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2013年6月 1日 (土)

豊潤にみせつつも実はストイックなメッセージ『パパの木』

『パパの木』於・シネスイッチ銀座 
 
 究極のアート・フィルムにしうる題材を、その誘惑に屈せず、一般劇映画の側にしがみついたとでも言える映画である。というのも、回想を交えて主観的に拠る語り口になるかと思えるところを、そのような描写は一切せず、現在生きている家族の表情を、可能な限り豊かに切り取ろうとする、そんな姿勢。
 表情のない、行き場のない世界にならずに進行できるのは、やはり、あの「木」のあまりにも異様な威厳のダイナミックさであり、そこから見える自然の表情を取り入れることで、映画自体をスペクタクルにしている。映画のスペクタクル性は、ラストで思い切り現われるが、それ以外には、一見、平凡な設定ながら、その人物を置くことで、ドラマを進行させられる、家族以外の男の存在。彼の存在が、ドラマを複雑に膨らませる、ということはなく、そういうところにこの映画の主眼はないのだ、ということがわかる。そのため、彼の存在による、後味の悪さのようなものを作ることはない。ドラマがあるようでないようであるようでないようで。優等生的につんと済ませて出来上がっている映画だが、考えれば、相当尖ったミニマルさに落ち着いている気がする。
 そう、ラストのスペクタクルは、すごいスケールを持って、見せるけれども、一瞬映るある描写。あの描写のために、ラストはある。家族の心が動いた、一瞬の描写。
 
 さて、この映画に必要な「知識」は何か、も難しいところで、監督インタビューを軸に秦早穂子氏のコラム、長田弘氏の詩「アメイジング・ツリー」の引用、エンディングに流れるシネマテイック・オーケストラ「トゥー・ビルド・ア・ホーム」の歌詞が掲載。監督のジュリー・ベルトゥチェリは、キエシロフスキや、タヴェルニエなどの助監督を務めた面があり、監督論的なものがあってもよかったかもしれないが、監督インタビューはそういう方向には向いていかない。
 物語の骨格としては、面白いのは、夫の死により、みな失意になりつつも、中でも衝撃大きい妻(子供たちにとっては母)を子供たちが強く見守る、という構造だ。この家族喪失からのドラマは多いが、この設定は、新しくかつリアルじゃないかと思うのだが、どうもそういうことを考えるものでもなさそうである。

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