月)

悲劇にも涙を流す以外の味わい方がある。『遊び』

『遊び』於・ラピュタ阿佐ヶ谷(映画プロデューサー藤井浩明大いなる軌跡)
鑑賞6月16日

  起承転結ではなく、ひたすらに落ちていく話である。物語かどうかも分からない。若い二人が、ただ転落していく様を冷淡に見つめる映画である。ふたりは、自分が平凡だ、と意識している。確かに、彼らの回想と思しきシーンを見る限りでは、多くの家族においてありそうな貧しさの不幸である。
 その回の観客の話し声で、「あれは回想じゃなくて、妄想だろ。自分たちを不幸に見立てているんだろう」旨のことを話している。確かに、過去のシーンは「回想」として組み立ててあるので、全くもって事実と限らない。確かに、あれらの回想シーンは、逃げようのない境遇であり、彼らに同情を呼ぶことにしかなり得ない。
 確かに、自身に都合のいい?シーンのみを回想しているかもしれない。途中からは、自分たちの死をもう意識し始めて、覚悟をもって精神状態を生きている。追い詰められていく快感とでもいうのだろうか。
 もちろん、この映画は、定まった悲劇の形としてあるもので、社会派なわけではない。死に行く物語が美しいのではない。この映画は、そういうものだ、ということである。そして、涙を流してもらおう、というものでも、だから、ない。悲劇は、必ずしも、涙を流す以外の味わい方がある。

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孤立するプログラム・ピクチャー『蒼白者』

『蒼白者』於・ユーロスペース

 美男美女のラブ・バイオレンスとでもいいますか。ちょっとバイオレンスとアクションの違いを考えていたのだが、銃撃戦や格闘シーンが比較的長く存在する作品ならば「アクション」だと思うのだが、闘うのではなく、闇討ちほか、瞬時に生死を決めるシーンが多いものや、格闘ではなくリンチ的なものであれば、それはアクションじゃなくてバイオレンスだろうと思い、本作は、自分としては、バイオレンスに分類される。
 ヒロインの無表情さがカギだろうか。常が無表情なので、微笑んだときの意味合いが複雑になる。何重もの意味合いがありそうに思われる。男も、無表情を装うが、こちらは、翻弄される側で、見ていて、謎と思える部分は少ない。
 バイオレンス(もしくはアクション)で美男がピアニスト、となると、どうしても『柔道一直線』の近藤正臣の足指ピアノ(楽器の親指ピアノに非ず)を思い出してしまい、古いがこれはもうトラウマ的な刷り込みで仕方がない。裏社会を舞台にしていながらも、その屋敷の構えなどは、ハーレクイン・ロマンス的な、デフォルメした美意識があり、そこと裏社会バイオレンスをいびつに混ぜているのが、劇画的な興味である。
 その昔のプログラム・ピクチャーであったかもしれない風の荒々しさを多分ワザと残すのは、新作の作り手に、このジャンルを作る感触を忘れないようにするためか、とも思えた。さまざまなバイオレンスが存在する中の一本的たたずまいなのに、本作のみがポツンと孤独に存在しているように思えるからだ。

 パンフレットは存在する。監督と主演二人の鼎談、と、映画監督の井川耕一郎氏による、常本監督のフィルモグラフィーを一望できる監督論、フリーライターの磯田勉氏による日本の犯罪映画を考察する論。そして、大阪市を中心として撮影されたロケ地がわかるマップに、詳しいキャスト・プロフィール。スタッフ・プロフィールがないのが残念。

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2013年6月16日 (日)

倉科カナ・キャラの違和感で起る化学反応~ネオご当地映画『遠くでずっとそばにいる』

『遠くでずっとそばにいる』於・ユーロスペース 

  ソフトフォーカスで、優しくゆるやかに、だが乾いた感触で孤独感を捉えて、心地よさと心地悪さが同居する感覚は、岩井作品と似て、この世界観か、と感覚で理解しても、さらなる独特の(いい意味で)居心地の悪さは、倉科カナという人のキャラクターにある。他の役者は、長澤雅彦映画、というか、この映画世界の住人然として熔けこんでたたずんでいるのだが、主人公当人が、映画の登場人物的にテンネンなのである。
  物語は、ロマンティックでドラマティックな過去への旅なのだが、前半の倉科カナの天真爛漫さは、(『ウェルかめ』時の雰囲気とほぼ同じなので、地かもしくは得意キャラなのだと思う)他者との対比でドラマの深刻さを浮き彫りにさせるのだが、始終、過去の自分を信用していないながらも、その状況を当然の如く了承しているのが面白い。いわば「テレビや映画で聴いたことのある状況に、今、私がなっている。オモシローイ」という感覚で、もちろん、それは、恐ろしい真実になるべくなら向き合いたくない姿勢の大げさな現われと見る向きも当然あると思う。が、どうも、ドラマが進行するに当たって、シリアスな表情を見せるに至る推移を見る限りでは、自分をだます演技ではなくテンネンだ、ということを示すようである。
 結局、断片的なそれらしい事柄はわかりつつも、過去の自身の心情はわからない。それについて語るシーンも多く、へんな免疫ができてしまっていることに「さまざまなパターンのドラマが語りつくされてしまった時代」の不幸ともいえる状況が垣間見える。
 ところで、この映画は、秋田のご当地映画だが、ご当地映画の概念を覆す、おしゃれかつ詩的な「ネオご当地映画」として『百年の時計』とともに心に刻みたい。
 
パンフレットは、インタビューとプロダクション・ノート。長澤監督、倉科カナ、岩井俊二、そして主題歌(曲・岩井俊二)を歌う加賀谷はつみへのインタビュー、そしてロケ日誌と、ロケ地のわかる秋田マップ、そして狗飼恭子による、続編とも言うべきショートショート(小説)を掲載。これは新しい試み。

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2013年6月12日 (水)

ルクセンブルクという特殊性を生かしたミステリー『ミッドナイト・アングル』

『ミッドナイト・アングル』
(EUフィルムデーズ2013)6月11日鑑賞
於・イタリア文化会館B2ホール 
 
 一にも二にもルクセンブルク映画というものを観たことがなかったので(資本参加作品はあるけれど)なんと警察映画というか、ミステリーで、雰囲気も妖しい気分で、味わえそう、と思って観た訳ですけれども。
 丁寧な物語だと思う。複雑ながら整理がきっちりついた形で、さまざまな登場人物が現われ、その人物たちが、意外な役のものまで含めて、ドラマがしっかり書き込まれていて、なおかつ、「悲しい」。もう、ルクセンブルクの松本清張といえるぐらい、暗い過去を引きずった人生を隠しつつ、一見、平凡に事件を追っている。
 ということで、人間を描いた推理物として、なかなかの味で、青を基調として、雨の多い夜の都市の風景の甘い危険さがかっこいい。いかにも、大人の女性然とした女性たちの存在も、ドラマのスパイスとなっている。
 観終わってから、ルクセンブルクの地図を見た。広い街ではなく、コンパクトで整然とした中での冷ややかな猥雑さが映画には感じられた。
 そして、注目は、金融都市ルクセンブルクならではの事情が日常茶飯事的に描かれる。ちょっと「Gメン75」の一設定のような、この都市の特徴から生まれる危険さは、パリにもローマにもアムステルダムの舞台の映画にも、おそらく、ない。
 テイストは、やはりレフン映画あたりが好きな人は、味わいどころを沢山探し出せるだろう。

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2013年6月11日 (火)

デザインされたストーリー『オブリビオン』

『オブリビオン』於・109シネマズ川崎
 
  SFだからこそ考えられる思考の断片をつなげて、それらを、SF的に美しい視覚・聴覚でもってデザインした作品。そう、この映画ほど「デザインされたストーリー」という形容がぴったりくるものもない、と思った。
前半に興味箇所が少ない、という意見があり、それは、この形の作品のセオリーにならい、全てを見終わると、その意味も分かり、バランスとして、前半は存在するのだろうと思う。
 観ながら、何度も、自分の中では、思考を停止させた。多くの場面で「まさか、こんなシーンがあると思わなかった」という状況が起るのだ。それらを繋いでいるため、ストーリーは決して、クレバーではなく、冒険活劇としてみれば、あまりにも乱暴な物語で魅力に乏しいと思いかねない、と思う。が、例えば、早い時点で、SFアクションかと思いつつ、男ひとりに女ふたりの物語である異色さなどから、見る側に、狭義のアトベンチャーが真意ではなさそうという意識はうすうす形作られていくのだろうと思う。
 カットは細かく割られているのだが、タルコフスキー的なものも感じずにいられない。その最大の箇所は、物語の要として存在するが、作品のもつスピードが、決して「テンポよく」なのではなく、詩的な語り口のものに近いのではないか、とも思う。
 ああ、あの箇所についての論考、書きたい。何ヵ月後かに覚えていたら、蒸し返してみよう。
 そして、オルガ・キュリレンコの『故郷よ』を思いださずにいられず、「放射能に汚染された故郷」という2つの、スケールの違う物語での彼女の表情は、同じに見えて、深い。
 
 パンフレット。まるで、ちょっとした美術展のプログラムかと思えるほど美しい。キャストたちのインタビュー。個人的な印象では、モーガン・フリーマンが、最も、この映画を読み取っている気がする。
 レビューは映画評論家・添野知生が、メジャーSFの、本作と呼応する作品を想起しつつ作品論として。そして、プロダクション・ノートがものすごく精緻に展開。文字数ぎっしりだが、その文字構えさえも、ハードSFの様相も見せるこの作品ではふさわしく美しい。

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2013年6月 9日 (日)

例えば、自分の人生の三日間を映画化できるとしたら、いつにするか?『はじまりのみち』

『はじまりのみち』於・東劇 

  何を物語というか、ということなんですけれども、伝記もののスタイルに、①人生全体をダイジェスト的に見せるものと、②ある事件に焦点をあてて考察するもの、の大まかに二つのタイプがあると思う。『はじまりのみち』は、言ってみれば、いびつな映画なんだけれども、勝手に想像するに、①を製作側は考えて用意していたんだけれども、作り手は②にこだわった。②の方が①よりも、そのエッセンスをはっきり汲み取れる作品になるとトータルに判断され、現在に至る、そんな感じかな、と。
  というのは、この作品で描かれる事件というか生活のある三日間は、大作の中の三分、いや一分で語られてしまいかねない「何も起らない時間」である。この映画では、三日間に、何も起らない、ということが重要でもある。何も起らないから、ほんの些細なことが事件として捉えられる。そして、「考えた」ということをじっくりと描写することができる。
  この物語は、ある事件、というより、ある一言に向って、その一言がなぜしみるのか、ということに向ってまい進する物語である。余計な邪念などは描かれず、ちょっと移動時の単調さは、その単調さを味合わせるということも少しはあったりするが、そこは、全国松竹系の映画で、カタルシスのために長さありき、という作風はとらない。
  そして、久しぶりに、場所や時間を説明するテロップを見た気がする。この説明方法は簡易なわけだけれども、この作品では、そこで説明方法に凝って観客をうならせる映画でもなく、全国の、そして昔から「松竹映画」を見てきたファンたちの多くに届ける映画である、余計なことに凝っている場合ではなく、ここで説明しなければいけない箇所、についてだけ、回想と言う凝った手法ではなく、あくまで脚注的に挿入される際に使われる。
  アニメ的、と思えたのは、移動シーンが多い中で、フレーム中、人物の位置は移動することなく、バックの景色だけが動いていく、その撮り方だ。この描き方は、移動しているが、移動距離を感じさせない。ただがむしゃらに進んでいるさまを表現するには、有効な方法だろうと思う。
  こんなことを考えると、片っ端から見直していかなくてはいけなくなるのだが、これらの方法は、木下映画の手法でもあるのではないか、という仮説というか疑問。もちろん、そこにこだわらなくてもいいんですが、もし、そうならば、それに気づいたファンは涙せずにはいられなくなるだろう。
 
  パンフレット。かなり原恵一監督の作品であることに重点が置かれている。始めに、この企画の発端となった1955年の毎日新聞への木下監督のコラムが掲載。対談は3つ。原監督と加瀬亮、山田太一、そして中島かずき。それぞれ違うところのファン層の興味を近づける。主要キャストは、「撮影を終えて」的感想を少しずつ、ゲストキャスト、スタッフのプロフィールを詳しく、絵コンテの掲載、超重要なラストカットも載っている。
 木下監督のプロフィールは1ページ、そして当時を知っている長部日出雄のコラム。物語のロケーションの解説、登場する木下作品の解説も長部氏による。
  
  うすうす、見た人々は感じているだろうけれど、加瀬氏が対談中、作りたい映画が作れない状況が、今と似ている、という。幸い、この作品は、公開されたし、この劇場用パンフレットも読むことができている。
 

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2013年6月 2日 (日)

過去の自分が現在の自分の観客となる『百年の時計』

『百年の時計』於・テアトル新宿 
 
  ご当地映画であるため、映画を見慣れていない観客たちにも優しい作品なのだろうと思っていたのだ。そして、その構造の中で、どう楽しませてもらえるか、と。
 ところが、これが後半が大変なことになる。そして、ありがたいのは、大変なことになる前準備が前半の中で少しずつ試され、さあ、やりますよといわんはかりのお膳立ての上で、後半の大幻想ノスタルジアに突入する。
 現在の自分が、過去の自分を遠い目で見つめるシーン。そう、このふたつが同じフレームに登場する。過去は、ややセピア的に脱色されている。その調子で、過去のシーンは基本的には、脱色されている。
 多くの重要なシーンは、コトデンの車両の中で進行する。まず「ああ、これがしたかったのだな」的展開は、憧れの女性が夢のようなセリフを口にするとき、バックの車窓も、海辺を走っているところで、最も美しい景観が展開している時なのである。そう、電車内で行われているから、都度、車窓の眺めは違うのだ。
 後半の大スペクタクルでは、過去と現在、そして過去の現在的解釈が同居してくる。そして、この中では、主人公たち以外の人物たちのドラマを次々と走らせ、全くそれらを回収はせずに、スケールを広げるだけ広げて驀進する。そして、目的地?について、多くのオーディエンスに囲まれての下車、ここで現在と過去の感動的な立場逆転も描かれる。
 『1999年の夏休み』での引用があまりにも強烈だった中村由利子のメロディは、始まって、このシーンまでは悲しげではない美しいメロディを奏でているが、このシーンで様子が変わる。『1999年の夏休み』すなわち『風の鏡』当時のノスタルジーと簡単に言い尽くせない美しく哀しいあの感じに戻るのである。そして、ここで、まるで「ファンの方、ここで終
わってほしいと思える人は、ここでご自身でエンドマーク、ということでどうぞ」的な仮ラストが用意される。
 がしかし、そこで終わると、例えば寅さん映画しかちゃんと見たことない、的な人たちはついていけないかな、といわんばかりに、主要人物たちのラストの丁寧なドラマの帰結が行われる。
 エンドタイトルが中村由利子ピアノではなく、タイアップソングなのが、すごく残念だ。
 
 パンフレットには、作品評は、映画評論家の大久保賢一氏と、七里圭監督のものが掲載されているが、大久保氏が引用される事象について触れつつ解説、七里監督は、本作のストーリーテリングの大胆さについて驚愕している。

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あまりにも贅沢な感動のラウンジ映画『アントニオ・カルロス・ジョビン』

『アントニオ・カルロス・ジョビン』於・K’s CINEMA
(大人の音楽映画祭) 
 
  究極のラウンジ音楽映画である。本当に、説明、解説一切なしで、ライヴ映像と貴重な映像資料のコラージュのみの作品なので、例えば、はじめて、この音楽に接する人は、どう、楽しむきっかけを作るだろうかとは思ったが、面白いのは、さすがに作った曲の多くがスタンダードとなった巨匠だけあって、世界各国のさまざまな年代のいろんなミュージシャンが同じ曲を取り上げていて、それらをまるでメドレーのように見せるところは、ものすごい贅沢である。はじめ、60年代の風物なども取り入れて見せるのかなと思しき映像がタイトルバックだが、本編に始まると、いきなりガル・コスタのパフォーマンスでスタート。本人の映像に、シルヴィア・トレス、ミルトン・ナシメント、シコ・ブアルキなどの黄金期の人々から、カルリーニョス・ブラウン、アドリアーノ・カルカニョート、パトフのフェルナンダ・タカイといった新世代、そして世界のポピュラー畑からフランク・シナトラ、サミー・デイヴィス・ジュニア、ジャズ・ヴォーカルの御所サラ・ヴォーンやエラ・フィッツジェラルドなど、そして海外ではピエール・バルーからはじまり、リオ、ミーナ、日本からはなんとマルシアに、小野リサが登場。これらのアーティストが数分ごとに登場するのだから、贅沢極まりなく、かつ説明なしのため、これはBGVとしても使えるな、なんてバチあたりのことも考えたりする。画質は悪かったが、それだけにあまりにも貴重のため収めた、と思えるジュディ・ガーランドあたりも感動。雰囲気変わって、ダイアナ・クラールのリオ・ライヴなんてのもあった。
 ラストはカーネギーホールでの本人のイパネマの娘のピアノ弾き語り。そして大勢の観衆の拍手喝采があるのだが、これが粋なのが、いろんなライヴ映像からの喝采シーンをコラージュするのである。いつの時代、どこでも愛された、ということだ。
 その反面、例えば、ジョアン・ジルベルト、アストラッド・ジルベルトに代表される重要人物で出てこないものもあるが、これは権利的な事情などに拠るものだろう。こういった映像集成を作るには、もちろん、パーフェクトとはいかないものだ。
 
 久しぶりに、この辺を聴きたくなったのは、もちろんである。

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この物語がこのタイトルである意味 『リアル 完全なる首長竜の日』

『リアル 完全なる首長竜の日』於・東宝試写室(鑑賞日4月23日) 
 
 夢と現実の複数の逆転現象については、そういう設定である、というぐらいにしかもはや関心がないが、途中で、推察される設定、すなわち、脳波に人為的に対被験者と同じ箇所に刺激を与えることで、その後の精神生活に支障をきたすかもしれない、という仮説は実際として興味深い。幻覚や、多くの心霊現象体験のいくつかは、これで説明がつくであろうことが思われるからである。この設定を膨らませるのなら面白かったのだが、結果は、より平凡なものに向ったという感じ。
 そして、気づけば、これは、ものすごく行動範囲が狭い物語で、登場人物もかなり限られている。舞台設定において、これは想像の世界だから、限界がある、と説明するところが面白く、本来は、想像の世界だから限界がないのじゃないのか、と突っ込みたくなり、これはすなわち「煮詰まった時の作家の心の中」を具現化しているのだとして、そうすると、実は、この映画は壮大なギャグなんだ、とわかる。
 
 パンフ未入手のため、こちらは後日。

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出ました逆さエンドクレジット『イノセント・ガーデン』

『イノセント・ガーデン』於・TOHOシネマ・シャンテ 
 
 映画は、冒頭でインパクトを見せて、そこから引き込ませようと、例えば極端な長回し(最近だと『プレイス・ビヨンド・ザ・バインズ/宿命』)で始めたりするけれども、この映画は、まず、タイトルで遊んできた。
 ものすごく後味の悪いバイオレンスにもなりかねない物語を、初期・森田芳光ばりの映像遊びで見せるため、ユーモアというか、無邪気さがそこでは漂ってくる。残酷なシーンも、目をそむけることはないのだが、ショットに工夫がされているので、生々しさは感じられない。ディテールの仕掛けは、本当に膨大で、それによって注意は逸らされ、謎の数を増大させる。
 それにしても、ナチュラルなシーンはひとつも作るまいとするテンションがとにかく圧倒的で、その圧倒さ加減が、物語の妖しさを凌駕している。ぶっちゃければ「遊びすぎ」と個人的には思うのだが、ストーリーがシンプルなため、例えばキャラクターのディテールを膨らませるという方向にしないのであれば、この決断は仕方ないかな、とも思う。
 では、キャラクターは膨らませないか、と問えば、おそらく、この物語の味わい方としては真っ当で、生々しいとだめなのである。それは、現実か空想か、そして、少しずつ時間軸をいじりながら進める見せ方も、リアルからとにかく遠ざかろうとする工夫がある。
 物語の設定が、(具体的には書かないが)『オールドボーイ』と呼応する、と思った。ただし、韓国映画としての猥雑なバイタリティいっぱいの中でのエネルギッシュさとは、客観的に熱量が違う。こっちの映画は、クール・ビューティじゃないといけない。
 ところで、実は思い切り「ギルティ・イン・ガーデン」じゃないか、ということですよね(ネタバレ的に)。 
 パンフレットは、監督・主要キャストのインタビューがメイン。コラムは高橋諭治氏(映画ライター)と山崎まどか氏(コラムニスト)の共に作品総論。マシュー・グードが語る「ベルイマンのようなところがある映画」が気にかかった。肝心のウエントワース・ミラーのインタビューがないじゃないか、とちょっと思いましたが、もともと覆面原稿だから仕方ないですか。

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2013年6月 1日 (土)

豊潤にみせつつも実はストイックなメッセージ『パパの木』

『パパの木』於・シネスイッチ銀座 
 
 究極のアート・フィルムにしうる題材を、その誘惑に屈せず、一般劇映画の側にしがみついたとでも言える映画である。というのも、回想を交えて主観的に拠る語り口になるかと思えるところを、そのような描写は一切せず、現在生きている家族の表情を、可能な限り豊かに切り取ろうとする、そんな姿勢。
 表情のない、行き場のない世界にならずに進行できるのは、やはり、あの「木」のあまりにも異様な威厳のダイナミックさであり、そこから見える自然の表情を取り入れることで、映画自体をスペクタクルにしている。映画のスペクタクル性は、ラストで思い切り現われるが、それ以外には、一見、平凡な設定ながら、その人物を置くことで、ドラマを進行させられる、家族以外の男の存在。彼の存在が、ドラマを複雑に膨らませる、ということはなく、そういうところにこの映画の主眼はないのだ、ということがわかる。そのため、彼の存在による、後味の悪さのようなものを作ることはない。ドラマがあるようでないようであるようでないようで。優等生的につんと済ませて出来上がっている映画だが、考えれば、相当尖ったミニマルさに落ち着いている気がする。
 そう、ラストのスペクタクルは、すごいスケールを持って、見せるけれども、一瞬映るある描写。あの描写のために、ラストはある。家族の心が動いた、一瞬の描写。
 
 さて、この映画に必要な「知識」は何か、も難しいところで、監督インタビューを軸に秦早穂子氏のコラム、長田弘氏の詩「アメイジング・ツリー」の引用、エンディングに流れるシネマテイック・オーケストラ「トゥー・ビルド・ア・ホーム」の歌詞が掲載。監督のジュリー・ベルトゥチェリは、キエシロフスキや、タヴェルニエなどの助監督を務めた面があり、監督論的なものがあってもよかったかもしれないが、監督インタビューはそういう方向には向いていかない。
 物語の骨格としては、面白いのは、夫の死により、みな失意になりつつも、中でも衝撃大きい妻(子供たちにとっては母)を子供たちが強く見守る、という構造だ。この家族喪失からのドラマは多いが、この設定は、新しくかつリアルじゃないかと思うのだが、どうもそういうことを考えるものでもなさそうである。

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