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2013年6月 9日 (日)

例えば、自分の人生の三日間を映画化できるとしたら、いつにするか?『はじまりのみち』

『はじまりのみち』於・東劇 

  何を物語というか、ということなんですけれども、伝記もののスタイルに、①人生全体をダイジェスト的に見せるものと、②ある事件に焦点をあてて考察するもの、の大まかに二つのタイプがあると思う。『はじまりのみち』は、言ってみれば、いびつな映画なんだけれども、勝手に想像するに、①を製作側は考えて用意していたんだけれども、作り手は②にこだわった。②の方が①よりも、そのエッセンスをはっきり汲み取れる作品になるとトータルに判断され、現在に至る、そんな感じかな、と。
  というのは、この作品で描かれる事件というか生活のある三日間は、大作の中の三分、いや一分で語られてしまいかねない「何も起らない時間」である。この映画では、三日間に、何も起らない、ということが重要でもある。何も起らないから、ほんの些細なことが事件として捉えられる。そして、「考えた」ということをじっくりと描写することができる。
  この物語は、ある事件、というより、ある一言に向って、その一言がなぜしみるのか、ということに向ってまい進する物語である。余計な邪念などは描かれず、ちょっと移動時の単調さは、その単調さを味合わせるということも少しはあったりするが、そこは、全国松竹系の映画で、カタルシスのために長さありき、という作風はとらない。
  そして、久しぶりに、場所や時間を説明するテロップを見た気がする。この説明方法は簡易なわけだけれども、この作品では、そこで説明方法に凝って観客をうならせる映画でもなく、全国の、そして昔から「松竹映画」を見てきたファンたちの多くに届ける映画である、余計なことに凝っている場合ではなく、ここで説明しなければいけない箇所、についてだけ、回想と言う凝った手法ではなく、あくまで脚注的に挿入される際に使われる。
  アニメ的、と思えたのは、移動シーンが多い中で、フレーム中、人物の位置は移動することなく、バックの景色だけが動いていく、その撮り方だ。この描き方は、移動しているが、移動距離を感じさせない。ただがむしゃらに進んでいるさまを表現するには、有効な方法だろうと思う。
  こんなことを考えると、片っ端から見直していかなくてはいけなくなるのだが、これらの方法は、木下映画の手法でもあるのではないか、という仮説というか疑問。もちろん、そこにこだわらなくてもいいんですが、もし、そうならば、それに気づいたファンは涙せずにはいられなくなるだろう。
 
  パンフレット。かなり原恵一監督の作品であることに重点が置かれている。始めに、この企画の発端となった1955年の毎日新聞への木下監督のコラムが掲載。対談は3つ。原監督と加瀬亮、山田太一、そして中島かずき。それぞれ違うところのファン層の興味を近づける。主要キャストは、「撮影を終えて」的感想を少しずつ、ゲストキャスト、スタッフのプロフィールを詳しく、絵コンテの掲載、超重要なラストカットも載っている。
 木下監督のプロフィールは1ページ、そして当時を知っている長部日出雄のコラム。物語のロケーションの解説、登場する木下作品の解説も長部氏による。
  
  うすうす、見た人々は感じているだろうけれど、加瀬氏が対談中、作りたい映画が作れない状況が、今と似ている、という。幸い、この作品は、公開されたし、この劇場用パンフレットも読むことができている。
 

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