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2013年6月30日 (日)

原題と邦題は視点が逆?『ファインド・アウト』

『ファインド・アウト』於・新宿武蔵野館(鑑賞6/24)

 この映画を良質サスペンスぐらいの考えで見ることには抵抗があって、というのも、この映画の全貌を最終的に思い起こす限り、どこがポイントかというと「被害者でしかない自分が、信じてもらえないばかりか、犯罪者扱いされる」というところにあり、それがスパイものとかではなく、変質者に襲われた被害者の話、というところの恐ろしさである。眉唾になってしまうのは、ヒロインが、行く先々でその都度、違う嘘をついて急場をすり抜けていくことで、これが「ドンデン返しありミステリー」と勘違いさせてしまう、いらないワザのような気がしないでもない。
 この「真相」については意外な展開にはならない(「真相」以外には、意外な展開がある)この物語は、現実性も帯びている。例えば、日本でも、さまざまな、警察に訴えていても・・・という事件は報道されているし、それは氷山の一角のような気はするし、そうなると、この作品のヒロインのような対峙法しかなくなってくるのじゃないか、という、現実への皮肉をこめた提示のように見えてくるのだ。
 偶然、アマンダ・セイフライドが超メジャーになったために公開の運びとなったのだろうと思うが、未公開DVDスルーにならなくてよかった作品だとは思う。
 
 タイトルについて。原題の「Gone」は「行方不明」ぐらいの意味合いと思う。もちろん、いろんな意味を含む、といいたくて、シンプルなタイトルにしているのだろうけれど、ひねった解釈はないと思う。邦題の「ファインド・アウト」は真相を知る(見つける)など、結果の話なので、いかにもドンデン返しミステリーですよタイトルになってしまっている気がする。まあ、そうしてでも見せたい、という心意気はアリかもしれないが。

 パンフレットは、プロダクション・ノート中心、インタビューも、それぞれを褒め称えるだけのパターン。コラムはよしひろまさみち氏(映画ライター)のアマンダ・セイフライドに焦点を当てるのかと思いきや、作品の印象論で、セイフライドの俳優論でもない。

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